4-②,既存医療について

 手 術

「言ふ迄もない事であるが、手術程悪いものはないのである。然し、医師に言はしむれば、病症に依っては、手術をせねば、万に一つも助からぬといふ患者に施すのであるから、之も亦、止むを得ないとの理由があらふ。然し、私が多年の経験上、手術をしなくてもいい場合、手術をしたり、手術をした為に、反って病勢を悪化せしめ、遂に、死に到らしめた様な実例が余りにも多いのである。

 

 手術の為に生命が助かった人より、手術の為に、生命を落した人の方が多いのは、実験上、疑ひない処である。西洋医学も血を出し、肉を切る手術などと言ふ、野蛮極まる方法を用ひないで、病気を治療する様にならなければ駄目である。(中略) 故に、手術は、自然の自己治病工作の妨害をする医薬と等しく、折角の自然治癒を妨害して、病気を悪化させるか、又は、より症状の悪い病気に変化させるだけのものである。」          

(「手術」医講  S10.)

 

「(中略)手術であるが、例えば、扁桃腺を除去するとする。成程、扁桃腺炎は起らないが、それに更るに、他の、疾患、淋巴腺、耳下腺、中耳炎、肺尖加答児等に罹り易いといふ事実、又、盲腸炎の手術の結果は、腎臓や腹膜炎を起し易く、卵巣除去の結果は、子宮癌、腎臓病を起し易いといふ例も、知らない筈は無いと思ふのである。斯の如く、本来の病気よりも、手術後に起り易い疾患の方が、より悪性であるといふ事は、大いに考へなくてはならない事である。然し、医家は曰ふであらふ。手術をしなければ、生命に係はる以上、一時なりとも、其生命を延長し得る効果があるから、可いではないかと、成程、それも一理はある。が然し、それでは、本当の医術ではない。(中略)」

                          

  (「医学に欺されてる、医師」明医  S11.5.15.)

 

「(中略)今日医学の進歩を言ふ時必ず手術の進歩を賞(タタ)へるのである。之は一寸聞くと尤のやうであるが、実は大いなる誤である。何となれば病患以外患部の機能をも除去するので、人体に於ける重要機能を消失する以上、他に悪影響を及ぼさない訳にはゆかない。成程手術後一時的或期間は健康であるが、数年後徐々として健康に支障を及ぼす事は確実である。それは浄化機能の喪失によって、毒素は他の凡ゆる機能を侵す事になる。

 

 事実、扁桃腺除去後、首より上方の病気に罹り易くなり、又虫様突起除去は腎臓、腹膜、胃腸等に障碍を来し、婦人は月経不順勝ちになり、頭痛、肩の凝り等に悩み、全身的にも活力減退は争へない事実である。常識で考へても判る筈である。最も高級で微妙極まる人体組織の一部なりとも毀損(キソン)する以上、何等かの影響がない訳はない。(中略)

 

 斯くの如く手術は病気のみの除去ではなく、併せて機能の除去でもあるから、如何に理由づけるとしても医術の進歩とはならない。医術の真の進歩とは病気だけを除去して機能はそのまま元通りであらねばならないのである。然し乍ら、内科的手術は、外面に痕跡を貽(ノコ)さないから、直接不自由と外観に影響がないので左程恐れられないのであらう。

 

 従而私は思ふ、手術の進歩とは医術の進歩ではなく、技術の進歩に過ぎないのである。又思ふ、メスを揮ひ、痛苦を与へ、血液を消耗させ、人体の一部を不具者たらしむる事は、全く野蛮的行為でなくて何であらう。」

                       (「扁桃腺炎及び盲腸炎の手術」天  S22.2.5)

 

「(中略)手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。判り易く言えば、病気と其機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。従って真の医術とは病だけを除って、機能は元の儘でなくてはならない筈である。処が医学が如何に進歩したといっても、病のみを除り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了ふのであるから、此事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであらう。(中略)従って何としても大いに覚醒して、初めから行り直すより外あるまい。即ち医学の再出発である。(中略)

 

  茲で前に戻って、再び手術に就て筆を進めるが、成程一時手術によって、治ったとしても、それで本当に治ったのではないから、暫くすると必ず何等かの病気が発生するが、医学は其原因に気が付かないのである。そんな訳で手術後の先には余り関心を持たないのである。然し考へても見るがいい。体内の重要機能を除去したとすれば、言はば体内的不具者となるのであるから、全然影響のない筈はない

 

 例へば外的不具者で足一本、手一本処か、指一本、否指の頭だけ欠損しても、其不自由さは一生涯の悩みの種である。況んや内的不具者に於てをやである。而も外的不具者なら、生命に関係はないが、内的のそれは生命に至大の関係があるのは当然である。(中略)

 

  要するに再三言う通り、手術なるものは、如何に有害無益なものであるかは、医学が一層進歩すれば分る筈であるから、最初に述べた如く手術の如き、野蛮的方法は、是非全廃して貰ひたいのである。(中略)」 

(「手術」文創  S27.)

