食と農

 

「食」について

 

4、サプリメント飲用の誤謬

「栄養剤を摂ると体内機能は衰える」

 (前略)今一つの例を挙げてみよう。ここに機械製造工場があるとする。その工場は原料たる、鉄や石炭を運び込み、それを職工の労作と、石炭を燃やし機械を運転し種々の順序を経て初めて一個の完全なる機械が造り出されるのである。それが工場の使命であり、工場の存在理由であり工場の生活力である。之が儻(モ)し完成した機械を工場に運び込んだとすると、工場は職工の労作も器械の運転も必要がない。煙突から烟も出ないといふ訳で其工場の生活は無いのである。従而職工も解雇し、機械も漸次錆ついて其工場の存在理由は消滅するであらう。人間も之と同様であって、栄養食を摂るとすると、本来栄養食とはより完成した食物である。而もヴィタミンの如き栄養素は特に完成されたものであるから、体内の工場は労作の必要がないが故に機能の弱るのは当然である。故に、此意味に於て人間は、成可原始的粗食を摂って体内機能がそれを完全栄養素に変化すべく活動させるやうに為すべきである。

その活動の過程其ものこそ、人間の生活力となって現はれ
るからである。(後略)                  (「栄養学」明医一  昭和18年10月5日)
                                        (「栄養学」明医二  昭和17年9月28日)

                              (「栄養学」天  昭和22年2月5日)類似「栄養剤の誤謬」

 (前略)今日栄養剤として先づ王座を占めてるビタミンA、B、C
を初めアミノ酸、グリコーゲン、含水炭素、脂肪、蛋白等を主な
るものとし多種多様なものがあり、ビタミンの種類が年々増加し
つつあるのは衆知の通りであるが、之等を服用又は注射によって体内に入れるや一時的効果はあるが持続性はない。

結局は逆効果となるから栄養剤を服めば服む程人体は衰弱するのである。之は如何なる訳かといふと、抑々人間が食物を摂取するといふ事は、人間の生命を保持し生活力を発揮させる為である事は今更説明の要はないが、此点の解釈が今日の学理は実際と喰違ってゐる。
 先づ人間が食物を摂るとする、歯で噛み食道を通じて胃中に入り次いで腸に下り不要分は糞尿となって排泄され、必要分のみを吸収するのである。此の過程を経る迄に肝臓、胆嚢、腎臓、膵臓等凡ゆる栄養機能の活動によって血液も筋肉も骨も皮膚も毛髪も歯牙も爪等一切の機能に必要な栄養素を生産、抽出、分布し端倪すべからざる活動によって生活の営みが行はれるので実に神秘幽幻なる造化の妙は到底筆舌には表はせないのであって、之がありのまゝの自然の姿である。(中略)
 茲で栄養剤に就て説明するが、抑々体内の栄養機能は如何なる食物からでも必要な栄養素即ちビタミンでも何でも自由自在に恰度必要量だけ生産されるのである。つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機能の不思議な力は所要量だけのビタミンを生産するのである。此様に食物中から栄養素を生産するその活動の過程こそ人間の生活力である。

早く言えば、未完成物質を完成させるその過程の活動が生活に外ならないのである。
 此理に由って、栄養剤を摂るとすれば、栄養剤は完成したものであるから体内の栄養生産機能は、活動の必要がないから自然退化する。栄養機能が退化する以上、連帯責任である他の機能も退化するのは当然で、身体は漸次弱化するのである。(中略)
 前述の如く未完成食物を喰ひ、完全栄養素に変化させるその活動こそ人間生活力であるという事を、機械製造工場へ例へてみよう。
 最初、工場に原料資材を搬入するとする、工場は石炭を焚き、機械を動かし、職工が活動し漸次完成した機械が作られる。その過程が工場としての存在理由である。之を反対に完成した機械を工場に搬入するとすれば、工場は労作の必要がないから石炭も焚かず、機械も動かさず職工も必要がない、という訳で工場は閉鎖するより仕方がない。
 以上の如く私は出来るだけ判り易く説明したつもりであるが、此理によって考へれば栄養剤という何等の味もない物に多額の金銭を費し反って身体を弱らせるというのであるから、其愚や喜劇というより評しようがないのである。(後略) 

                                     (「栄養の喜劇」自叢十  昭和25年4月20日)

 

