第四章 浄化作用と再浄化

 

5、我と執着

 

「(前略)信仰の一番肝腎な事は執着を除る事である。(後略)」     

                                                   

 (昭和24年5月21日)

   

「信仰の主要目的は我と執着心を除る事」

「凡そ世の中の人を観る時、誰しも持ってゐる性格に我と執着心があるが、之は兄弟のようなものである。凡ゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解決しないのは、此我と執着に因らぬものは殆んどない事を発見する。
例えば政治家が地位に執着する為、最も好い時期に挂冠すべき処を、時を過して野垂死をするような事があるが、之も我と執着の為である。又実業家等が金銭に執着し、利益に執着する為、反って取引先の嫌忌を買い、取引の円滑を欠き、一時は利益の様でも、長い間には不利益となる事が往々ある。又男女関係に於ても、執着する方が嫌われるものであり、問題を起すのも、我執が強過ぎるからの事はよくある例である。其他我の為に人を苦しめ、自己も苦しむ事や、争いの原因等、誰しも既往を省みれば肯く筈である。
  以上の意味に於て、信仰の主要目的は我と執着心を除る事である。私は此事を知ってから、出来るだけ我執を捨てるべく心掛けてをり、其結果として第一自分の心の苦しみが緩和され、何事も結果が良い。或教に「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉である。

(中略)
  従而信仰を勧める上に於ても、執念深く説得する事は熱心のようではあるが、結果はよくない。之は信仰の押売となり、神仏を冒涜する事となるからである。凡て信仰を勧める場合、ちょっと話して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるのを差控え、機の到るを待つべきである。」 

 

                   (「我と執着」昭和24年1月25日)

  

「霊界の修業も最大目標は執着を除る事」

「(前略)そうして霊界に於る修業の最大目標は執着を除る事で、執着の除れるに従い地位が向上する事になってゐる。
それに就て斯ういう事がある。霊界に於ては夫婦同棲する事は普通は殆んどないのである。それは夫と妻との霊的地位が異ってゐるからで、夫婦同棲は天国か極楽人とならなければ許されない。然し乍ら或程度修業の出来た者は許されるが、それも一時の間である。
その場合、その界の監督神に願って許されるのであるが、許されて夫婦相逢うや、懐しさの余り相擁するような事は決して許されない。些かの邪念を起すや、身体が硬直し、自由にならなくなる。その位執着がいけないのである。故に霊界の修業によって全く執着心が除去されるに従って地位は向上し、向上されるに従って夫婦の邂逅も容易になるので、現界と如何に異うかが想像されるであろう。そうして曩に述べた如く、執着の権化は蛇霊となるのであるから怖るべきである。(後略)」

 

(「我と執着」昭和24年1月25日)

 

 

「我を出さない事、素直にする事、嘘をつかない事が信仰の妙諦」

「凡そ人間生活上、我程恐ろしいものはあるまい、霊界の修業は我をとる事が第一義とされてゐるにみても知らるるのである、私は以前大本教信者の時お筆先の中に斯ういう一節があった、「神でさえ、我でしくじりたのであるから、我程怖いものはないぞよ」とあり又「我がなくてはならず我があってはならず、我があって我を出さないのがよいのであるぞよ」とあり、此意味たるや実に簡単にして我の実体を道破してゐるには感銘に堪えなかったのである、それによって私も大いに反省した事は勿論である。
  又お筆先に、人間は「素直が一等であるぞよ」との言葉も、実に至言と思った、というのは、今日まで私の言う事を素直に聞いた人は洵に順調に行き失敗はないが、我の強い為なかなかそうはゆかない人もある、その為よく失敗するのをみるのは、実に辛いものである。右の如く我を出さない事と、素直にする事と、嘘をつかない事が先づ信仰の妙諦である。」   

 

(「我を去れ」昭和25年2月18日)
 

 

