第三章 信仰の向上を図るために

 

 6、智慧正覚について

 

 ① 智慧を磨く

 

「言葉の奥まで判る様になる事が必要」

 

「(時節柄政治、戦争、大浄化等について、大先生様より御言葉は頂けないことゝ存じますが、更に御指導を頂くには適当な時期及び場所を得て御伺ひ申し上ぐべきでせうか。或は平常此の席で承ってゐる程度を承知させて頂けば宜しいでせうか。)

こゝで云った事だけでいゝです。第一他の時に特別な人だけに話をすると不公平になります。「あの人に話して俺には知らせてくれない」なんて云はれますから。それに神様には秘密がない。神様は誰の前でも、いかなる人でも話の出来るべきですから。――智慧正覚の進んだ人なら私の言葉の奥も判る筈です。そこまで行ってない人は言葉通りしか判らず、ボンクラは言葉の半分位、もっと「ボンクラ」なら三分の一や五分の一位しか判らない。だから言葉の奥まで判る様になる事が必要なんです。(後略)」    

                                                                                        

    (御光話録 昭和23年12月18日)

 

  

「智慧正覚が進めば私の言葉の奥も判る」

 

「(前略)智慧正覚の進んだ人なら私の言葉の奥も判る筈です。そこまで行ってない人は言葉通りしか判らず、ボンクラは言葉の半分位、もっと「ボンクラ」なら三分の一や五分の一位しか判らない。だから言葉の奥まで判る様になる事が必要なんです。大浄化が来て浄められゝば綺麗になるのです。それは体の浄化――と同じ事です。段々転換して昼の世界になるにつれて、徹底した大浄化が来て、政治なんかもよくなり、「善の政治」になります。「善の政治」とは何かといふ事は智慧正覚があれば判るでせう。」 

 

                  (御光話録 昭和23年12月18日)

 

  

叡智を働かすには魂の曇りをなくする事が根本」

 

「(前略)人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。迷う場合は無理に決めようとするからで、決断がつかない内は時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。要は時所位に応じ、事情によって最善の方法を見出す事である。然しそうするには叡智が要る。叡智とは正しい判断力を生む智慧であって、それは魂に曇りがない程よく出る。故に魂の曇りをなくする事が根本で、それが即ち誠である。誠とは信仰から生れるものであって、此理を知って実行が出来れば、大悟徹底した人というべきである。」         

(「解脱」昭和26年1月25日)

 

  

「大審判は、智慧証覚によって悟れる」

 

「(前略)大審判については、今の所これ以上はお話が出来ないのであります。之は信仰を熱心にやって霊身が浄まると、その人の智慧証覚によって悟れるんですから、その人自身悟るより仕方ない。(後略)」 

 

                 (「御講話」昭和11年1月21日)

 

  

「智慧正覚がないと判断を間違う」

 

「(前略)若しか、精神病なんかにしろ、暴れたりすると、それこそ病院に入れちやうと良い。何故なれば、それでないと教えに瑕をつけますからね。その為に普通の――他の人の浄霊が出来なくなるし、手間をとつて他の患者の邪魔になるからね。ですから結果に於てマイナスになる訳ですね。だから、そう言う場合には臨機応変に処して、暴れたりする事のない様にすると良い。こつちの御神業の邪魔する場合には、然るべき処置をとると良い。

今の話は、目茶苦茶に――浄霊一方でやろうと言うのだが――若しも――憑つている精神病者の霊は、浄霊でやつても、そう言う浄霊は、余程こつちの霊力がないと抑える事は出来悪(ニク)い。普通なら浄霊でも治りますが、余程強いのがありますから、そう言うのは、こつちで適当に処置をとる。そう言つた判断が、その人の智慧正覚ですからね。ですから、そう言う点も大いに勉強する。それには私の書いた本を出来る丈け読むと良い。ちやんと書いてありますからね。読み方が足りないと判断を間違えるんですね。(後略)」               

 (御教え集4号 昭和26年11月5日)

 

  

「智慧というのは誠から出る」

 

「(前略)時局座談会とか討論会ですね。あれをみても、共産党系の人は辻褄が合わないんです。で、自分はやつぱり良いと思うんでしようが――一生懸命にやつてますが、どうも聞いて居ても馬鹿々々しいですね。やつぱりそれは誠から出ていないせいでしようね。本当に国を想い、社会を想い、人民の幸福を想つて言う言葉は必ず人を動かす良いものが迸しるですね。