「栄養素は総ゆる食物に含まれている」

  (前略)人間が生を営む為に要する栄養素は総ゆる食物に含まれてをり、食物の種類が千差万別であるのもそれぞれ必要な栄養資料となるからであると共に、人により時により嗜好や量が異ったり、又種類が同一でないのは受入れる体内の必要によるからである。例えば腹が減れば物を食ひ、喉が涸(カワ)けば水を飲み、甘いものを欲する時は糖分が不足しているからで、辛いものを欲する時は塩分不足の為である。という訳で人間自然の要求がよく其理を語っている。何よりも人間が欲する場合必ず美味いという事である。故に薬と称して服みたくもない不味い物を我慢して食う事の如何に間違っているかが判るのである。昔から「良薬は口ににがし」などという事の如何に誤りであるかで、にがいという事は毒だから口へ入れては不可ないと造物主が示しているのである。此の理によって美味である程栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚で栄養分が多い訳である。新鮮なる程魚も野菜も美味という事は霊気が濃いからで、時間が経つに従い味が減るのは霊気が発散するからである。(後略)        (「栄養の喜劇」自叢十  昭和25年4月20日)


「栄養食を喰へば体は弱る」

   "病人に栄養食を与へる事は如何でせうか。

 

"先づ栄養食とはどういふものかといふ事ですね。医学では完成した食物といふ意味ですね。所が人間の肉体は完成品が入っては働かないのです。未完成品を完成品にするのが臓器の働きです。だから栄養食を喰へば弱ります。(後略)  

                                           (御光話録  昭和23年11月18日)

 

「栄養を摂る程衰弱する」

 (前略)人体は栄養を摂る程衰弱するという逆結果となる。

即ちビタミンを摂る程ビタミンは不足する。之は不思議でも何でもない。というのは栄養を体内に入れるとすると、栄養生産機能は活動の余地がなくなるから退化して了う。言うまでもなく栄養とは完成したものであるからである。本来人間の生活力とは、機能の活動によって生れる其結果であるから、機能の活動特に消化機能の活動こそ生活力の主体であって、言わば生活力即健康である。そうして機能を活動させる事とは未完成な食物を、完成にすべき機能の労作である。何よりも空腹になると弱るというのは食物を処理すべき労作が終ったからであり、早速食物を摂るや、再び活動を始めると同時に、身体が確かりするに見て判るであろう。而も人体凡ての機能は、相互関係にある以上、根本の消化機能が弱れば他の機能も弱り、回復すれば他も回復するのは当然である。
 又人間に運動が健康上必要である事は言う迄もないが、それは外部的に新陳代謝を旺盛にするからで、勿論内部的にも相当好影響はあるが、根本的ではなく支援的である。どうしても消化機能自体の活動を促進させなければならない。それには消化のいいものでは駄目で、普通一般の食物がいいのである。処が医学は消化の良いもの程可とするが、実は消化の良いもの程胃を弱らせる。(後略)       (「栄養」結革  昭和26年8月15日)


「体内の生産機能を弱らせる物とは」

(前略)他の例として斯ういう事がある。乳の足りない母親に向って牛乳を奨めるが、之も可笑しい、人間は子を産めば育つだけの乳は必ず出るに決っている、足りないという事は、何処かに間違った点があるからで、その点を発見し是正すればいいのである。処が医学ではそれに気が付かないのか、気が付いてもどうする事も出来ないのか、口から乳首迄筒抜けになっているように思っているとしか思えない。之が飛んでもない間違いで、牛乳を呑むと反って乳の出が悪くなる、それは外部から乳を供給する以上、乳を生産する機能が退化するからである。

又病人が栄養として動物の生血を呑む事があるが、実に呆れたものである。成程一時は多少の効果はあるかも知れないが、実は体内の血液生産機能を弱らせる、其結果却って貧血するようになる。考えても見るがいい、人間は、白い米やパンを食い、青い菜や黄色い豆を食って、赤い血が出来るにみて、何と素晴しい生産技術者ではないか。血液の一粍だもない物を食っても、血液が出来るとしたら、血液を飲んだら一体どういう事になろう、言う迄もなく逆に血液は出来ない事になる。そこに気が付かない栄養学の蒙昧は、何と評していいか言葉はない。彼の牛という獣でさえ、藁を食って、結構な牛乳が出来るではないか、況んや人間に於てをやである。之等によてみても、栄養学の誤謬発生の原因は、全く自然を無視した処に原因するのである。そうして、人間になくてならない栄養は、植物に多く含まれている。何よりも菜食者は例外なく健康で長生きである。彼の粗食主義の禅僧などには長寿者が最も多い事実や、先日九十四歳で物故した英国のバーナード・ショウ翁の如きは、有名な菜食主義者である。(後略)  (「栄養」結革  昭和26年8月15日)