「我で失敗する信仰不感症の人間」

「普通常識からいえば、世の為に尽すとか、人を幸福にするという事は善い事に違いないから、賛意を表し援助をしたくなるのが真の人間性である、処が不可解にも甚だ冷淡に振舞う人をよく見受けるが、そういう人は案外多いようである、彼等の偽らざる心情は、世の為とか人の事などはどうでもよい、そんな事は骨折損の草臥れ儲けにすぎない、すべては自分だ、自分に利益がある事だけすればいい、それが一番利巧だ、そうしなければ金を儲けたり出世したりする事は不可能だと思ってゐるらしい、実は斯ういう人の方が反って利巧に見えるものであるから、世の中は可笑しなものである。
  従而、此種の人は自分がどんな苦しみに遭っても唯物的打算的に考える、即ち病気は医者にかかればいい、面倒臭い事は法律の力を借りればいい、言う事を聞かない奴は叱言を言うか痛い目に遇はせてやればそれでいいと甚だ簡単に片附けて了う、又吾さえよければ人はどうでもいいとする主義だから、自分だけが贅沢に耽り、他を顧みようとしない為全然徳望などはない、集る輩は利益本位のみであるから、一朝落目になるとみんな離れて了う、勿論斯ういう人に限って年中問題や苦情の絶えた事がない、終には何事も巧くゆかなくなり、失敗するとそれを我で挽回しようとして焦り、無理に無理を重ねるのでいよいよ苦境に陥り、再び起つ能わざるに到るもので、斯ういう例は世間あまりに多く見受けるのである、勿論信仰の話などには決して耳を傾けない、眼に見えない神や仏などあって堪るものか、それ等はみんな迷信である、神仏は人間の腹の中にあるんだ、俺だって神様なんだよと誇らしげに言うのみか、そんな事に金や時間を使うのは馬鹿の骨頂である、信仰などは弱虫の気休めか閑人の時間ふさげに過ぎないとしてテンデ相手にならないのである。
  斯ういう人を称して、吾等は信仰不感症と言うのである。」

                                           

 (「宗教不感症」昭和25年4月8日)

  

「相手の感情を害ねないよう我を通さない事」

「(前略)特に個人の場合大いに心すべきである。何といっても人間は感情に左右されるもので、小さな事でも感情を害ねる事が案外不利益で、それには我を通さない事である。つまり相手のいう事が少々間違っていても、それに合槌を打ってやる雅量である。又何事も勝とうと思わないで負けてやる事で、負けるが勝というのはいい言葉である。私はいつもその方針にしているが、結果は反っていいものである。(後略)」  

 

 (「評判と感情」昭和28年10月28日)

 

 

「我の強い人は病気も長引く」

「私が幾多の経験上、面白い事には病気と其人の性質とが好く適合してゐる事を感ずるのである。例えば病気治療の場合、よく判るのであるが、素直な性質の人は素直に治ってゆき、淡白な人は病症も淡白である。それに引換え、我の強い人は其如く病気も長引く傾向がある。従而、頑固な人は病勢も頑固である。心の変り易い人は病気も変り易く、皮肉な人は病気も皮肉な経過を辿るのである。
  此理に由って考える時、療病に際し、此事をよく知って、其人の悪いと思ふ性質を治してゆく事は、取不直、病気に好影響を与える訳になるのである。それは、何事も素直になる事が最も可いのである。」               

 

(「病気と人間の性質」昭和11年4月13日)

  

「我をとり、先方に応ずる様に話すること」

「(前略)この人にはこういう事を言えば分る、しかし又人によって違うのです。この人にうまく言った事を他の人に言っても分らないのです。人を見て法を説けという事です。それは別に考えなくても自然になるものです。その人の心が素直になって、要するに邪念がなくなると、自然にその人の急所に行く様になるのです。
それがそうならないということは、その人に我があったり邪念があって、自分が喋ろうということになるから、それでスーッといかないのです。この教えは応身というのですから、先方に応ずる様にすると、丁度先方に触れる様な話になってしまうのです。これは中々易しくて難かしいのです。それが一つの修行です。そこに行く様に段々やる事です。そうすると急所にいくから、先方でなるほどと心が動くというわけです。(後略)」
                         

