第三章 信仰の向上を図るために

 

5、御神業の奉仕について

 

 

「一人でも多く人を救う事が一番」

「(前略)又徳を積む事である。徳を積めば其徳により光が増すのである。人を救う。善い事をすると感謝となって、光となって其の人へ報い来るのであります。其の為其の人に威厳が増すから恭敬(ウヤ)まわれるのである。魂の穢れた人は徳がないから光がない。
  始終ビクビクしているから卑しく見えるのだ。徳を積むには神様の事、社会の事、個人を救う事をどんどんやるのである。其の人が仮に病気をしていて人を救うことが出来んというかも知れんが、病気中なれば病気をしながらも人を救う様に世話をするのである。神様の有難いことを話して神様を信ずる様にするなり、病人なれば神様へ御治療を受けに行く様にする事である。この様にすれば病人でもその徳により自分の病気が直ちに癒るのであるから余計に神様からお光をいたゞくのである。
  信者を一人作らしていたゞくのや導くのは大変な御用である。其の人が他人を救う。又其の救われた人が又救うといふ様に鼠算式に信者が殖えると大変なことになる。(後略)」
                          

(「絶対健康法」昭和10年9月15日)

 

(観音様にお喜びして戴きたいのですが如何(イカガ)致したら宜しいでせうか、御伺い申し上げます。)
  根本的には一人でも多く人を救ふ事が一番観音様はお喜びになる。言い難いが、観音様の御仕事にお金を差し上げる事もいい。」 

                           (昭和24年6月5日)

  

「人を幸せにすること」

「(徳を積めば良いという事で、どうする事が一番徳を積む事になるかという事をよく聞かれますが、その一番の事は明主様の御仕事の御手助けになる事をさせて戴くという事が一番良いという事でございますから。)
  それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合わせにする事です。要するに徳を積む事です。それが明主様の御仕事の手伝いをするという事になるのです。」    

 

(御垂示録16号  昭和27年12月1日)

 

  

「理想世界建設に役立つ事をするのが最上」

「(前略)悪い事はしないといっても、ただブラブラしている人などは、それがやはり罪になる。
  やはり、理想世界建設に役立つ事をするのが最上で、その為に、それぞれの職業を与えられている。それに全力を尽す。それによって、天職使命を行うべきである。
  そして尚その上に、人を助けると罪の消えるのが大きいから、霊層界はドシドシ昇り、逆に歓喜の生活が出来る。
  そして思った通りの、良い家へ行けるし、神様は、褒美を下さるのである。結婚などもそうで、その人の徳によって、妻君も良い人が来る。それで人間は、自分自身の魂を磨き、天国に相応する事が肝腎で、そうすれば悪い方へ行きっこはない。(後略)」

                                            (年代不詳)

  

「神の僕として奉仕の光栄を有する吾等」

「(前略)吾々救世の大使命を担っているものとして、今後どうすればいいかという事が、痛切な問題であろう。(中略)メシヤ降臨は何を意味するかというと、勿論人類を救わせ給う古来からの約束である。としたら茲に一大奇蹟が表われるに違いない事は、絶対確信している吾等である。
  所謂、それが最後の時であるとしたら其千載一遇の秋(トキ)に当って、神の僕として奉仕の光栄を有する吾等の多幸は、感激の言葉はないのである。」        

 

 (「巻頭言」地20号  昭和26年1月25日)

  

「御用すると、罪穢がそれだけ消える」

「(前略)御用すると言う事は、本当は霊的に言うと、皆人間は罪穢があるので、神様から借金していると言う事なのです。借金は溜めておく程利子は増えますから、早く返した方が得ですから、お金の御用と言う事は大変結構なんです。罪穢がそれで消えますからね。余り金の事を言うのは、どうも感心しないから、私は言いたくないが、理窟丈は知つていた方が良いですからね。(後略)」

         

(御垂示録8号  昭和27年4月1日)

  

