第四章 浄化作用と再浄化
4、浄化を乗り越えるために
① 正しい信仰をする
「(前略)本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。(後略)」
(「宗教即奇蹟」栄99号 昭和26年4月11日)
「(前略)正しい信仰によつて大いに徳を積む事でそれ以外に救はれる道はない。」
(地上天国15号 妙智之光 昭和25年4月20日)
「覚悟とは信仰に徹する事」
「(前略)新しい思想とは何かというと、これこそ共産主義に非ず、社会主義にも、資本主義にも民主主義にも非ずという、左に偏せず、右に偏せず、中性でもないという吾々の方でいう伊都能売思想ともいうべき、高度の文化思想が生まれ、やがてはこの思想が今後の世界をリードする事になるので、これこそ深甚なる神の経綸の現われであり、しかも決定的のものである以上、好むと好まざるに拘わらず、必ず実現するのである。即ち本教のモットーである永遠なる病貧争絶無の世界、地上天国が築かれるのである。
只併しそうなるまでには迂余曲折、波瀾重畳、帰趨に迷う事にもなろうから、予めその覚悟を決めて置くべきである。覚悟とは勿論信仰に徹する事で、これによって如何なる悩みも軽く済む以上、茲に神の大愛を見出すのである。要するにこの世界大転換期の根本は、悪が滅び善が栄えるという文字通りの新時代が来るのであるから、これが信じられないとしたら、その人こそ哀れなる者よ、汝の名は無神論者也である。」
(「これから世界はどうなる」昭和28年4月29日)
「信者となり、自分自身の向上を図る」
「(前略)何よりも一度本教の信者となるや、何人と雖も一宗の教祖位の救の力を現わし得る事である。一信者にして奇蹟を現わすなどは、日常茶飯事といってもいゝ、実に素晴しい現当利益である。そうして本教の教によれば人生の妙諦を会得し、真理に目醒め、日常生活は改善され、心中明朗となり、確固たる信念の下、未来に渉って迄も透見されるので、真の安心立命を得るのである。何よりも本教信者は時の経るに従い、人相がよくなる事である。
というのは浄血者となる以上、健康は増進し、前途の不安は消え、品性も向上するので、世間の信用は高まり、人々から敬愛されるという有徳者となるからである。そうして本教のモットーである地上天国を造る其基本条件としては、先づ個人の向上であり、天国人たる資格を得る事である。 (後略)」
(「本教の誕生」昭和25年11月20日)
「罪穢を消すのに効果的なのは信仰」
「三毒は貪瞋痴、五濁は罪穢の五つの種類である。人間の罪悪を分類してある。之を滅する方法は人を助け徳を積む事である。苦しむ事――いろんな苦しみにより滅するのは、骨が折れて効果が薄い。然しもっと楽で効果的なのは信仰で、教修を受けるのは罪穢を消滅する方法を覚える事である。であるから、教修を受けただけではいけない。罪穢を除るといふのは、一人でも人を幸福にするとか、導く事をするのである。」
(昭和24年3月20日)
「神に御任せする事」
「(前略)信仰の線に入るといふ事は神に御任せする事です。人間的な考へもいゝが、それも或程度までです。一般に神に任せるといふ気になる人が少い。心配事などあると私は「神様に御任せしろ」と云ふのです。神に御任せする気になれば信仰の門に入った証拠であり、それで安心立命を得られるのです。又御任せすれば旨く行くのです。神様としても「俺をそんなに信頼するのならよくしてやらう」と思はれる。昔から「仏の心は凡夫の心、凡夫の心は仏の心」と言はれる様に、神様だって或程度は人間と同じです。形だけの信仰はいけない。つまりさ、一人でも多くの人を救へばいゝんです。いよいよ最後の時に来てゐる。出来るだけ人を救はなければいけない。」
(御光話録 昭和23年9月8日)
「救われるには、心から神に縋ること」
「【お伺】神は浄化を下し給うて御救い下さる反面、苦痛をも与え給うのは罪業の許しの意味でしようか。又浄化と関聯して死が与えられるという事は、如何に考えるべきでありますか。
【御垂示】罪業の払拭は苦痛によつて行われるものと、神に縋る事によつて楽に済む場合とある。前者は無信仰者の場合であり、後者は信仰者の場合である。
神からの救いの綱が下つても、それを掴む事の出来ない人は罪穢が多すぎ、霊体が重くて掴む事が出来ないのである。然るにその後浄化のため、病気、災難等の苦痛が起り、それによつて罪が減るから霊が軽くなり、救いの綱え手が届く事になる。その様な訳でいくら良い教を説いても、救いの綱に掴り得ない人は、その罪の減る迄時期を待つ外はない。その時無理につかまらせても落ちてしまう。然し右の場合浄霊を受ければ楽に早く浄化される。
浄霊によつても死ぬのは、多くの場合心から神に縋らぬからで、その人の信仰のどこかに不純な点がある事が多い。一切を擲つて神に縋る人は不治とみらるる病も大抵は助かるものである。信仰の浅い人は危機の場合迷いが生じ易いので、その途端に神の救いの綱が切れるのである。」
(教えの光 罪と信仰 昭和26年5月20日)
「信仰さえ動かなければ好転する」
「(私は戦災に遇いただいま他地に住まっておりますが、相次ぐ物心両面の苦しみに耐えかねつつも救いのお道のため、大いに働かせていただきたいと衷心より願っておりますが、それも思うようにできませんが、どういうわけでしょう。)
これは罪穢がたくさんあるためでもあり、また大きい使命があるからでもある。大きい使命のある人はより磨かねばならない。それがため苦しい浄化はあっても、その人に信仰のある場合神様は必ずそれに堪え得るような奇蹟や、いっぽう良いことを与え希望を持たせてくださるものである。故に信仰さえ動かなければさほど苦しまず必ず一歩一歩好転してくる。故に結局は良くならんがための苦しみと覚るべきである。」
(地上天国2号 昭和24年3月1日)
「生活を困らすような神なら信仰する要はない」
「(従来の商売を捨てゝ専ら観音様の御手伝いをさせて頂いて居りますが、財力乏しく二、三ケ月後には生活に困ることと存じますが、家族の反対を押し切って進ませて頂きます。生活の心配は御座いませんでせうか。)
生活に心配するような事は決してない。ちゃんと神様の方でそんな困らすような事はしない。絶対心配ない。以前、中島が金に困り、電車賃がなくて来れなかったといふ。ちょっとその宅へ立寄ってみると、赤貧洗ふが如しであったが、それから年年良くなり、近来は素晴しい。
生活を困らすような神なら信仰する要はない。人間でも働けばそれだけの手当をする。」
(昭和23年8月17日)
「心の問題を解決するには、信仰より他にない」
「(前略)だから悪を無くするという事は何うしても宗教でなければならないのです。悪というのは心の問題ですから、心の問題を解決するには、之はやはり信仰より他にないのです。之は、理窟はそうだが、只力のない処の信仰、お説教の様なものでは――それは無いよりはましだが、とても悪の方が力が強くてそれをやつつける事は到底出来ない。だから色々な機関や組織は旨く出来ているのですが、それを悪が利用するから、何うしても悪というものを減らす――全然無くすという事より他にないのです。処がそれに気が附きそうなものだが、案外そういう事に気が附かない。気が附かない筈です。その、気が附くべき人の中にやつぱり悪があるから、やつぱり都合が悪い。それで悪というものは仕様がないと諦めているのです。諦めているというのは何かというと、凡ゆる宗教が諦めている。(後略)」
(「御教集12号」 昭和27年7月27日)