(御垂示録16号 昭和27年12月1日)

 

  

「素直、運命に従順という事が一番よい」

「(前略)だから一切、現われる事、人から交渉ある事も、住む土地も、みんな因縁があるのです。つまらないような事でも、それに従わないと、やっぱり悪いのです。よくそれを通して自分の思ったとおりを突き抜こうとしますが、ロクな事はないです。だからそういうのは我です。“よし、オレがこう思ったら、誰が何んと言ってもやり抜いてみせる”“どんな事情があってもやり通してみせる”という、これが危ないのです。それよりか、ちょっとやってみていけなければ止してしまうのです。さっぱり信念がないように見えますが、ところがそうではないのです。つまりそこで素直、運命に従順という事が一番よいのです。これは決して間違いない事です。間違いなければうまくゆくのです。ところが、どうも人間というのは“精神一到何事か成らざらん”主義で、なかなか素直にゆかないのです。(後略)」                            

 

 (御垂示録29号 昭和29年3月1日)

 

 

「我と執着をとるには」

(我と執着をとるための最も手近な具体的方法について。)


  それをとらうと強く思つてゐれば自然にとれる。自らとるべきである。人間は我と執着によつて不幸をつくる。あらゆる事は神がなされてゐる事を意識すべきで、自分の力を頼らず神に縋るべきである。信仰雑話を幾度もよく読む事である。」
                            

(地天 第11号  妙智之光 昭和24年12月20日)

 

  

「時に従い、我と執着をとる」

「(前略)今後分会や支部の家を見つけるのも無理をしないで時をまつのがよい。果報は寝て待てとはいゝ言葉です。果報はねって(練って)待てといふ人もあるがさうではない。つまり寝て待てとは忘れる事、執着をなくしてゐる事です。徳川家康の「鳴くまで待たうほとゝぎす」、あれがいゝのです。信仰してゐる人は神に御任せする考へになるから悠々としてゐる。種を蒔き時を待つのが本当です。神様の事を人に教へても最初は信ぜず、やがて向ふから求めてくる事がある。之は蒔いた種が魂の中で育つんです。「あんな人に話をしても無駄だ」等といふ事はない。種をまいて時を待つ事です。すべて人間は今迄「時」といふ事に関心がなかった。「時」位絶対力のものはない。之に逆うから失敗したり苦しんだりするのです。先づ時に従ふ事、あとは我と執着をとる事です。この三つを守れば常にうまく行くんです。(後略)」                         

 

(御光話録  昭和23年8月18日)

 

  

「我と執着をとろうと思うこと」

(我と執着をとるための最も手近な具体的方法に就て御伺ひ申し上げます。)


  とらう!と思ふんですよ、之が一番いゝ方法です。「俺は我と執着をとるんだ」と始終思ってれば自然ととれますよ。我は自分にあるんだから、自分でそう思へばいゝ。人にとって貰ふ訳には行きませんからね。(笑声)我と執着のために人間は不幸を招くんだから、之をとるといゝ事が来ますよ。霊界でも霊に執着があると天国へは上れない。執着がとれれば上れるんです。同じ様に人間にも執着があっては駄目です。私も以前は執着があったのですが、さらりととってしまいました。とるのは何でもないですよ。といふのはね、すべて神様がやって居られる――といふ事を意識するんです。自分がやってると思ふとなかなかとれない。だから、自分で思ふ様に行かない場合は、これは何か神様が必要があってなさって居られるのだ――と思ふ事です。」    

                                            

 

(御光話録4号  昭和24年2月28日)

 

