第四章 浄化作用と再浄化
4、浄化を乗り越えるために
③ 御教え拝読
「私が書く文章は神意其儘である」
「(前略)私のかいた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。ではどういう訳かというと凡ては文章を通じてかく人の想念が其儘映るものであるからで、此点充分知らねばならないのである。之を霊的にみれば、つまりかく人の霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、此意味に於て私がかく文章は神意其儘であるから、其人の霊は浄まるのである。(後略)」
(「活字の浄霊」昭和27年11月26日)
「それから御神書とか、未信者に新聞などを読ませますが、あれは只書いてある意味を分らせる以外に、活字から浄霊される事になるのです。それは言霊の作用で、言霊が神意に合ってますと、その活字からやはり一種の光が出るのです。之は微妙なもので、私が書いた文章はそれがどんな木版でも活版でも、やはりそれを通じて光が出る。だからそれを読ませるという事は、その意味を覚るばかりでなく、そういう効果があるのです。」
(御教え集16号 昭和27年11月16日)
「御神書読むと、中心から曇りが取れていく」
「(結核の革命的療法の中で、霊体の曇りは外からと中からとの二つの原因があるとありますが、それを浄めて頂きますには、浄霊で浄める場合と、御神書の拝読による場合と区別が御座いましようか)
浄霊は外からで、御神書読むと、つまり魂ですね。魂は何でもないんだが、曇らせると、魂に影響するんです。之は魂が眠つているとか、曇つているとか――外形の影響に依つて、之だけが之(縮小)だけになる。御神書読むと、アツと目覚める。だから中心から曇りが取れていく。魂と言うものは、心(シン)の心(シン)は絶対に清いんです。何かの状態で、悪人でも目が覚めたり、愈々と言う時に良い事をしたり、人の性――性善説、性悪説とあるが――極く中心はそうなんです。その周囲だけが色々になる。だから、魂が大きくなつたり小いさくなつたりする。御魂のふゆを、と言うのは、御魂が増えると言う事です。」
(御垂示録2号 昭和26年9月8日)
]「御神書を基準に判断する事」
「(前略)それからもう一つは、人からいろんなことを聞きますが、それを正面(まとも)に信ずるということが、これがまた危ないですね。だからいろんなことを聞いても、なるほど良い、しかしこれは神様の御趣旨に合っているかどうかということをまず考えてみて、どうも神様の御趣旨に合わない点もあるようだという場合には、御神書を見るんです――読むんです。そうするとたいていなことはどこかにありますから、それで判断をするということにしなければならない。そういうことで聞違えることがよくありますからね。(後略)」
(御教え集11号 昭和27年6月7日)
「御神書を読む事と、信仰が固くしつかりする」
「(前略)結局に於て、何んだと言うと、御神書を読む事と、信仰が固くしつかりなる事と、それです。あとは何んでも間違ないでいくんです。」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)
「御神書を読んでも分らない人は自分で苦しむ」
「(前略)教団の中にも、間違った人や、いろいろな人がいますが、本当にいけなければ、私が注意を与えますがね。注意も、なすべからずとか、それを止めろとか――そういうことは言いませんがね。もし人が間違っても、この人は間違ったことをして、そのために覚るということもあるんだから、やはり頭をぶつけさせます。すると、ああ俺は間違っていたと覚ることもある。御神書を読んでも分らない人は自分で苦しむんですよ。
それで覚りを開くということもある。間違ったことをさせておけば良いんですよ。「あの人はこういうことをしているが、あれは注意しなければいけない」と言うが、私は、「あの人は今に頭をぶつけるから、それから言ったほうが良い」と、その通り頭をぶっつけさせます。また人によっては、そういう苦しみをしなくても覚り得る人もある。そこで、人間はその人の行為によって善悪は決められない。それが大乗ですからね。そこまで心得て、そこまで信仰が深くなると、私はいろいろ言います。(後略)」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)
「読めば読む程信仰が深くなり、魂が磨ける」
