第三章 信仰の向上を図るために
4、感謝報恩について
② 報恩について
「何処迄も愛で他人を幸福にする」
「(前略)それから、凡ての信仰的の考え方ですけれども、やつぱり今と同じ様に、自分も良し人も良し、人も良し自分も良し、と言うのでなければいけないですね。よく、戦争時分なんかも、滅私奉公なんて言いましたが、あれはいけない。極端ですね。滅私と言うのは、自分を滅すと言うんだからね。自分が無くなつちや、奉公なんか出来ない。然しあれは、私を滅すると言う――私利私欲を無くすると言うんでしようが、之もやはり極端です。だから、伊都能売式に言えば、人も良し自分も良し――之でなければ続くものではない。自分丈は犠牲になつて人は良い、と言う事はいけないし、人を押しつぶしても自分が良く、と言う事もいけないですね。両方が良くなければならない。そんな旨い事が出来るかと言うが、出来るんです。むしろ、自分が良ければ人も良い、と言うのが出来安いんです。今迄は知らなかつたんですね。大本教のお筆先にこう言う事があつた「人良かれの信心でないと、神の気持にかなわぬぞ」人良かれ――之は旨い言葉ですね。それから「今の世は、自分さえ良ければ人は何うでも良いと言うむごい心になり居るから――」とある。ですから、大本教では「我良し信心」と言うのがありますね。之は勿論いけないですね。私の信仰雑話にある通り、自分が幸福になりたければ、人を幸福にする。何処迄も愛ですね。他人を幸福にすると言う――之が欠けていてはいけない。之が伊都能売になる。自分を捨てて人許り良くすると言うのも極端で、自分さえ良ければ人をぶつつぶしても良いと言う――之も極端です。(後略)」
(御教え集6号 昭和27年1月1日)
「地獄で苦しんでいる人を、天国へ救う」
「本教の使命は地獄で苦しんでゐる人達を、天国へ救ふので、それによって社会を天国化そうとするのである。此意味に於て、人を天国へ救ふには、先づ自分が天国に上って天国人となり、大衆を救ひ上げるのである。つまり地獄から天国へ梯子をかけて、手を延して一段一段登らしてやるといふ訳である。之が今日迄の凡ゆる宗教と異る点で、それは寧ろ反対でさえある。
周知の如く、昔から宗教人といえば、粗衣粗食、最低生活に甘んじ、難行苦行を重ね、自分は地獄的状態にあり乍ら衆生を救はうとするのであるから、梯子を逆に用ひる訳である。即ち、救ふ者が救はれるものを押し上げてやるのであるから、上から引張るよりも押し上げる方が、どの位骨が折れるかは、推察さるるであらう。(後略)」
(「本教救ひの特異性」 昭和24年10月5日)
「苦しんで発展させ様という事はいけない」
「(前略)信仰を人に奨めたり、色々しても中々解つて呉れない。それから、支部の人や何かでも、もつと発展しそうなものだが、発展しそうでしないと言う人なんか、よくあるんです。そこで急(アセ)つて、色々――落着いて居ないで、積極的にやり過ぎるんですね。
之は、肝腎な事を忘れる訳なんです。それは、昔から色んな宗教や何かは、殆ど宗教の歴史と言えば、苦しみの歴史ですからね。特にキリスト教なんか、ひどいですがね。殉教者と言う言葉がある位でね。苦しみ抜いて、そこに植え附ける、とね。キリスト教なんか、よくありますがね。アフリカの蕃地なんかに、命掛けで行つて、其処に信仰を植附ける。まあ結構な事には違いないですがね。けれども、その為に非常な苦しみをして、結局犠牲になつちやうんですね。そう言う事が宗教を発展させると言う上に於て必要であると言う様な頭が誰にもあるんですよ。そこで、メシヤ教信者になつても、やはり苦心惨憺して、相当な苦しみをしなければならん。と言う為に無理をするんですね。無理をするから益々苦しくなる。それで、案外発展していかないんです。その点何だと言うと、今迄は夜の世界だつたんですから、夜の世界と言うのは、地獄の世界ですからね。そこで、信仰でも――つまり地獄的信仰ですね。
(中略)苦しんで発展させ様と言う事はいけないんです。メシヤ教では――それをいけないと言うのは、夜の世界の信仰ですからね。メシヤ教の方は昼の世界の信仰です。天国を造る宗教です。(後略)」
(御教え集7号 昭和27年2月25日)
「一人が百人」
「本教信者が、一生懸命浄霊や言霊によって一人の信者を作り、ヤレヤレと思うその時は、只手を引いて門内へ入れただけのことで、中々安心は出来ない。どうしても御座敷へ案内して、家の内部の肝腎なところを見せなければ、本当の信者になったとは言えないのである。これは経験者にはよくわかっているが、これについて言いたいことは、その人が一人の確かりした信者を作るだけの力があるとすれば、百人を作ることは敢て難事ではない。その又百人が百人の信者を作るとしたら、鼠算的に増え、遂には驚くべき数字に上るのは勿論である。
というとそんなに巧くトントン拍子にゆくとは思えないであろうが、それは今までの宗教を標準として考えるからである。ところが我救世(メシヤ)教は全然異う。何となればその力に於て、今日までの宗教とは比べものにならない程高度な宗教であるからである。特に本教独特の浄霊法であるが、この方法による病気治しの成果は、到底信ずることは出来ない素晴しさであるのは、一度本教に触れれば直ちに分るのである。(中略)
以上の如く本教は宗教でありながら、宗教は一部であって、目下のところだけでも医術、農業、芸術を主としての素晴しい成果を挙げている。勿論いずれは他の文化面に亘っても、劃期的事業を行う予定であるが、これを一言にしていえば誤れる地獄的文化をして、真の天国的文化に置き換えるのである。このような空前の力を有つ宗教としたら、一人が百人に増えるのも敢て不思議はないであろう。」
(「一人が百人」栄192号 昭和28年1月21日)
「報恩も善の表われ」
「(前略)善人とは「見えざるものを信ずる」人であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる」人である。従而「見えざるものを信ずる」人とは、神仏の実在を信ずる、所謂唯心主義者であり、「見えざるものは信じない」といふ人は唯物主義者であり、無神論者である。その例を挙げてみよう。
今人間が善を行ふ場合、其の意念は愛からであり、慈悲からであり、社会正義からでもあり、大きくみれば人類愛からでもある。そうして善因善果、悪因悪果を信じて善を行う人もあり、憐愍の情止むにやまれず人を助けたり、仏教でいう四恩に酬いるというような報恩精神からも、物を無駄にしない、勿体ないと思う質素、倹約等、何れも善の表われである。又人に好感を与えようとし、他人の利便幸福を願い、親切を施し、自己の天職に忠実であり、信仰者が神仏に感謝し報恩の行為も、神仏の御心に叶うべく努める事も、悉(ミナ)善の表われである。(後略)」
(「善と悪」昭和24年1月25日)
「お陰信心は、神に感謝し報恩する事を知らない」
「単に信仰といってもいろいろ種類がある。(中略)
之等を一つ一つ解説してみるが・・・お陰信心は、ただお陰さえ貰えばいい、神様の為とか世の中の為とか、そういう事は第二義的で、自分さえよければ可いという利己的信心で、之等は多く中流以上の人に多い。信仰を利用する事は知っても、神に感謝し報恩する事を知らないのである。そうして信仰を利用するという事は人間が上で神が下になる。神を崇め奉仕する事こそ神から恵みを受けるのであるから、此お蔭信心は、反ってお蔭を無くする訳で永続きしないものである。(後略)」
(「信仰の種類」昭和25年1月30日)