「我と執着をとらうと思っていればとれる。とれないのは思ひ方が足りないのと焦りである。気長に構えれば段々にとれる。簡単にはとれない。朝早く起きるのがいいと分っていても起きない。以前大本教をしていた時、私は神様の話になると徹夜になり暁方になって寝るから朝十時頃起きた。それで朝寝坊といふ雅号をつけた。
  又哲学を研究していた時、或人の本に「人間は第二の人格を作るべきだ」といふのがあった。それ以来私は第二の性格を作るようにした。
  然し我がなくては働きがないからあってもいい。お筆先に「此方は我でしくじった神」といふのがあった。我があっても出さぬがいい。善の執着はいい。私なども人類救済の大きい執着がある。」

                                         

 (昭和23年11月27日)

「それをとらうと強く思っていれば自然にとれる。自らとるべきである。人間は我と執着によって不幸をつくる。あらゆる事は神がなされている事を意識すべきである。自分の力を頼らず神に縋る。信仰雑話を幾度もよく読む事である。」

 

           (年代不詳)

  

「我とは主観の事で、客観的になること」

「(前略)竜神、天狗は我が強いです。今度本にも書いたのですが苦しみといふのは我と執着があるからであって、之は本当ではない。我とは主観の事で、自分の思ってゐる事が正しいと思ふ事です。だからつまり主観をすてゝ客観的に、自分を離れて自分を見る事が大切です。理屈をつけるのは我です。――自分で自分の間違いが判らないのは、それは智慧がないからです。だから智慧を磨かねばいけない。――信仰の標準は智慧と誠です。自分のしてゐる事がいゝか悪いかも判らなくては駄目です。(後略)」

 

                       (御光話録  昭和23年8月28日)

  

「下の人の言う事は聞かないというのが我」

(智慧は神様から教へて頂けるものと考へて宜しいでせうか。)


  そうです。所が自分の我があるとそれをふさいで了って頂けないのです。ですから素直になる事です。世間には自分より偉い人の言葉はよく聞くが、下の人の言ふ事は聞かないといふ人が多いがそれが我なんです。下の人の言ふことを聞く事が雅量です。
私でも部下の人の言ふ通りにしてやる。傍で見ると「大先生は何故あんな事を聞いてやるのだらう」と思はれる程ですが、それだから人々は喜んで働くのです。きっと失敗する様な事を「どうでせうか?」と言って来ると、私は「よい」と答へる。そうするとその人は失敗する。所が失敗して初めてその人は悟るんです。智慧と誠とあとは常識です。で、本当の事は常識に合って居り合理的です。(後略)」

 

                  (御光話録  昭和23年8月28日)

  

「我があって出さないのが良い」

「(前略)我と執着がなくちゃいけない。けれども又、これを外へ出しちゃいけない。(笑声)大本の御筆先に「我がなくてはならず、我があって出さぬがよいぞよ」とありますが全くうまく言ってますね。――我がなかったら駄目ですよ、アンポンタンになっちゃふ。(爆笑)我を腹にしまっておいてその上で素直になるのが一番いゝんです。」

 

                (御光話録14号  昭和24年8月3日)

  

「スラスラ行くことなら続けてやればいい」

「(前略)物事がスラスラ行くんならやってっていゝんです。といふのは、この信仰に入ってると、その仕事をどんどん続けてやっていゝ場合には万事が順調にスラスラ行くんです。所が若し続けてはいけない場合には神様がおとめになるため、いろいろな故障が起ってスラスラ行かないものなんです。だから、何かと故障が起る時には止めたらいゝんです。
  又、どうする事も出来ない程事業が駄目になったら、それはその仕事をやめてこの信仰の事をやれっていふ神様の御意志と解していゝんです。この前こんな事があったんですよ。或る農家で八頭の牛が皆次々に死んでしまったんです。之は何の意味かって訊かれたんですが、こんなのは神様が農業をよせって御知らせになってられるんですね。そういふ場合、神様はその仕事がもうやって行けない様にしむけて下さるんです、そしてその代り御浄霊の方を忙しくして下さる、そんな具合にちゃんと段取りをして下さるんですよ。だからその通りやって行けばいいんで、それが「惟神(カムナガラ)」なんですよ。それを、そういふ時に「我」を出して、何が何でもやらうとすると却って苦しむ事になるんですよ。」                    

