第三章 信仰の向上を図るために
5、御神業の奉仕について
① 奉仕の基本
「神の目的に沿うべく努める事」
「人間として努むべき事は、人間に対しては感謝されるようにし、神の目的に沿ふべき事である。神はその恩賞として御褒美下さる。」
(年代不詳)
「奉仕には誠と気配りが必要」
「明主様は『如何なる奉仕でも誠と気配りが出来ぬ者は御用に使うわけにはいかぬ』と仰せられる。」
(お言葉 昭和29年8月8日)
「無理してはいけない」
「(神への感謝報恩は物質のみでは本当でないと思われます。精神的の行ない又は御奉仕等、如何にあるべきでしょうか。)
物質を提供する事はすでに精神が出来てる訳である。上げたくないのに強制的に上げるのは、浄財にならぬ。それは金に汚れがあり、光がなく、永遠の生命はない。感謝報恩の場合、無理してはいけない。本来の使命逸脱せぬ事。」
(年代不詳)
「自ら、湧き起こる気持ちで」
「(一般の人で観音様の有難いことを多少知りつつも、いざ金銭物質のことになると「ハタ」と行き止る人・・・)
之も「有難い、じっとしてはいられぬ」と言って上げるのが当り前である。
義理の考えで上げるのは観音様は喜ばれぬ。上げない人は、そのまま何とも思はぬのがいい。何れは大いに御用したがる時もある。アッさり言えばよい。」
(年代不詳)
「御用はその人なりに、その人が思う程度にやればいい」
「(前略)それから、皆罪の重荷を一杯背負つてますからね。病人を助けるのも結構だし、金の御用をして、早く地上天国を造ると言うのも結構ですし、そこが丁度良い処ですね。中々難かしいですがその人なりに、自分はこの位が良い、こうすべきだ。と言う程度にやれば良いんです。それで、そう言つた信仰の関係や理窟は、御神書を読んで、教師は私の話を、質問したり聞いたりする事。それから不断、先輩の先生――資格者から聞いたり、質問したりして、段々磨いていくんです。(後略)」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)
「神様丈に見て戴く――之で良い」
「(前略)人間を相手にするな、神様を相手にしろと言うんです。人間の気に入られると言うのは必要ないですね。神様の気に入られるんです。処が、どうも人間の気に入られ様とするんですね。それは、世間一般はそうなつてますが、神様は違うんです。
そこで、よく他の信仰なんか、お金なんか寄附すると、何千何百円とか、何の某と、札を出しますがね。私の方は、そんな事は全然――誰が幾ら出したか判らない。幾ら出したと言つて、偉く思わせ様と言うのは通用しない。
神様に見て貰おうと言う事はあるが、人間を対象とはしないですね。神様に見て戴く――それを対象にしますから、それが本当と言う訳になる。だから考え方が、神様中心――神様丈に見て戴く、お気に入つて戴く――之で良いんです。そういう風に思つていると、屹度御守護が厚いんですよ。(後略)」
(御教え集9号 昭和27年4月15日)
「向上は全般ですが、各々その使命がある」
「(資格者と致しまして、人を救う事、信仰の向上を図る事、御奉仕とを如何様な順序に考えましたら宜しいものでございましょうか。又金銭物質の御奉仕の意義、方法につきましてお伺い申し上げます)
恐ろしい質問だね。それは、どっちが肝腎だという事を考えるその事が間違ってます。そういう事は考えないのが本当です。というのは、神様はその人の使命、その人に与えられた能力によって人を救う御用をする人もあるし、お金の御用をする人もあるのです。向上は全般ですが、各々その使命があるのです。というのはそういう事情になって来るのが使命ですから、そうなったらそうすればよいのです。金が集まって来て、人を浄霊するよりもというのは、そういう使命があるのです。又金がない、信者を沢山作るというのはそういう使命があるのです。
それは周囲の事情がそうなって来ますから、ただ素直にそのままを考えて進んで行けばよいのです。(後略)
(御垂示録22号 昭和28年7月1日)
「時間や金に余裕があったらいい事をする」
「(商売をして居りますと、掛引をしたり商売敵が出来たり、又現在の登録制では商戦の為どうしても相当の怨みが来ると存じますが、この曇りを消す為には大いに社会的善事をすれば宜しいでせうか。)
これはこの通りですよ。無論、或程度の掛引は仕方ないですよ、儲けるんですからね。そこは程々にすれば構はないんですよ。
敵が出来るって事も競争だから仕方ないですね。だから、積極的に同業者を倒そうとすると罪を作るから、そういふ事はしない方がいい。(中略)
そして、商売してて時間や金に余裕があったらいい事をするんですね。一番いい事はこの信仰の為にそれを使ふんですよ、そうすればいいんです。」
(御光話録12号 昭和24年6月23日)
「貧乏から脱出---人を助けるその手柄によって」
「(貧の御浄化という場合に、曇がある為に抜けられないという状態でございますが、御用を励まさせて戴きますと、その為に……)
それは霊界の地位によるのです。貧乏しているのは、貧乏をする地位にいるのです。ここの層は貧乏の人の霊界です。そこにいるという事は、それだけのものがあるからです。そうして上に上って、ここは貧乏が大分楽な世界になるのです。ここ(更に上層)に行くと、もう豊な人の世界です。そういう様なもので霊界の地位の問題です。だからどうしても仕様がないのです。それで地位を上らなければならないのです。地位を上げるには浄まらなければならないのです。その為には自分が苦しむとか、人を助けるその手柄その働きによって早く上にあがって行くという事です。だからこの辺に行けば物質に恵まれ、良い事の世界なのです。又ここまでには時期が行ってないから、この辺(一寸下層)までは行けるのです。結局霊的状態、霊的地位が上るという事が一番です。(後略)」
(御垂示録16号 昭和27年12月1日)
「御守護を与えて頂くには世の中の人を、一人でも多く救う」
「(行住座臥、観音様を念ずるには、念被観音力か南無観世音菩薩か何れを称名すれば良いのでせうか。)
行住座臥しなくてもよい。内面的より外面的に考えなくてはならぬ。一人でも多く救ふのが念願であるから、人を救ふ場合念被観音力を念ずる。自分を幸せにする――御守護を与えて頂くには世の中の人を、一人でも多くの人を救ふ。自分の事を考えない。全人類を救って幸福な世界を造る事を常に考えなくてはならぬ。目蓮尊者が母が救えぬので、釈迦に聞いたら、釈迦は「母を忘れよ」と言った。母だけ救はうとするのは自己愛である。そして一年経ったら母は救はれていた。」
(昭和24年11月26日)
「いい手段で金を儲け、世の中の為に金を使う」
「(貧を清貧と称して甘んじて霊界に行った者の霊界に於ける苦悩はどの様になって居るので御座いませうか。)
貧乏でも金持でも第二義的のもので、善い事をした為とか、怠けてとか、意気地がなくて、
智慧が足りなかったりなどして貧乏になったのなどいろいろある。何れも違ふ。何れにしても世の中で善い事をした人が霊界でいい。
金が不正な事をして入り、善い事をした処が、差引き悪い事が多ければいけない。故に正当な手段で金を儲ける。今迄は不正手段でなくては儲からぬとしている。之は欲があって智慧のない人である。いい手段で金を儲け、世の中の為に金を使ふ。之が一番いい。
よく清貧に安んずるのは大いなる間違いである。アメリカにはいない。日本には此精神があるから発展しない。(中略)
大いに儲け、大いに善い事をする人間が殖えなくてはいけない。(後略)」
(昭和24年11月14日)