「(前略)熱と誠で人を動かすとしても、それには充分理解が必要である、とすれば此方も自己の智識を磨く事で、何よりも出来るだけ御神書を読む事である、又質問を受ける場合が大いにあるから、それに対し一々明確な答弁が与へられなければ、相手は納得しないに決まってゐる、従ってどんなに難しい事でも相手が承知するだけの解答を与へなくてはならない、そうして特に注意すべきは、よく苦し紛れに嘘の答弁をする人がある、相手が激しく斬り込んでくると、心にもない一時逃れをするが之は絶対いけない、仮にも神の信徒として嘘を吐くなどは許されない、知らない事は知らないと正直に言えばいいのである、処が知らないといふと相手が軽蔑しやしないかと思って知ってる振りをしたがるものだが、之が最もいけない、そうすると反って逆効果になる、といふのは、知らない事は知らないといふと、先方は此先生は正直な人だから信用が出来ると思ふ事になる、いくら偉い人でも何でも知ってゐるなんて人は恐らくない、だから知らない事があっても決して恥にはならないのである。
それから私に質問する場合、御神書の中にチャンとかいてある事柄がよくあるが、之等は平素全く御神書を読むのを怠ってゐるからである、だから出来るだけ御神書を読む事で、読めば読む程信仰が深くなり、魂が磨けるのである、御神書の拝読を疎かにするものは力が段々減るものである、信仰が徹底すればする程貪るやうに、読みたくなるもので、繰返し繰返し肚に入る迄読むのが可いのである、勿論読めば読む程御神意がハッキリ判るものである。」
(「大いに神書を読むべし」 昭和25年11月29日)
「御神書を読むと智慧正覚が発達する」
「(前略)何時かも言ったとおり、理窟に合わなければいけないという事で、つまりその理窟を考えるのです。考えれば分るのです。若し分らないとすれば智慧正覚が鈍っているからです。鈍っているという事は霊に曇りがあるのです。だからできるだけ曇りを取らなければいけないのです。それにはできるだけ御神書を読むのです。
そうするとそれだけ曇りが取れて智慧正覚が発達しますから、よく気がついたり、理窟が分りよくなります。それで理窟どおりにゆけば総てが順調にゆくのです。時々いろいろな事の質問がありますが、何かある時には調べてみると必ず何処かに理窟に外れている事があります。だからこの理窟を知る事です。理窟を知る事は、要するに気のつく事です。
だからお釈迦さんは“悟りを開け”“覚者になれ”と言ったのです。“覚者になれ”という事は、今言った智慧正覚がある程度まで発達する事です。ですから仏教の方ではよく“智慧”という事を言ってます。お釈迦さんの説いた事の眼目は殆んど“智慧”でしょう。そういうようで、“智慧”という事は、今言った智慧正覚、つまり“覚り”です。覚りという事は、あきらめという事ばかりでなく、“自覚”“覚者”という事ですから、それは大きい小さいにかかわらず何んでも理窟に合わせなければならないのです。そうするとその人のする事が、そう骨折らないで総てがうまくゆくのです。」
(御教え集26号 昭和28年9月7日)
「御神書に依って、真理を知るから魂も浄まる」
「(前略)人を助けるには、やっぱり話や説明や何かが上手(ウマ)く出来なければならないから、其為に御神書を読む。又御神書に依って、色んな真理を知りますから魂も浄まります。それと共に人を救う力もそれ丈出ます。そうして人を救い、喜ばせ乍ら、自分も向上するという事になるのです。(後略)」
(御教え集15号 昭和27年10月6日)
「読んだ丈で忘れても、一つの浄まる力が残っている」
「だから何でも彼でも「栄光」「地上天国」を読ませるに限るのです。読めば、意味が分るばかりでなく、それによって浄霊される事になるのです。ですから其人の魂がそれ丈浄まります。其時只読んだ丈で事柄を忘れても、一つの浄まる力がそれ丈残っているわけです。
言い換えれば小さな植物の種を播いてある様なもので、何時かそれが育って来ます。だから何でも彼でも読ませるに限るのです。ですからよく話を聞きたいという人に、話も良いですが兎に角其時新聞なら新聞を一枚やって、それを読めば最初の浄霊をされたわけですから、案外効果があります。」
(御教え集16号 昭和27年11月15日)
「大学程度の信仰を身に付けるには」
「(日本人種の霊的御開明を戴きましたが、人々の霊統を簡単に判知する方法、又霊統別はその人の姓名に表われておりましようか、右御垂示下さいませ。)
之等は余程信仰が深くならないと、判り得ない。言わば信仰上大学程度である。従ってそれを知りたいと思うのは、非常に結構であるから、今後出来るだけ御神書を読み、判らない事は質問をして、叡智を磨き、人助けをして、信者を多く作る事に専念すれば、霊も浄まるから、判らなかった事も判るようになるものである。」
(地天第22号 昭和26年3月号)
「大いに神書を読み、知識を得れば、使われる」
「(開拓に出掛けても中々浄霊を受けません。たまには浄霊を求められます故、お話をして上げますが、思ふ様に入信致しません。如何様にお勧めしたらよいでせうか。布教の要諦を御教示下さい。)