 

 (御光話録16号  昭和24年11、12月)

  

「無理はいけない、種を蒔いて時を待つ」

「(前略)果報は寝て待てといふが、要するに寝ている位に関心を持たぬ、忘れているといふ事で、執着を持たぬ事である。そういふ楽な気持でなくてはならぬ。
  無理はいけない。信仰へ入れるんでも、種を蒔いて時を待つ事である。凡て人間は時といふものに関心を持たな過ぎた。一番絶対力のあるのは時である。人間の方で時に逆ふ事をよくやるので、失敗したり苦しんだりする。人間は時に従はなくてはならぬ。人間の気持で、我と執着で意地を通す事が一番いけない。
  天地惟神之大道といふが、惟神は神に習ふ事で、之は自然の道ともいえる。神のまにまに――。天地とは大自然といふ事、大自然に習ふ訳である。」

 

                    (昭和23年)

   

「心配や取越苦労、過越苦労等も執着」

「私はいつも御任せせよと言う事を教えているがつまり神様にお任せし切って、何事があってもクヨクヨ心配しない事である。というと実に雑作もない訳なく出来そうな話だが、ドッコイ仲々そうはゆかないものである。私でさえ其境地になった時、随分御任せすべく骨を折るが、兎もすれば心配という奴、ニョキニョキ頭を擡(モタ)げてくる。というような訳で而も今日のような悪い世の中では、殆んど不可能といってもいい位である。併し乍ら神様を知っている人は大いに異う。というのは先ず心配事があった時、それに早く気が付く以上、ズット楽になるからいいようなものの、茲に誰も気が付かない処に重要な点があるから、それをかいてみよう。
  というのは之を霊の面から解釈してみると、それは心配するという想念そのものが、一種の執着である。つまり心配執着である。処が此心配執着なるものが曲者であって何事にも悪影響を与えるものである。だが普通執着とさえいえば、出世をしたい、金が欲しい、贅沢がしたい、何でも思うようになりたいという希望的執着と、その半面彼奴は怪しからん太い奴だ実に憎い、酷い目に遭わしてやりたい、などという質の悪い執着等であるが、私の言いたいのはそんな分り切った執着ではなく、殆んど誰も気が付かない処のそれである。
では一体それはどんなものかというと、現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。それらに対し信者の場合、神様の方で御守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強い程御守護が薄くなるので、其為思うようにゆかないという訳である。此例としても人間が斯ういうものが欲しいと荐りに望む時には決して手には入らないものであって、もう駄目だと諦めて了った頃、ヒョッコリ入ってくるのは誰も経験する処であろう。
又斯うなりたいとか、アアしたいとか思う時は、実現しそうで実現しないが、忘れ果てた頃突如として思い通りになるものである。浄霊の場合もそうであって、此病人は是非治してやりたいと思う程治りが悪いが、そんな事は念頭にをかず、只漫然と浄霊する場合や、治るか治らないか分らないが、マァー行ってみようと思うような病人は、案外容易に治るものである。
  又重病人などで家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりたいと一心になっているのに、反って治りそうで治らず、遂に死ぬ事が往々ある。そうかと思うと、其反対に本人は生死など眼中にをかず、近親者も余り心配しない様な病人は、案外スラスラ治るものである。
処で斯ういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親者も是非助けたいと思っているのに、病状益々悪化し、もう駄目だと諦めて了うとそれからズンズン快くなって助かるという事もよくある。面白いのは俺は之しきの病気で死んで堪るものか、俺の精神力でも治してみせると頑張っているような人は大抵死ぬもので、之等も生の執着が大いに原因しているのである。
  右の如く種々の例によってみても、執着の如何に恐ろしいかが分るであろう。従ってもう迚も助からないというような病人には、先ず見込がない事を暗示し、其代り霊界へ往って必ず救われるようにお願いするからと、納得のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の者にも其意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向うものである。又之は別の話だが、男女関係もそういう事がよくある。一方が余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、寔に皮肉極まるが、之も執着が相手の心を冷すからである。
此様に世の中の事の多くは、寔に皮肉に出来ているもので、実に厄介な様でもあり、面白くもあるものである。右によっても分る如く、物事が巧くゆかない原因には、執着が大部分を占めている事を知らねばならない。私がよくいう逆効果を狙えというのもその意味で、つまり皮肉の皮肉であって之が実は真理である。」       

