第四章 浄化作用と再浄化

 

4、浄化を乗り越えるために

 

 

「他人を幸福にする為に努力する事が、自分を幸福にする絶対的条件」

「(前略)昔から言ふ処の善因善果、悪因悪果とは実に千古を貫く真理である。此理を知って他人を幸福にする為に努力する事こそ、自分自身を幸福にする絶対的条件であらねばならない。処が世の中には他人の不幸を顧みずして自分だけが幸福にならうとする人間があまりにも多い事である。一方不幸の種を播きつつ幸福の実を得ようとするのであるから、全く愚かな話である。恰度水を押すと手前の方へ流れ、引くと先へ流れるのと同様である。宗教が人間にとって如何に必要であるかは此点にあるのである。(後略)                              

 

(「幸福」 昭和23年12月1日)

  

「善い事は無論結構だが、悪い事も浄化の為」

「(前略)善い事は無論結構だが、悪い事も浄化の為で、それが済めばよくなるに決っているから、ドッチへ転んでも結構な訳で、無病結構、病気結構としたら、これこそ真の安心立命である。といってもこれは信仰者に限るので、無信仰者は寧ろ反対であり、苦しみが苦しみを生み焦れば焦る程悪くなるばかりで、遂には奈落の底へ沈むようになる。この理によって人間幸福の秘訣はこの道理を弁える事である。」   

 

 (「御神意を覚れ」 昭和28年12月2日)

  

「多くの人を助けて、神様のお役に立つ人に」

「(前略)応身の働きによつて、多くの人を助けて、神様のお役に立つと言うと、自分が持つている罪穢れが消えていく。無くなつて了つて、自分が浄化されなくなる、色んな災難――苦しみと言うのは無くなつていく。そうなつて、はじめて安心立命になる。神様にお任かせすると言う事になる。いきなり安心立命と言うのは難かしい。それ丈け、その人が浄まらなければならない。併し、そこ迄本当に解つて信じられれば、安心立命を得ているんです。何んな事があつても、びくともしなければね。少し位悪くても、之は浄化で、之で毒が減つていくんだからと言う事になる。
だから、メシヤ教に入れば、大体は安心立命を得ている。唯、あまり浄化が強いので、中には迷うのもあるが、何うして自分はこうだろうと思う人もあるが、之は人間として止むを得ないですね。その根底さえ分つていればその苦しみを楽に通過しますからね。(後略)」

 

                      (御垂示録4号  昭和26年11月5日)
  

「人を仕合わせにする事」

「(徳を積めば良いという事で、どうする事が一番徳を積む事になるかという事をよく聞かれますが、その一番の事は明主様の御仕事の御手助けになる事をさせて戴くという事が一番良いという事でございますから)
  それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合わせにする事です。要するに徳を積む事です。それが明主様の御仕事の手伝いをするという事になるのです。」      

 

 (御垂示録16号  昭和27年12月1日)

 

  

「霊を浄めれば、病貧争が無くなる」

(御浄霊は病気が治る許りでなく、心が浄まるに従つて、貧争もなくなると解釈してますが、それで宜敷いでしようか)

 

  良いでしよう。

 

(その時自分の意識を働かしてはいけないが、治してやらうと言うのは――貧を無くする場合は、貧を無くすると言う想念で――)

 

  結構です。そう言う執着は結構な執着です。処がね。病気が治れば貧も争も無くなる。メシヤ教で病気を治すと言う事は――貧乏も貧苦でしよう。だから、そういつた浄化すべき曇りが無くなるから、貧の苦しみも争いの苦しみもなくなる。広く解釈すれば良い。根本は浄霊ですから、霊を浄めるんです。霊を浄めれば、貧も無くなる。だから私は何時も、人間許りじやない。国の病気、世界の病気だと言うんです。
  日本が病気なんです。貧乏しているんです。又世界の病気なんです。共産主義の苦しみと言うのは、結核みたいなものですからね。」                    

 

(御垂示録4号  昭和26年11月1日)

   