話は横道にいきましたが、結局人間は頭の働きですね。よく智慧と言いますが、智慧というのはそれから出るんですからね。だから宗教に於ても、智慧という事に非常に重きを置かなければならないんですが、其点に於て仏教でお釈迦さんが説いたのは、智慧という事に非常に重きを置いてますが、之は非常に良いですね。智慧正覚というと――お釈迦さんは覚者と言いますがね。覚りを得た人を覚者と言いますが、之は矢張り覚者になると良い智慧が出るんですね。それから偉い坊さんなんかは大智と言いますが、大きな智慧ですね。そういう様な智慧という事は、頭が良くなければならない。頭を良くするには、今言う精神を転換させるんですね。そうすると頭は非常に良くなる。(後略)」         

                                           

 (御教え集11号 昭和27年6月5日)

 

  

「よい美術品を見ると智慧正覚が高くなる」

 

「(前略)美術品ですね。あの良いものを見るんですね。名人の傑作品を見ると魂がそれにいきますから、目が高くなるんですね。目が高くなると、他のものに迄いきますから、批評眼が高くなるんですね。芸術品許りでなく、凡ゆるものの批評眼が高くなるから、其人の智慧正覚が高くなるんです。智慧正覚というのは批評眼です。ものを見てそれが善いとか悪いとかね。本当だとか嘘だとか、其判別は批評眼に依るんですからね。ですから人間は物を見た批評眼が一番大切ですね。(後略)」 

 (御教え集11号 昭和27年6月7日)

 

  

「智慧正覚が磨けると急所の発見が早い」

 

「(前略)病気などは特にそうですが、急所の発見という事が一番肝腎なのです。それからこの前も言ったとおり、理窟に合わない事はいけないと言ったが、いくら一生懸命にやっても、その人を浄霊すべき条件が窟屈に合わないと、いくら一生懸命にやっても治らないのです。これはこの前話したから大体分っているでしょうが、その理窟に合わない事という一つの条件というのは、神様の事を知った人と全然知らない人とは大変違うのです。知らない人は大変無礼な事をしても、これは知らないから許されます。

ところが信仰にはいって相当たって、知っているはずのところの人が、理窟に合わないとお蔭がないわけです。そういう事もよく考えるべき事です。やってみて、どうしても思うようにゆかないという事は、自分の浄霊の霊力が弱いのだろうとかいろんな事を思うが、そういう事はごく少ないので、本当は急所を外れている事と条件が理窟に合わない事が一番多いのだから、そういう事に気がつくようにならなければならないです。それはその人の智慧正覚です。だからまず智慧正覚を磨くという事が一番肝腎です。智慧正覚が磨けると急所の発見が早いのです。これは何事にも非常に関係があります。(後略)」    

 

(御教え集24号 昭和28年7月6日)

 

「(前略)病気ばかりでなく、いろんな事情も、意外な所に急所がありますから、それを発見しなければならないのです。それにはやはり智慧正覚です。智慧が働かなければならないのです。

この智慧が働くという事は、頭の中の毒素と、その人の精神状態にあります。ちょっとでも不純なおかしな野心でもあると智慧が曇るから働かないのです。その人の考え方にそういった不純が無く本当に世の中人のために尽くすという気持だと智慧も働くのです。(後略)」 

 

                  (御教え集26号 昭和28年9月5日)

 

 

「急所を発見するという事が、人間人生の最大の条件」

 

「(前略)これは病気ばかりではないので、日常の事や話や、いろんな事、又宣伝の工合でも、人が“信仰にはいろうか、どうしようか”と迷っている時に急所をピタッと言えば、“では、はいろう”という事になりますが、その急所を見付けるのがなかなか難かしいのです。しかしその人の智慧正覚が進むと、急所の発見が早くなります。どんな事でもその急所をやる事です。

それから急所が見付からない時に、あせってやってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですから不断心掛けていれば、時期が来さえすれば急所は見付かるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないという時に、ちょっと急所に来ると冷める事があります。

これはあなた方でも経験する事があるでしょうが、急所を発見するという事が、人間人生の最大の条件です。(後略)」      

                                          

  (御教え集24号 昭和28年7月5日)

 

  

「時期を見通すだけの智慧証覚がなくてはならない」

 

「(前略)時節というものが大変なもので、例えうまくゆく事でも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。それはやる事が悪いのでなくて、時節が来ないのです。そこを見通すだけの智慧証覚(チエシヨウカク)がなくてはならないのです。それから又順序ですが、これが又実に大変なものです。うまくゆかなければならない、こうならなければならないのが何処かつかえている、うまくゆかないのですが、そういう時によく考えてみると順序が違っている場合があります。それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。