「ビタミン等の栄養剤、体内生産機能は退化する、その1」

 (前略)日常生活に於ても、ヤレ何の食物は栄養があり、ビタミンを含んでいるから食えとか、何は消化が悪いから胃を毀すとか、食過ぎは毒だとか、左程食いたくもない物でも薬だから喰えとか、ヤレ鉄分を含んでるからいいなどと、其煩わしい事夥しい。何しろ盲目的に医学を信用し切っているのだからどうしようもないのである。それが人民ばかりではなく、政府も同様であるから、常に奨励までしているという訳で、此有様を吾々からみれば其馬鹿らしさに呆れるばかりである。 いつも言う通り、ビタミンの多い物を食えば、体内のビタミン生産機能は退化するし、栄養を余り摂れば逆作用によって身体は弱るし、消化のいい物やよく噛んで食うと胃の活動が鈍って胃病になる。(後略)         

                                  (「世界的丁髷時代」栄155号  昭和27年5月7日)


「ビタミン等の栄養剤、体内生産機能は退化する、その2」

 (前略)第一に誤っている点は、栄養学に於ては食物のみを対象としていて、肝腎な人体の栄養機能の方を閑却している一事である。例えばビタミンにしても、ABCなどと分類して、サモ進歩したように思わせているが、之は何の意味もなさないのである。というのは根本が分っていないからでもあろうが、ビタミン不足というのは、実はビタミン生産抽出機能が弱っているからで、其機能を快復させる事こそ本当の方法である。

(中略)従ってビタミンを服めば服む程、ビタミン生産機能は退化するから人体も弱る。弱れば浄化も弱るから、病気症状は軽減する。それを医学は、栄養による好結果と錯覚するのであるから、栄養学は人間と食物との関係に無知というよりも、逆解している訳である。(後略)   
                                           (「栄養」結信  昭和27年12月1日)


「栄養剤と生産機能」

 栄養といって近頃ビタミンを多く使用するようになったのは、医
学の無智とは言い乍ら困ったものである。いつもいう通りビタミンでもどんな栄養剤でも飲めば飲む程、反って体力を弱らすばかりである。というのは体内の機能は、必要な栄養は何でも自ら製造するように出来ているからである。従って栄養剤を飲めば機能の働く余地がないから、退化するのは当然である。

という訳で美味くもないものに高い金を遣って健康を不良にするのであるから、その馬鹿々々しさはお話にならないのである。
 この意味に於て造物主は、人間を養うに足るだけの食物を適当に与えられている以上、その味わいを楽しみつつ食っていれば、それで充分栄養は摂れるので、栄養学などという間違った学問が無くなるとしたら人間はどんなに助かるか分らないのである。           (「医学断片集(三十一)逆栄養」栄207号  昭和28年5月6日)


「完全な栄養のみを採ると人類は滅びる」

   "完全なる人間と真の健康者とはどう違ふものでございませうか。

 

"違いはない。健康といっても肉体だけでない。完全人間は、(理屈)健康といっても肉体のみでない、精神も共に健康でなくてはいけない。別々にみるから違ふ。強盗などは肉体は強健でも霊は病人となる。完全人間には出来ぬが、完全にならうとして一歩々々近づく。之が人間として最高のものである。それでよい。こういふ心のある人は間違った事は少ない。
 完全といふものは絶対にない。ただ一歩々々近づいていく事で、完全になると進歩はなくなる。完全に近づこうとする努力が進歩であり変化で、完全になると或いは人類は滅するかもしれない。文化の進歩もなくならう。
 完全な栄養のみを採るとなると人類は滅する。不完全なものをもって完全なものを作るといふのが人間の体であるから、完全なもののみを食えば人間は滅する。不完全を完全にしようとする――その活動が生命である。栄養食などでは、乳が出ぬと乳を飲む。であるから、栄養を食えば弱る。今は凡て逆をやっている。以前、鶏で医学が試験し、完全栄養をやったら二日で死んだ事がある。                (「真の健康者」S23・11・4)