「常に神の光に浴し霊を浄める事」

「私は常に霊主体従という事を唱えているが、この事を全人類が知ったなら、茲に文明は一大飛躍となるであろう。処が現代人は霊の実在を信ぜず、只体のみを対象としている以上、言わば外表的間に合わせ文明であるから、如何に進歩したとて、相変らずの地獄世界である。
  この理によって、霊の認識と霊の曇りを解消する事こそ根本である。ではどうすればいいかというと、これこそ常に神の光に浴し霊を浄める事で、これ以外に道はないのである。といっても神にも上中下の階級があり高位の神程光が強い、この点が重要である。そこへゆくと自画自讃ではないが、我救世教の主宰神は今まで出現されたことのない最高最貴の神であるから、信者は常に大いなる光に恵まれ浄められているので、無病健康は勿論、他人の病気まで治し得るのである。又本教信者には驚くべき奇蹟が多いのも光の為である(後略)」     

 

 (「霊科学」 昭和28年11月18日)

 

  

「人間の体の中を美しくする、それには・・・」

「(前略)人間は意外に薬毒が多いという事と、血膿というものは薬毒の変化したものという事と、人間の美というものも体の中がきれいにならなければ本当の美ではないという事です。やっぱり腹の中が美になれば――肉体が美になれば心も美になりますから、そうすると美しいものを好むという事になります。だから美術館などを見る、或いは見ている内に趣味が出て来るという事は、やはりそういったような汚ないものが精神的にそれだけ減ってゆくわけです。
つまり魂が美から受けるその作用によって、魂がそれだけきれいになるわけです。非常に必要なことです。神様はそういった、つまり楽しみながら魂をきれいにする、要するに浄化ですが、そういう事をやられるわけです。
だからして真善美の美という事の一番の根本は、人間の体の中を美しくするという事で、その方法は、つまり直接には浄霊、間接には教えを耳に聞き、それから美を目から入れるという事です。だからして救世教がやっている事は、本当に地上天国を造る要素なので、他の宗教でそういったような考えでやっているのは殆んどないのです。(後略)」      

 

 (御教え集29号  昭和28年12月15日)

 

  

「救世教は光で救う」

「(前略)本当に良い世界を造るという事は、救世教のやり方以外にないわけです。
ところが救世教をおそろしく毛嫌いするのですが、というのは、つまり身体の中に汚ないものをウンと持っているから、どうも掃除がつらいというわけです。この掃除がつらいというのが副守護神です。というのは、自分にとって勝手が悪い事になるから、極力止めようとするのです。特に狐や狸というのは自分の居所が無くなるようなわけですから、つまり萎縮してしまい、活動が出来なくなるのです。彼等が一番怖いのは光ですが、救世教は光で救うのです。
ところが一方祖先とかいうのは、光によって浄められれば霊界の地位が上りますから、救われたいというわけです。よくお蔭話で、祖霊が喜ぶ状態とか、信者にしたいとか、副守護神が邪魔しているのがありますが、それが分って見れば、実によく分ります。近頃非常に精神病が増えたという事は、そういった動物霊が働きやすくなったからです。働きやすくなったという事は、人間の霊が曇ると彼等の活動力が増しますから、此処に汚ない血膿なら血膿があれば霊の方は曇りが強いわけです。それで曇りがあるほど動物霊というのは其処で仕事をしやすくなるわけです。だから了簡(リヨウケン)の間違った者や罪を犯す者は、副守護神、つまり動物霊が働きよい状態に置かれているわけです。(後略)」                            

 

 (御教え集29号  昭和28年12月15日)     

   

「霊の地位向上こそ幸運の根本」

「(前略)霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨まれるようになり、自分もいい気持になって、いつ迄も続くと思っていると、豈計らんやいつしか失敗転落、元の木阿彌となる例もよくある。
というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、然も人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。
昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。
これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。といっても成程理屈は分るが、偖て実行となると中々難かしいものである。処が容易に出来る方法がある。これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、先ず信仰に入る事である。」

 

                     (「幸運の秘訣」 昭和29年2月3日)