                          

(「御任せする」昭和26年11月28日)

  

「執着はどこまでも逆効果になる」

「(前略)重病の場合でもう治る見込がないという時に“どんなになっても、まだそんな失望するにあたらないから、しっかりして居ろ”と言って慰めますが、これは本当言うといけません。やはり生の執着が御守護の邪魔をするのです。治すのは、正守護神が神様の方から力をいただいて、自分がお取次して治すのですが、その場合に生の執着があると、正守護神の思うとおりにならないのです。本人や周囲の者の執着心が邪魔するので、治る場合も治らないという事も大いにあります。ですからこれからは、もう駄目だと思ったら、早く本人に諦らめさせるのです。“これはもう駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい”と言った方が、かえって助かるのです。(中略)
それには本人が肝腎なのです。本人に“あなたはもう駄目だから諦めなさい”と言い渡した方がよいです。それから本人ばかりでなく、親や周囲の近親者も大事なのです。近親者の執着の霊が邪魔します。ですから霊の邪魔というのが非常に重大なのです。
それはそれとして、家の中に非常に反対している者がある場合に、反対している者は“若しか治ると自分が恥をかいたりするから、どうしても治らないように”と一生懸命に思うその霊が又非常に邪魔をするのです。そこで、執着は何にでもいけませんが、執着はどこまでも逆効果になるという事を心得ておかなければいけません。
これは病気ばかりでなく、他の事にもあります。よく、金が欲しい金が欲しいと思いますが、その金の執着がある間は金ははいらないのです。その執着が邪魔するのです。まして信仰にはいって居ればなおさらです。そういう事は忘れてどうでもよいと思うようになるとはいって来るので、実に皮肉なものです。
ですからあの人に信仰の事を分らせよう分らせようと思っていると相手は分らないのです。勝手にしろ、それだけの御守護があれば分るし、さもなければ駄目だから、と忘れてしまうのです。そうすると先方で信仰にはいりたいと頼みに来ます。ですから良い事でも執着は邪魔するのです。或る程度骨折って、あと思うとおりゆかない時は放ったらかしておくのです。そうすると案外よいものです。(後略)」

 

               (御教え集23号  昭和28年6月25日)

  

「執着は捨てる---神様が何とかしてくれる」

「(前略)例えてみれば、金に苦しんでいるとか、金に苦しんでいなくても、“金が欲しい欲しい”と思っている時には金がはいらないのです。それで“もう金なんかどうでもよい”と諦らめてからはいって来るものです。これは誰でも経験があるでしょう。“こういう物が欲しい”と思う時には来ないもので、“もうどうでもよい”と思うと来るものです。
私もそういう経験は沢山あります。なにしろ二十年間借金で苦しんだのですが、その時には金が欲しくてしようがなかったのです。少しでも返さなければ差押えで危ぶないのです。その欲しいと思っていた時には不思議にはいらなかったのです。
それで“神様が何とかしてくれるから、そんな執着は捨てた方がよい”と、昭和十六年から金の執着は捨ててしまったのです。それでもう金の心配はないという時になって、それからドンドン金がはいって来たのです。(後略)」

 

]       (御教え集23号  昭和28年6月26日)

  