布教する人が神様から本当に認められていない。これも自分が資格がない。相手が悪いのでなく、自分にある。大いに神書を読み、知識を得れば、光明如来様がお使ひになる。布教の要点はない。私などよく講演や話を計画したが、何にもならぬ。行当りばったりがよい。
信仰的知識を涵養する。すると光明如来様が利用される事になる。御自身にそれだけの資格がないから神様が止めている。布教の要点などはなく、自然にぶつかると、自ら要点が出来る。
焦ったり、精神的に苦しむのは神意に反す。」
(昭和24年6月26日)
「しっかり拝読しなければ力は頂けない」
「メシヤ様は、○○氏に『御神書をよく拝読しているか』とお訊ねになる「十分には出来ておりません」とお答えさせて頂くと、『しっかりと御神書を拝読しなければ神様から力は頂けない』と御教え頂く。(後略)」
(お言葉 昭和29年7月20日)
「御神書を見せても分らない人への対応に注意する」
「(前略)今一つ重要な事は、最後の時期が迫ってくるとともに救われるものと救われざるものと審判が厳しくなって来ることである。従って本教の話をして分らなかったり、事実に目を背けたり、御神書を見せても分らない人は、時期が来ていないか既に滅びの方に運命づけられているのであるから、如何に救わんとして努力すると雖も徒労に過ぎないばかりか、救われるべき人に対してそれだけ救いが遅れることになるので、この点も厳に戒しめられているところである。(後略)」
(「信徒諸士に告ぐ!」昭和29年10月20日)
「信者諸士に最後の大活動を期待する」
「(前略)特に言いたい事は、ひとり新宗教に限らず、既成宗教をも全部含めて本教と対比する時、本教が発揮する神霊の力の如何に劃期的なものであるかを知り得るのである、勿論その時期も迫りつつある今日、信者諸士に於ても最後の大活動を期待するので、それには何よりも神書を出来るだけ拝読し、身魂を磨かなければならないのである。」
(「新宗教に正信はないか」昭和25年2月18日)
「善悪を見極める為、御神書を拝読する事」
「(前略)観世音菩薩が神の御働きとなるとすればどういふ変り方になるかは、信仰者として最も関心事であらう。それは度々言ふ如く、善悪無差別的救いが無差別ではなくなり、善悪をはっきり立別けられるのである。といふ事は善の御守護は益々厚くなり、悪には今迄と異い愈よ厳しく裁かれ給ふのである。此点を深く肝に銘じて進むべきである。それには何よりも出来るだけ御神書を拝読する事である。
神様は、御理想である真善美の完き地上天国を造らるる以上、心の穢れた間違った者を徹底的に是正されなければならないからである。」
(「何故救世教となった乎」昭和25年3月20日)
「慢心、取り違いは拝読不足」
「(前略)信仰に就ての考え方であって、之がよく間違い易い、例えば神話や伝説にある神様の因縁や関係を知りたがったり、憑霊現象に興味を持ち、無闇に知りたがるが、以上のような事も熱中すると、本筋の方が疎かになる、成程少しは知っているのも無駄ではないが、之は或程度で止すべきである、それに囚われる結果、不知不識信仰の本道から外れ易い事になる、此原因は全く御神書の読み方が足りないからであると共に、読んでも実行しないからである。(後略)」
(「慢心取り違い」昭和26年7月4日)
「御神書の拝読と浄霊を徹底する」
「(前略)今に浄化が強くなるに従って、医学的固め療法は、嫌でも逆効果となるから、医療を加えれば加える程悪化するので、お医者も気味悪くなり、そこで初めて医学に対し、疑いを起さない訳にはゆかなくなるであろうから、本教の医学に対する批判を見直す事となり、直接教えを乞いに来るお医者も数多く出来るであろうし、茲に到って本教が既成宗教と異った、偉大なる超宗教である事が判るから、吾々としてはそれ迄の辛抱であって、その準備として、御神書の拝読と浄霊によって、病気と健康に関する知識を深め、身魂を磨いて居ればいいのである。(後略)」
(「巻頭言」地27号 昭和26年8月25日)
「普段から出来るだけ御神書を拝読する」
「(前略)人間は普段から精々智慧を磨いておくべきでそれには出来るだけ御神書を拝読すべきである。(後略)」
(「行詰り」 昭和27年10月29日)
「拝読しておれば、如何なる場合でも気がつく」
「(前略)つまり何事も理屈に合っていないから、御蔭を頂けないのであるから、中教会長、支部長、教師、役員など夫々自己の階級、職責等をよく弁え、不合理に亘らぬよう注意すべきである。これに就いても平常努めて御神書を拝読し、智慧証覚を磨いておれば、如何なる場合でも気がつくものである。
