第四章 浄化作用と再浄化
4、浄化を乗り越えるために
④ 高い芸術による感化
「高い芸術による感化」
「いつも言う通り、信仰の目的は魂を磨き、心を清める事であるが、その方法としては三つある、一は、難行苦行や災害による苦しみと、二は善徳を積む事と、三は高い芸術によって魂を向上させる事とである、以上の中、最も簡単で、捷径なのは高い芸術による感化である、而も楽しみながら知らず知らずに磨けるのだから、之程結構な事はあるまい。
此意味に於て、山と水の和歌を暇ある毎によむ事である、それによって不知不識魂は向上する、魂が向上すれば智慧證覚が磨かれるから頭脳が明晰となり、信仰も楽に徹底する、それというのも山と水の和歌悉くに真善美が盛り込まれているからである。
以上の如く、私の目的は、言霊の力によっても信仰を、進めんとするのである。」
(「歌集「山と水」に就て」 昭和25年5月6日)
「地上天国は芸術が一番重要」
「(前略)これは救世教に限らず信仰している人はどうも小乗的考え方になり過ぎるのです。これは昔からいろいろな宗教がそういうようになっているのですが、どうもそういうような伝統的宗教観念が出やすいのです。だから粗衣粗食の地獄的生活を神様は大変お喜びになるように思っている宗教観念というのが大いにありますから、その間違いを直そうと思っていろいろ書いているのです。それでミロクの世というものは、そういうような事と反対です。そこで人間の、歌うとか踊るとか、いろんな楽器をならすという事は、人間を楽しませる肝腎な天国的要素です。やっぱり芸術です。ですから地上天国は芸術が一番の重要なものですから、大いに芸術を尊ぶという観念を植え付けなければならないのです。美術館というのはやっぱりその大きな一つのやり方なのです。(後略)」
(御教え集21号 昭和28年4月27日)
「芸術は真善美の中の美である以上、最も重要なもの」
「(前略)本教は芸術を大いに奨励している。恐らく既成宗教も数あるが、本教位芸術に重きを置いているものは外にあるまい。というのはいつもいう通り、天国とは芸術の世界であるからで、即ち芸術は真善美の中の美である以上、最も重要なものである。言う迄もなく、人間にとって美から受ける感化は軽視出来ないものがある。美によって心を楽しませると共に、不知不識の内に品性を向上させ、平和愛好の思想が醸成されるからである。(後略)」
(「天国的宗教と地獄的宗教」昭和26年10月24日)
「人間の情操を養い想念を向上させるのが目的」
「(前略)芸術といふものはすべて、人間の情操を養ひ想念を向上させるのが目的なんです。所が、今の芸術には人間を堕落させるものが沢山あります。(中略)
そこで、音楽でもそうですが、すべてそれによって一人でも多くの人の思想を向上させるのが一番高級な芸術で、それが神の芸術なんです。五六七の世にはそういふものが多くなるんですよ。
絵でも、大勢の人が見て楽しめるのが本当なんです。所が今の絵は個性を表し過ぎてゝ普通の人には判りませんよ。(中略)
つまり、自分だけ幾らよくったって、他の人が楽しめなかったら無用なんです。それによって人間の本性を向上させるものぢゃなくちゃ本当のもんぢゃないんですよ。そして音楽でも芸術でも、作者の魂が作品を通じて耳に入り、眼に映りして人間の魂に通ふんですから、作者の魂が低ければどうしたって立派な芸術は生れませんよ。芸術を通じて人を感動させるんだから、芸術家は特に品性が高くなくちゃいけないんです。
それよりも一段と高いのは宗教家ですね。心と心が触れ合ってその人の心が先方に通じるんですからね。だからこっちに邪念があったりすれば、いくら宣伝したって人をよくする力は全然ありませんよ。」
(御光話録10号 昭和24年5月3日)
「メシヤ様の蒐集した美術品を見ても思い出しても浄まる」
「(前略)どうしても指導階級――そういう人達が解らなければ本当の救いは出来ないのです。それには、そういう人達を解らせる一つの手段として、神様は美術館を造られたのです。
だから此処の土を踏む――此処の霊界に接近するという事としては、美術館が一番効果がある訳です。そういう意味に於て非常に必要なものです。で、神様はそういう計画ですからトントン拍子に早く旨く行つたのです。(中略)
支那陶器丈でも、或いは世界一かも知れないです。そんなに蒐まつたという事は、とても人間業ではないです。此点に於て神様は非常な活躍をされた訳です。で、見た印象というものが其人の霊に非常に影響するのです。
