第四章 浄化作用と再浄化

 

4、浄化を乗り越えるために

 

⑤ 善を楽しむ

 

「(前略)最大なる幸福は他人を幸福にする幸福である

(後略)」                          

 

(「幸福への道」昭和22年2月5日)

  

「人に楽しませ喜ぶのを、自分も楽しみ喜ぶという事が一番満足」

「(前略)例えば、結構な美術品や絶佳な風景を見ると、自分一人楽しむのは張合もないし、気も咎めるので、一人でも多くの人に見せ、楽しませたいと思う心が湧いて来る。という工合で、私は自分だけでなく、人に楽しませ喜ぶのを、自分も楽しみ喜ぶという事が一番満足なのである。(後略)」  

]  (「感じの良い人」昭和29年4月21日)

 

「善を楽しむ」

「私は熟(ツク)づく世の中を観ると、多くの人間の楽しみとしてゐる処のものは善か悪かに分けてみると、情ない哉、どうも悪の楽しみの方がずっと多いようである。否楽しみは悪でなくてはならないように思ってゐる人も少なくないらしい。
  先づ一家の主人公であるが、生活に余裕が出来ると花柳の巷へ行きたがり、二号などを囲いたがる。而もそれが為の金銭は正当でない手段によって得る方が多いようであるが、勿論それは悪に属する行為である。それが為危い橋を渡り、国家社会に損失を与へたり、自分自身としても家庭の円満を欠き、不安の生活を送る事になろう。
而も成功と享楽が人生最後の目的であるかの如く思惟し、不知不識の裡に現世的地獄に転落するのであって、そういう人士は中流以上に多い事であると共に、それ等成功者を見る大衆は外面の様相のみに眩惑され、人生是なる哉と羨望しその真似をしたがるから、何時になっても良い社会とはならないのである。
又正直者は馬鹿を見るという言葉もあり、真面目に世渡りをしてゐる者は下積みになり、危い綱渡りをする者が出世をして豪奢な生活をするという現状である。其他官吏の役得、会社員の不正利得、政治家の闇収入等々、全く俯仰天地に愧(ハ)じない人は今日何人ありやと言いたい程である。
  是に於て私は善を楽しむ事を教えたいのである。即ち相当社会に頭角を顕わすようになっても柳暗花明の巷に出入りする事は出来るだけ避け、余財あれば社会公共の為に費し、困窮者を助け善徳を施し、神仏に帰依し、時々は家族を引連れ映画、演劇、旅行等を娯しむのである。
斯ういう様な行り方であれば一家は団欒し、妻は夫を尊敬し感謝するようになり、子女の如きも先づ不良になる心配はないであろう。従而経済不安もなく、不摂生もなく、健康も恵まれ長寿も保ち得らるる訳で、日々を楽しみ心は常に洋々たるものがある。
明治の富豪として有名な大倉喜八郎氏は面白い事を言った、「人間長生きをしたければ借金をしない事である」と、それは借金程精神的苦痛はないからである。私も二十年間借金で苦しんだ経験があるのでよく判る気がする。
然るに現代人の中には暴露すれば法に触れたり涜職罪になったりするような事を為し、暗闇(クラガリ)の取引を好み、妻君に知れたら大騒動が起るような秘密を作り、高利の借金をし常に戦々兢々として不安の日を送ってをり、其の苦痛を酒によって紛らそうとする。酒が何程高くなっても売れるのはそういう訳もあろう。従而健康を害し短命となるのは言うまでもないと共に、斯ういう泥沼生活に入ったものはなかなか抜け出る事が出来ないのが通例である。先づ抜け出る唯一の方法としては宗教に入る事で、それ以外に方法はないであろう。
  私は以上の如き善悪二筋道を書いてみた。悪を楽しむ人と善を楽しむ人とである。読者諸士よ、卿等は何れを選ぶや、熟慮を望むのである。」 

                (「善を楽しむ」昭和24年1月25日)

    

 

「人生を楽しむ事が神の恵み」

「(前略)非常識極まる宗教は、云う迄もなく其根本が小乗信仰であるから窮屈で自由がない。併し自由といえば宗教とは縁遠いように一般は思っているが、此点ヤハリ現界と同様、民主的自由主義でなければ、今後に於ける一般大衆を指導する事は出来ないであろう。
之を分り易くいえば斯うである。今日迄の宗教は小乗本位であるから、世界と同様各国夫々の色が異うが如く、宗教もそうなっている。従って其説く処も自家本位で一般性がないから、救いの範囲も狭いのは当然である。而も小乗信仰は厳しい戒律があるので、それに縛られて苦しむのを行としている。之等は神の愛を拒否する事になり、気の毒なものである。之を私は信仰地獄といっている。
処が本教は反対で、殆んど戒律がないから極めて自由であり、人生を楽しむ事を神の恵みとしているから、之こそ天国的信仰といえよう。以上の如く大乗的本教には宗教、哲学、政治、経済、教育、芸術、医学等々、人間に必要なものは悉く包含されており、恰度太陽が凡ゆる色をコントロールして白一色である如く、本教は昼の宗教であり、太陽の救いである。」
                          

(「太陽の救い」 昭和27年11月19日)

 

  

「善を行はんとする時は、神の子」

「(前略)世の宗教家教育者は、罪の子を造らぬやう、又罪に堕した者と雖も、神の子たらしむべく、努力しなければならないのである。
  之を今一層適切に言へば人間は一日の中にも一時間否一分間の中にも神の子となり、又罪の子にもなるのである、それは善を思ひ善を行はんとする時は、神の子であり、不正を思ひ、不善を行はんとする時は罪の子である、(後略)」

                    

(「人は神の子にして又罪の子なり」昭和11年1月1日)

 

 

「人間の品性を高め、楽しませつつ向上させる意味で地上天国を造った」

「(前略)もう一つ肝腎な事は、人間というものは娯楽が必要な事は言うまでもないですが、娯楽と言っても、現在ある娯楽は人間の情操を向上させるというよりも堕落に導くものの方が多いのです。確かにそういう娯楽も必要ですが、もっとレベルを高め、人間の品性を高めるような娯楽と言いますか、楽しませつつ向上させるというものも少しはなくてはならない。そういう意味において地上天国を造ったのだ。(後略)」      

 

(御教え集28号  昭和28年11月11日)