これに就いても大乗と小乗との区別を忘れてはならない。一切は御神業発展を第一とし、私事は第二第三にすべきで、そうすれば何事も順調にゆくのである。つまり全体的利害を考え、合理的にすれば何程でも御蔭は頂けるもので、少しでも御神業に御邪魔になるとしたら、思うようにゆかないのは当然である。何しろ全人類を救うというドエライ仕事で、しかも神様は非常にお急ぎになっておられるから、其処をよく考えるべきである。(後略)」
「信仰の合理性に就いて」 昭和28年6月17日)
「心をきれいにするには御神書を沢山読む」
「(前略)やはり覚りという事は智慧です。ですからいろいろと何か気がつき発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というものは心の曇りが少ないわけです。そこでその曇りを少なく、心の鏡がきれいに澄んでいるというためには、御神書を沢山読むという事が一番よいわけです。
ですから御神書を読んでも、前にはよく分らなかったのが、その次に読んだら、或いは暫くたってから読むと、“これだ”“こんな良い事がある”“こんなはっきりしているのにどうして自分は分らなかったか”という事があるが、前に読んだ時には曇っていたからです。だからだんだん曇りが除れてゆくにつれてだんだん分りが良くなるという事は、そういう訳です。(後略)」
(御教え集29号 昭和28年12月5日)
「工合が悪い時には御神書を読む」
「(前略)今霊界では救世教の事を知りたがっている霊が沢山あります。ですから御神書を読んでやるのが一番よいのです。それで読む時には、小さくてもよいから声を出した方がよいです。何も異状がない時にはそういう必要はないが、自分が工合が悪い、家族が工合が悪いという時は救世教の事を知りたがって憑っている事があるから、そう思った時には声を出した方がよいです。(後略)」
(御垂示録25号 昭和28年10月1日)
「神書拝読で病気が治る」
「此患者の例は実に驚くべきものであって、医師から肺浸潤と曰はれ、気胸二ケ年続けなければ治らないとされてゐたに拘はらず、御神書を一ケ月間読んだだけで全快して了ったのである。而も一回の浄霊さへ受けなかったので、言はば読書療法である。此様な偉大な治病力は、古往今来嘗てないであろう。全快後医診を何回受けても、完全に治ったといふのであるから確かである。」
(「神書拝読で治る」医革附 昭和28年)
「御神書の扱いについて」
「(前略)私のかいた文字の上へ何かを載せると必ずお知らせがある。又御神書や本教の新聞雑誌等でもその上へ普通の印刷物など載せると、お咎めがあるものであるから、此点よく注意すべきである。」
(地天第22号 昭和26年3月号)
「御教えを通して思想性を身につける」
「明主様は、『私の指導を受けていればいいんだ』といつも言われました。 それで私はある日、「それを、一つ一つ守って行けばよろしいのですか」と申し上げますと、明主様は『そうだ』とおっしゃいました。
そういうことから、御神書(宗教篇)をまとめ、整理するという仕事が始まりました。
この事についても、一つ一つ伺ったところ、明主様は、『聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、君達のやることだ。私は時に応じて説く。それを纏めるのは君達だ。それをいちいち私に聞くことはない』とおっしゃいました。そして、明主様は、『これからの若い者は、教えがしっかりはいっていなければならない。教えを通して思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』とおっしゃいました。」
(「景仰」496頁)
「私の言葉を爪のあかほどに軽く思うな」
「明主様のお側に奉仕をお許しいただいた最初のころは、明主様のお言葉ひとつも真剣に聞き、なんでも言葉通りに御用をさせていただきましたが、凡夫の悲しさ、馴れてまいりますと、つい何気なく聞き流してしまうことがありました。そうしたある日、明主様が『私の言うことは、些細なことでも、爪のあかほど、薄紙ほどに思ってはいけないよ。ただ素直に聞いて行えばいいんだ。私の言ったことを守って、人に悪くいわれようが、憎まれようが、そんなことに驚いてはいけない』とおっしゃったことがあります。」
(「景仰」522頁)
「どんなに忙しくても一日三十分は読め」
「お側に御奉仕しておりまして、何か失敗しますと、すぐ、『御教えを読んでいるか』とご下問になるのが常でしたが、特にご晩年の昭和二十九年ごろは、一層厳しくなられ、ホンの些細な失敗でも、『おまえは御教えを読んでいるか』とお叱りになりました。
そして、『浄化がきつくなって来たから、どんなに忙しくても、一日に三十分は読め』と何かにつけて仰せられました。」
(「景仰」 498頁)