で、美術館にある品物を私は一々見たり楽しんだりしますが、私の霊気が入るのです。御守みたいなものです。それを見て想い出したりした人は、やつぱり霊気に依つて浄まつて来ます。だから目に見えない処のものによつて非常な力がある訳です。」
(御教え集12号 昭和27年7月7日)
「優れた美術品等、最高の美を見ると身魂が向上する」
「(前略)そこで美術館を造って名人の良いものを見せるというのはそこに意味がある。だから美術の良いもの――高いものを見ると、其人の頭が之に接近しますから、矢張り信仰で身魂を磨くのと同じ結果になる。只昔の人は色んな難行苦行をして身魂を向上させたものです。それは地獄の信仰です。つまり夜の世界の信仰です。
そこで私は天国的宗教ですから、昔の人が水浴びたり断食したりするのと同じ結果になる。それは行動からいえば大したものなんですが、売薬と違って斯ういう場合は大丈夫です。そういう訳ですから、神様はつまり美術を大いに利用したんですね。聖徳太子はそういう考えだったんですが、時期が早過ぎたんです。だからあの時代丈救うには効果があつたが、あの後やっぱり夜の世界ですからね。只美術丈は残つたが思想的には大した効果はなかつた――とはいうものの奈良にあれ丈の美術を作って残してあつた為に、時々人間が行って、それから受ける刺戟に依って幾分かの効果はあつたに違いないですね。違いないけれども時期がつまり言わば早過ぎたんですね。夜を出ない内にやつたんですね。今度私がやるのは、丁度夜明けの時期になつたから時期もピツタリする訳ですね。(後略)」
(御教え集11号 昭和27年6月6日)
「(前略)美という――最高の美をみると非常に魂が向上するんです。つまりレベルが高くなるんです。そうすると色々な事が分るんです。色んな事が分らないという事は魂が低いからです。ですから、色んな――メシヤ教の悪口を言つたりする人がありますが、それはメシヤ教が此処(上位)だと、此処(下位)に居るんですから見えないから、そこで色んな事を言うんです。まあ、屋根の上を下から見る様なもので、「何もないじやないか。立派な瓦があるなんて、それは嘘だ」と。ですからそういう人を幾分でも高くすると、横からでも一寸見えますから――それには美術館というのは必要なんです。(後略)」
(御教え集11号 昭和27年6月17日)
「私の方針---楽しみ乍ら自然に浄める」
「(前略)苦しまないで浄めるのです。ですから美術館なんかというのはそういつた意味です。あれは、美術を見ていると、美術を楽しみ乍ら自然に浄まる。向上するのです。魂のレベルが上ります。それから御祭の時の余興とかもそうです。大体余興をする芸能人なども、大分信者になるのが増えて来ましたが、あゝいう人達が信仰が分り――まあ、信者なら結構ですが、そうすると其人は霊的にそれ丈高くなりますから、そういう人の言葉や声を大衆に聞かせると、大衆がそれに依つて楽しみ乍ら幾分浄化作用が行われるのです。神様のそういう仕組なのです。そこでメシヤ教は今迄と反対に、苦しまないでつまり楽しみ乍ら磨けていくのです。之が天国的宗教です。つまり昼間の世界の宗教です。之は大変な異いです。ですから私は何時も、苦しんでやる事に碌な事はないと言うわけです。私はその方針です。(後略)」
(御教え集15号 昭和27年10月7日)
「芸術に親しみ学べば、魂が向上し御神業も発展する」
「メシヤ様は、『信者も大いに芸術に親しみ、学べば、魂が向上し、御神業も発展するのである』と仰せられる。」
(御言葉 昭和29年8月1日)
「美術館を見ると魂がきれいになる」
「(前略)だから美術館などを見る、或いは見ている内に趣味が出て来るという事は、やはりそういったような汚ないものが精神的にそれだけ減ってゆくわけです。つまり魂が美から受けるその作用によって、魂がそれだけきれいになるわけです。非常に必要なことです。神様はそういった、つまり楽しみながら魂をきれいにする、要するに浄化ですが、そういう事をやられるわけです。(後略)」
(御教え集29号 昭和28年12月15日)
「『芸術』の御歌の意味」
「『人の情 月雪花に 眼を外らす人は身魂の 低きが故なり』
人に情をかけてやっても感ぜぬのは感じが鈍いので、それは曇りが多いのである。
『春の花 秋の紅葉を 賞(メ)づるこそ神の恵みに 応うるなりける』
花でも何でも、人の目を楽します為に神が造られたもので、それを娯しまぬのは神の恵みに叛く訳で、それを神に感謝して楽しむべきである。
『芸術を 娯しむ心 裕かなる人こそ天国に 住すればなり』
割合に趣味がなく、木石の如き人は霊的に低い。やはり趣味や情緒のあつい人は上級である。それによってその人の高低が判る。」