「ただ神様から与えられた仕事をすればよい」

「(前略)ですからミロクの世というものは、地獄の世界を天国にするのですから、まあ人類肇(ハジ)まって以来の大革命です。これほど大きな革命はないと共に、これほど楽にできる革命はありません。無血革命という事を言うが、無血革命というのは争闘をしない意味ですが、そんなものではないのです。無血革命でなくて、最も楽にできる革命だからして天国的革命とでも言いますか、そういうようなわけです。それが十五日を契機としてだんだんそうなって来るのです。それが霊主体従の法則によって霊界の方がそういうようになって来ます。ですから物質界、現界の方にそのとおりに映って行くというわけです。だからその点においては、傍観していてもよいくらいです。ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さない方がよいです。たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういう事は考えない方がよいです。ぶつかって来た人は救えという事なんだから、それはやればよいです。それから嫌ったりする人は、これは神様はお助けにならない人だと考えて追いかけたりしない方がよいです。その方が楽に行きます。それを人間的考え方で、“この人を救えば大変発展する、信者が沢山できる”という事をよく考えますが、それがいけないのです。人間には分るわけがないのです。ですから“こんなつまらない人が”というのが案外役に立ったり、“この人は”と思う人が駄目だったりします。それは人間と神様の考えの違う所です。」

 

                     (御教え集23号  昭和28年6月7日)

 

   

「信者になる人は神様なり先祖が連れて来る」

(教導所をつくつた場合に、一般に知らせるのに広告などは如何でしようか)
  広告は要りません。そんな事をしなくても良い。理由を言えば、信者を連れて来るのは――信者になる人が来ますね。お客様がね。来ると言うのは神様なり、そこの家の先祖なりが連れて来るんです。だから広告を見なくても来るべき人は来る。大体あゝ言うやり方は神様を冒涜する事になる。按摩を開業したとか、歯医者を開業した、と言うやり方と同じだ。之は極端な話だが、金光教の信者で、広告とか、人にも宣伝しないと言う――極端ですが――何にもしない。何とかしたら良いでしようと言うと、いや神様が連れて来るからと言う。二年間一人も来なかつたそうです。それから一人来て、それからぼつぼつ来て、大変に繁昌したというんですね。之は極端ですが、神様を信ずると言う点では面白いと思う。(中略)
  信者が病気が治つて、その人が宣伝して、段々連れて来るんです。その人が又連れて来ると言うやり方がしつかりしている――強いです。人間の目には見えないけれども、神様には分る。この人が救われたら、こつちの人、今度はあの人と、霊界では順序が定まつている。だから、順序が来ていないのに、この人に知らせても入れないんです。」     

 (御垂示録3号  昭和26年10月5日)

 

  

「水晶殿御遷座祭でのお言葉を目指して」

「(前略)阿部さんに、私が言いたい事を書いてもらっておきましたから、それで、阿部さんから後で話がありますから、それをよく聞いて今後の方針を立ててもらいたい--。
  只一言だけ言いますが、愈々御神業の本スジに入って来たわけです。
  ですからこれから色んな変った事が沢山出て来ますから、まごつかないように--。
  それにもう一つは、驚くような事が段々世の中に出て来ますからね。
  それについて、私は神様から知らされてますが、とに角余程肝っ魂を落着けないと、中々大変ですからね。それだけお話をしておきます。
阿部執事取次のお言葉〉
  本日、明主様が水晶殿に御入りになられますにつきまして、仰せられました「御言葉」を御取次させて戴きます。

「水晶殿は地上天国の一部の雛形として、神様が御造りになるようさせられたものであって、これを神様はメシヤ教に造らせるようになされたものである。又、今後教団の組織にも多少の変革があるものと思う。」

  との御言葉でございました。(中略)
  又教団の組織の事につきましては、明主様には、段階--階級を設けられるような御模様でございました。その標準としましては、一つには、最も御浄霊の優れた人、又、信者を沢山お導きになられた方、又、神様に対して非常に御奉仕の強い方、こういった点を考えまして教団で決めるように、という意味の御言葉を仰言っておられました。(後略)」

 

           (昭和29年12月11日)

  

「最善をつくして、後は神様にお委せすること」

(遠方へ布教開拓に出た場合、最も効果的な方法を御教え下さい。)
別にこういう方法という事はない。根本的に云つて誠である。誠の強い人は神様の御守護がつよいので、霊が強力に働くからいい結果が得られる。決して焦つてはいけない焦ると人間の力が上になるから逆効果を来す、又その地方によつて、効果のあるなしはその土地の霊界の明暗が大いに関係がある。又産土の神の系統による事もある。熱心な祖霊の活動にもよる。
自分は最善の法をつくして、後は神様にお委せすることである。又神様の方ではすべて時期と順序がある。此土地を開いてからでないと、彼の土地は開けぬという場合がある。それが人間の思惑と違うことが多い。それを人間は知らぬから、うまく行かぬと焦り出す。此注意が肝腎である。(後略)」   

 (教えの光  昭和26年5月20日)