ですからそういうような事を早く発見するという事が智慧証覚です。この智慧証覚というものが又大変な意味――というよりか、物事に影響するのです。それで智慧証覚があると気がつくのです。(後略)」 

                  (御教え集29号 昭和28年12月5日)

 

  

「一番高い上の段に上がれるのがメシヤ教」

 

「(前略)毎日を、儲かるとか儲からないとか、思うようにゆくとかゆかないとか言って気をもんで、要するに高等な思想という事に向かないという事は、それだけ魂が低いわけです。だからそういう事を考える人――哲学者とか思想家というのは、人間で言えば上等な部類に属するのです。というのは魂の位置、霊の位置なのです。なにしろ霊の地位というのは百八十段もあるのですが、上に行くほど、つまり働きが高等なのです。

そこに、真中の線――地平線――上下を区別している線があり、その線を抜いて上に行けばよいのです。それで、その線の上がつまり神様の分野で、線から下が獣の分野です。動物界です。そうなってますから、そこで今の偉い人でも、無神論者は線よりか以下なのです。それで線の所まで行くが、それを抜く事ができないのです。神様を知る――神様は確かにある、というのは線を抜いたわけです。僅かなところで全然世界が違ってしまうのです。

ところが線の以下ではどんな偉い人でも、智慧(チエ)があっても、それは悪智慧になるのです。悪い事をするために働く智慧になってしまうのです。線を抜いて上に行けば、その人の考える事、やる事が凡て本当の人間となり、つまり善だからして、まず間違いないわけです。それと共に罪を作らないからどうしても不仕合せが来ない、幸福をかち得るわけになります。その点です。ですから信仰というものは、その線を抜く事を教えるだけでなく、“なるほど、それに違いない”と信じさせる事です。それが信仰の根本です。

線を抜いてからも、やっぱり幾つにも段があるのです。ところが大抵な世間の信仰は低いのです。稲荷様とか権現様を信仰するのは、線をちょっと抜いた所です。それから何々教とか何々宗というのになると大分上になって来るのです。ところが上になったとは言っても、まだ本当の上ではないのです。線をちょっと抜いた所だから直ぐに下に落ちてしまうのです。この間の霊友会というのはそうです。不断は上になっているのですが、どうかすると下に落ちてしまうから間違いをしでかすのです。そういうふうに考えると、分り難い事はないので、実に分りよいです。それで線から上の段で一番高いのが救世教です。そうなると力が違って来るのです。では今までそういった上の段に行かれる宗教は何故無かったかというと、今までの宗教は全部月の神様なのです。つまり夜の世界だったから月の神様が支配していたから、光が足りなかったのです。(後略)」

 

           (御教え集29号 昭和28年12月25日)

 

  

「御神業には智慧が必要」

 

「(前略)その人が熱心にやつたから良いと言うのではなく、線にはずれていては余り良くない。線に合つていると言う事は、何処かと言うと、信者を多勢救うとか、支部をつくると言う事です。その褒美が神様から来る訳です。そうなると、智慧と言う事も必要になる。一生懸命にやると言つても――結果ですよ。一生懸命も結構ですが、唯、結果が現われなければね。何彼に言うより、結果ですよ。そう言う事は、怠けている様でも、あんまり感心しなくても、確かに信者が出来るなら、それが救いですからね。それが一番です。」                 

 (御垂示録2号 昭和26年9月8日)

 

  

「智慧が足りないと間違う」

 

「(前略)私は今迄、あの人は悪い、気を附けなければならないと言われても、矢張りその人を使いもするし、会いもするし、色々やります。やつぱり大局から見ると、何かお役に立つ事をしているんですよ。

で、之は大本教のお筆先に「今度は三千世界の大芝居だ」と言う事があるが、これは面白い事ですね。つまり芝居なんですよ。芝居と言うものは善人許りじや芝居にならないんです。悪役がなくちやね。善人が悪人に苦しめられるという事が、一つの、狂言の筋なんですからね。そう言う点から言つても――教団には悪役はないんですが、その人の考えが、良いと思つて――信者の為だと思うんですね。神様の為だと思うんですが、それが智慧が足りない為に間違つた事を良い事と思う事がよくあるんです。叡智ですね。

神様の為と思うが、そうじやなくてお邪魔になる事があるんです。叡智と言うものが必要なんですが、叡智と言うものは相当の修行しないと得られないんです。又互に言い合つて居ることに、話を聞いて見ると、どつちも合つている場合がある。それも芝居の役としてやらせられているんですから、だからさつきも言う通り、一番まずいのは決める事です。(後略)」

