第五章 霊的知識を深める

 

4、御神体・御尊影について

 

今までの学びを通して、『御神体・御尊影』を我々の家庭に御奉斎することについての重要性は感じられていると思いますが、この項では「何故、必要なのか」「どういう時に御奉斎するのか」「どういう姿勢が望ましいのか」等々、さらに具体的にメシヤ様のお言葉で学んでみたいと思います。


       

「礼拝者の想念で神霊の偉力は変わる」

「(前略)霊界は全く想念の世界である以上、無から有を生じ、有が無になり変異極りないものである。その例として茲に絵画彫刻等によって神仏の本尊が作られるとする。処がその作者の人格によって、懸り給ふ神霊仏霊に自ら高下を生ずる。即ち作者の人格が然らしめるので、最も高い場合はそれに相応する高級神霊が降臨される。故に形は同一であっても、作者の人格が低い場合はそれに相応した代理神霊、又は分神霊が懸られるのである。
  今一つは、凡て礼拝の的である御神体に対し、礼拝者が誠を以て心から念願する場合、その神霊の威力、即ち光明は偉力を発揮するに反し、礼拝者の想念が形式だけで、心からの尊信の念がない場合、神霊の偉力はそれだけ減殺されるのである。又礼拝者が多数あればある程、神威弥々赫々たる光明を増すのである。(後略)」

 

                (「霊界の不思議」 昭和24年10月25日)

      

「蜘蛛の巣がかかったりしていると光は出ない」

「(前略)神様の光は蜘蛛の巣がかかったりしていると出ないんです。」                       

 

 (御垂示録2号  昭和26年9月8日)

 

       

「一家揃って、一番浄い処にお祀りする」

「(前略)本人が信仰に入つて、御神書を読んで立派な信仰だ。是非お祀りさせて下さい。と言うのなら良いが、本当に分らないうちに押しつける様にして祀らせたのでは、神様に対して御無礼になる。有難い、是非自分もそう言う神様を拝みたいと言う切なる気持でお祀りしてこそ、はじめて神様は――人間と同じですよ――気持が良いです。
人間だつて、あの人に是非来て戴きたい、助けて戴きたいと言う気持の処に行つた方が良いでしよう。それを、その気持がないのに、押売り的に行つても、先が心から歓迎しないからね、心からでないと、光が強く出ない。
お祀りして、人間が本当に敬まつて崇めると、光が強くなる。だから、一家揃つて、一番浄い処にお祀りすると、光が違う。それを、人間以下に――人間が上に住んで居たりしては、光が出ないんです。(後略)」

 

                (御垂示録3号  昭和26年10月8日)

             

「御神体も御守りも時期がくれば変わる」

「(前略)私は、これまで顧問の名の下に、いはば蔭にあって経綸を行ってゐたが、漸く基礎的工作も出来上ったので、茲に表面的活動に移る事となった訳である、端的に言へば、いよいよ本舞台に登場する事となったのである、従而各般に渉って漸次組織形体は固より、活動の形式も新しく生れるのは勿論である。
  そうして、祝詞にもある如く観世音菩薩、光明如来、メシヤ(救世主)、彌勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊である以上根本は変るのではない、いはば時期に応じて御神霊の活動範囲が拡充するのであるから、御神体も御守りも或時期まではそのままで差支えない、未だ種々発表したい事もあるが、時期の推移に従って漸次発表する段取となるので、今は此辺に止めておくのである。
  最後に言はなければならない事はこれ迄は観世音菩薩の御働きであったから、言はば東洋的であった、然るに時期切迫の為どうしても一大飛躍によって全人類を救はなければならない、とすれば世界的に拡充する必要がある、世界救世教の名に因る所以である。
  今一つは観世音菩薩は、善悪無差別的の救済であったが、愈よ地上天国が目前に迫り来った、今日茲に善悪を立別け、善を育て悪を滅しなければならない事になった、所謂悪のトドメである、従而救ひの力も決定的でなくてはならない、その力こそメシヤの揮はせらるる大神力である。(後略)」         

                            

(「開教の辞  世界救世教の誕生に就て」  昭和25年2月4日)

              

「霊的病気は御神体が一番肝腎」

「(お伺)精神分裂症にて入院し、電撃療法を行い一度は収まりましたが、翌年再発し再入院致し、頭が変でありましたが昨年五月より御浄霊を戴いております。八月頃には精神異常が甚だしくなりましたが、最近は応答も大分普通に出来る迄にさせて戴きました。魚が好きで、その食べ方は犬猫の様だと申しております。御神体はお祀りさせて戴く迄に信仰が進んで居りませんが、御屏風観音様はお祀りさせて戴いております。霊的と思われますが、無理の様でも御神体をお祀りさせて戴きませんと、お救い戴けないもので御座いましようか。
〔御垂示〕精神病は、少しけわしい時は、歩けなくなつたりしますが、あれは麻痺する注射を    うつんでね。筋肉が締つてない――足を使わないと痩せて来ます。之は猫の霊が憑つているんだな。絶対に御神体をお祀りしなければ駄目です。精神病的なものは、御神体が一番肝腎なんです。ですから、それをやらないで浄霊許りしていても駄目ですよ。今言つた通りですね。」
                                  

(御教え集6号  昭和27年1月17日)

 

              

「アパートとか社宅で御神体は不可」

(最近アパートとか社宅で信者が出来ますが、何か御神体を戴けないもので御座居ましようか) 

 

それはね、丁度千手観音様がありますから、あれなら何処でも良いからね。」                   

 

 (御垂示録1号  昭和26年8月8日)
  

 

「御神体奉斎は家族の理解が大切」

(家族が御神体の意味が判らない為、家族に内緒で頂く人がございますが、これは如何でせうか。)


  あゝ、これはいけませんね。これは家族が或程度理解したら頂く事ですね。早く御神体を頂けば早く理解するかっていふとそうでもないんですよ。(後略)」        

 

 (御光話録16号  昭和24年11、12月)