執着の心が御守護をいただく上で邪魔になる」

「(前略)一番肝腎な事は執着です。神様に非常にお願いし祈るという事も結構なのですが、そこに難かしい点があるのです。というのは、あまりに“助けたい”“助かりたい”というその執着が邪魔する事になるのです。だからお願いしお祈りするのはよいですが、或る程度までであっさりとしておくのです。“どうしても助かりたい、助かりたい”という強い執着は取るのです。
むしろそういう時には“命のないものなら早く霊界にやらしていただきたい、助かるものなら助けていただきたい”とあっさりするのです。そういう時にあっさりするという事は非常に難かしいですが、その執着の心が非常に邪魔するのです。そういう時に助けるのは正守護神で、正守護神が神様に力をいただいて助けるのですが、正守護神の霊が働くのです。そういう時に側の者があんまり強い執着ですと、正守護神が働く場合に邪魔になるのです。そこで逆効果になるわけです。その点をよく知らなければいけません。丁度、人間が死にますが、死んでからその人を忘れられないと、霊界に行った霊は早く忘れてくれればよいと、非常に迷惑するのです。これは何時かのお蔭話にありましたが、あんまり思うとかえっていけないのです。よく赤ん坊などが死ぬと、親は忘れられないで、赤ん坊のことを強く思うのです。そうすると赤ん坊は割合に早く生まれて来るのです。そうすると霊界でまだあんまり浄化されないで生まれて来るから、甚だ不仕合せな事になるのです。ですから子供としてはあんまりよくないので、迷惑な事です。だから親が早く忘れてくれれば霊界で充分浄化が行われて、浄化がすめば霊界の良い所に行きますから、それから生まれて来ると体も非常に健康で、よい子供が生まれるのです。
そういうようですから執着というのは逆効果になりますから、そこをよく心得ておかなければいけません。それでよく危ぶない病人に“気を確かにしろ”とか“きっと治る”とか“気を強く持て”とか言いますが、それは考えものです。むしろ“あなたはもう駄目だ、諦らめなさい、死ぬ覚悟をしなさい”と言った方がかえってよいのです。
これは非常に言い難い話ですが、出し抜けではいけないが、霊界の事などを説いて、そうして“あんまり生きたいという事は、その執着によってかえって、治る病気も治らない事になる”ということを聞かせるのです。ですから死ぬ覚悟をするとかえって助かるのです。(中略)
  又家族の者が“どうか助けたい”というその執着が、やっぱり邪魔します。それから更に又家族の者に信仰に反対の者がいる場合に、若し治ると自分の面目がつぶれますから、どうしても助からないようにしたいという執着は一番恐ろしいです。これは一番悪性です。治らないようにする執着ですから一番悪いのです。
ですから家族に反対者があった場合には結果が悪いのはそういうわけです。だから何事も執着が非常に災するのです。特に信仰はそうです。例えてみれば“金がない、金が欲しい、神様金を何とかしていただきたい”と思う時には来ないものです。“これは忘れよう、どうせ神様がいいようにして下さるのだから”と金の事など忘れると金が来るものです。
 実に皮肉なものです。おそらく神様くらい皮肉なものはありません。しかし私でもその執着というのはなかなか取り切れないものです。“ああなればよい、こうなればよい”と思うが、どうもうまくゆかない。そうだオレの執着が邪魔しているからだと、“どうにでもなれ”と思うと、忘れた時分に予期した以上のものが来るのです。そういう事は始終あります。(中略)
この事は人間の命ばかりでなく、如何なる事でもそうです。あなた方でも人に信仰を勧めますが、例えば親父が反対して駄目だ、妻君が反対して駄目だ、というので、信仰にはいったらよいと思い勧めますが、そういう時には決して駄目です。“信仰にはいるもはいらないも知った事か、勝手にしろ”と知らん顔しているとはいって来るもので、実に面白いです。(後略)」
                         

 (御教え集23号  昭和28年6月27日)

 

  

「執着から離れられないのが人間の特性」

「凡そ人間としての最大欲求は、何といっても健康と長寿であらう。他の凡ゆる条件が具備しても之が得られないとしたら、何等意味をなさないのは今更言う迄もない。従って人間生の執着程強いものはなく、此執着から離れられないのが人間の特性である。(後略)」 

 

                                          (医革「序文」昭和28年)