 (御垂示録8号 昭和27年4月1日)

  

 

「智慧正覚を磨けば判断力がつく」

 

「(前略)この人は救われるか、或いはもう駄目な人かという事は直ぐ分りますから、どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。それから楽に行かないのは救われない方です。この間の論文に書いてありますが、救われない人がずっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人の方が疎(オロソ)かになり、それが大変な間違いです。

そういう事を見別けるのもその人の智慧正覚が向上していれば見別けもつきます。ですから智慧正覚を磨けばその判断力がつくのです。それで智慧正覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。(後略)」 

 

              (御垂示録22号 昭和28年7月1日)

  

 

「滅びる人と救われる人とは決まっている」

 

「(前略)それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。ですから滅びる人は幾らやっても駄目です。だからさっきの“食道が悪くて、噴門から何うとかする”というのは、もう救われない側になっているのです。救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。

ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。それは別に難かしい事はないので、見別ければよいのです。この人は救われるか、或いはもう駄目な人かという事は直ぐ分りますから、どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。

それから楽に行かないのは救われない方です。この間の論文に書いてありますが、救われない人がずっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人の方が疎(オロソ)かになり、それが大変な間違いです。

そういう事を見別けるのもその人の智慧正覚が向上していれば見別けもつきます。ですから智慧正覚を磨けばその判断力がつくのです。それで智慧正覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。(後略)」 

 

              (御垂示録22号 昭和28年7月1日)

  

 

「自分の間違いが判らないのは、智慧がないから」

 

「(前略)我とは主観の事で、自分の思ってゐる事が正しいと思ふ事です。だからつまり主観をすてゝ客観的に、自分を離れて自分を見る事が大切です。理屈をつけるのは我です。――自分で自分の間違いが判らないのは、それは智慧がないからです。だから智慧を磨かねばいけない。――信仰の標準は智慧と誠です。自分のしてゐる事がいゝか悪いかも判らなくては駄目です。

仏教でも智慧正覚と云ひ、キリスト教でも智慧の木の実といふ。智慧のない人は無駄をやっては失敗するんです。

 

(智慧は神様から教へて頂けるものと考へて宜しいでせうか。)

 

そうです。所が自分の我があるとそれをふさいで了って頂けないのです。ですから素直になる事です。世間には自分より偉い人の言葉はよく聞くが、下の人の言ふ事は聞かないといふ人が多いがそれが我なんです。下の人の言ふことを聞く事が雅量です。私でも部下の人の言ふ通りにしてやる。傍で見ると「大先生は何故あんな事を聞いてやるのだらう」と思はれる程ですが、それだから人々は喜んで働くのです。きっと失敗する様な事を「どうでせうか?」と言って来ると、私は「よい」と答へる。そうするとその人は失敗する。所が失敗して初めてその人は悟るんです。智慧と誠とあとは常識です。で、本当の事は常識に合って居り合理的です。」                     

 (御光話録 昭和23年8月28日)

  

 

「誠のある程いい智慧が出る」

 

「(前略)誠のある程いい智慧が出る。大抵は誠の心をもつて、常識的に考えれば善悪は大抵判る。ただ大乗と小乗は逆の場合があるから注意すべきだ。(後略)」

                           

 (教えの光 昭和26年5月20日)

 

  

信仰を一口に言えば、智慧と誠」

 

「四魂とは人間のもっている性質を表はしたもので、神道で言ふ。荒魂は勇で、悪では暴力等。 奇魂は智で、悪では奸智、才智。叡智は誠から発する。誠がなくては出ない。一切は誠があって智慧のないものが多い。和魂は、悪では騙す、女を手なづける場合等。幸魂は、之は悪い方には殆どない。すべて善悪両方に働く。

右の中二つでも働くものは大したもので、大抵は一つだけであるが、一つだけでは調和がとれぬ。善い事でも、手段が当を得なくてはならぬ。すべて智慧で、叡智が働かなくてはならぬし、之が土台にならなくてはいけない。信仰を一口に言えば、智慧と誠である。」 

                              (昭和23年)

 

「(この信仰で進むについて心掛くべき最も重要な心構えは、・・・)

 

一言でいえば誠である。次は智慧である。誠から出る智慧でなくてはいけない。即ち叡智であり、神智である。」   (昭和24年2月15日)

 

(指導者としての心構え、行動について)

 

心構えは誠である。一番肝腎な事は誠と智慧といふ。いくら誠でも、智慧が働かぬと無駄をする。であるから、智慧を働かす――急所である。」 

                          (年代不詳)