 

  

「焦ると言うのは執着」

「中風的症状で、三月や四月で、良いとか悪いとか言うのでは、問題にならないですね。之は普通打遣らかして置くと何十年も治りつこないんですからね。一年や二年は、何にも焦らずに任かせて置くと言う心持ちでないと駄目ですね。病気は――凡ゆる病気は、焦ると言うのが――執着ですからね。何時も言う通り、そうすると治らなくなる。反つて、治そう治そうと言うと、それが逆になりますから、治らなくなる。こう言う事は、家の人に良く言つてやると良い。だから、死ぬまい死ぬまいとすると、反つて死ぬ。そんな事を考えないと、生きる。この間も言つたが、逆効果になるからね。浄霊の重点や信仰上改心する点と言うのは、御神書読んでいるでしよう――結構ですよ。(後略)」

 

(御教え集4号  昭和26年11月8日)

  

「執着にも、善と悪がある」

「(前略)執着にも、善と悪があるんです。世間の執着は、悪の方がずつと多いんです。私が善で救済する。何うしても、世の中を良い世の中にすると言うのは、良い執着です。毎日朝から晩迄考えているから、大変な執着です。然し、それは良い執着です。今迄の執着は悪だつたから、執着が悪い様になるんです。


  (布教上、執着が反つて障りになる様で御座いますが――)


  処が、その執着が本当の執着じやない。小乗なんです。だから、小乗の善は大乗の悪になると言うでしよう。一生懸命で、熱心な人が反つて危ぶない様な事が良くあります。お邪魔になる様な事がね。それは小乗だからね。(後略)」

                                           

 (御垂示録4号  昭和26年11月8日)

 

「執着をとるには、行きづまる所まで行かせた方がよい」

「(前略)此の道に入っても、初め熱心でそれから不熱心になる人もあり、又その逆の人もある。働きのありさうな人でも結果の出ない人もあり千差万別です。又時機によってその人の本当の働きになったりするのです。
  だから私は大抵の事は何も言はずにやらせると旨く行くのです。間違った事をすれば何れ行き詰り、自分でビックリして改心する事もあります。人間は執着をとる事も必要なんだから放っておいた方がよい。行きづまる所まで行かせた方がよい。坂を転り落ちる石を途中で止めようとしても無理で、落ちる所まで落して了ったらよい。その時に話をしてやる事が効果があるのですよ。(後略)」 

 

                     (御光話録  昭和23年10月28日)

 

「(御弟子方が、あゝなればよいとか、こうなればよいのだが――といふ風に考へ勝ちですが之も執着でせうか。)


  それは信仰がないからだ。神様を信用してないからです。すべて神様がやって居られるんですからね。――
  神様に御任せするといふ気持になるのには余程修業が要るんですね。どうも人々は人間的に考へては苦しんでゐるですよ。私は問題に面して適当な案がない時は神様に御任せするのです。――又他の人がしたいといふ事は間違ってゐてもやらせて了ふのです。それはやりたいと思ってゐる時注意してもなかなか悟れない。行き詰って初めて気がつくのです。車でも坂を下りる時、坂の途中で止めようとしても止まらない。下まで行ってから止めれば直に止まるのと同じです。


  (その坂の途中に在るのか下まで行きついたのかはどうして判断致すべきでせうか。)


  それは直判りますよ。下まで行った時気がついて自分で苦しみますから。神様の方だって「俺にそんなに任せるんならちゃんとしてやらう」といふ事になるのです。」    

 

(御光話録  昭和23年11月8日)
  

 

「信仰により執着がとれて、初めて仕合せになれる」

「(前略)可愛いゝとか憎いとかいふのは執着ですからね。この信仰に入ると執着が抜けて来るから、こんなのもだんだん減って来ますよ。全く、執着が一番こわいんです。信仰の一番の目的は執着をとる事なんですよ。信仰によって本当に執着がとれて初めて仕合せになれるんです。」

 

         (御光話録18号  昭和24、25年)