 

「近来手術が大いに流行し、(中略)手術を進歩させる事こそ、医学の最高条件とさえ唱えているが、無論日本にも同じように思っている医家もあるであろう。処が之を私からみると、大いに間違っているので、其事をかいてみるが、本来病気とは私が常に曰う如く、或局部へ毒素が溜結し、それが排除される苦痛をいうのであるが、それに対し医学の考え方は、手術によって現在あるだけの毒素さえ除ればそれで治るという浅薄な考え方である。

 

 成程それだけの毒素ならいいが、多くの場合後続部隊があって、一時は無くなっても、次々溜結してくるので一旦手術で治っても、又悪くなり、再手術、再三手術をしなければならない事が、よくあるにみて明かである。

 

  例えば盲腸炎で虫様突起を除去するから、成程盲腸炎にはならないが、後続毒素は腹膜や腎臓の方へ溜結する事になり、第二、第三の病原を作るのである。又腎臓病で右か左か一方の腎臓を摘出しても、それだけで治り切りになる事は滅多にない。大抵は残った方に亦起るというような事になる。次に最も多い胃癌の手術にしても、完全に除去される事は少ないそうで、殆んどはいくらか残り、それが拡がって再発し易いとされている。

 

  右のような訳で幸い手術で成功しても、元通りの健康体に復する事は殆んどない。盲腸手術後腹力がなくなったり、腎臓摘出後ヒョロヒョロになったり、胃癌の手術後満足に食事が摂れず、柔かい物を何回にも分けるなどの苦痛もある。というように謂わば内部的不具者になるので、真の医術の方法とはいえないであろう。而もいつも私のいう通り、手術とはメスを揮って人体を切り刻むのだから、野蛮極まる行り方である。

 

  処が本教の浄霊法たるや、溜結せる毒薬だけを排除し、元通りに治るのであるから、之こそ最も進歩した文化的医学といえよう。」       

(「手術は野蛮?」  S27.2.13)

 

「(中略)次の手術であるが、之も勿論真の医療ではない。何となれば医療とは病だけを治す方法であって、臓器や筋肉を傷害し除去する方法ではないに拘わらず、医療は治し得ないから非常手段によって治そうとする窮余の方法でしかないのである。少なく共文化的ではなく野蛮以外の何物でもない。而も之を医学の進歩とさへ思うのであるから驚くべき錯誤である。いつもいう如く手術とは貴重なる人体の一部を毀損し不具にするのであるから、勿論一生涯一人前の人間としての役目を果す事は出来ない。 (中略)」

                                               

(「文化的野蛮性」  S27.7.25)

 

「(中略)種々の手術を行うが、之等も間に合せ手段で、根本的ではないから捗々しく治らないのみか、仮令治るにしても一時的で、再発かそうでなければ弱体者となり、一生壊れ者扱いをされなければならない人間となるのは、医家もよく承知しているであろう。(中略)」              

                                       

(「結論」結信  S27.12.1)

 

「(中略)手術の進歩とは、医術の不進歩を表白する事は私は常に唱へている。従って真の医術とは、患部の機能は其儘にしてをいて、只病気だけを除って了ふ事で、之が真の医術である。それは殆んどの病気は機能の近接部に毒素が集溜固結し、器能の活動を圧迫阻害するからであって、機能自体には関係がないのである。従って治病とは右の毒素だけを除去して了へば、それで完全に治るのである。処が医学ではそのやうな巧妙な事が出来ない為、止むなく機能も共に除去して了うので、全く無力の結果に外ならないのである。

 

  従って病気を治す目的の為、患部全体を切り除るとしたら、原始人的方法であって、少なく共文化的でない事は言う迄もない。而もその手段たるや肉を切り、血を出し、骨を削るなどの残虐的行為により、患者に非常な痛苦を与へるに至っては寧ろ悲惨事である。成程手術中だけは麻酔薬を用いて痛苦を免るとしても、その後の傷口が治るまでのガーゼの取替や日数のかかる事、莫大な費用を要する等を考へたら、患者の負担は容易なものではあるまい。

 

 それでも順調にゆけばまだしもだが、中には経過が悪く再手術を要する場合もあり、切開してから誤診が分り慌てて口を閉ぐ事などもよく聞く話で、偶には手術の失敗で生命を失ふ事さへあるのだから、全く一種の冒険である。そればかりではない、外部的病気の場合手や足は勿論、指を切って不具にしたり、腫物などは醜い傷痕を残す等、一生涯の不幸の種を残す等忌憚なくいってみれば、現代医学は野蛮医学といってもよからう。

 

  然し乍ら医師は曰うであらう。"成程それは分ってゐるが、若し手術をしなければ生命に関はる以上、不具や傷痕など云ってはをれないから、止むを得ず行うのだ"との理由もあらうが、之が大変な誤りである。というのは手術を要する程の病気なら、無論固結毒素に強烈な浄化が起ったからで、熱も痛みも相当激しいに違ひない。つまり旺んに治りつつある状態であるから、放っておけば迅速に毒は溶けて、排泄され必ず治るのであって、苦痛はそれまでの期間と思へばいい。

 

 それを手術の苦痛に比べたら何分の一で済むのであるばかりではなく、堪へられない程の苦痛であればある程短期間で済む訳で、長くとも数日位と思へばいいので、而も自然療法なら順調に治るから心配がなく、寧ろ楽しみとなる位だから我慢し易い訳である。

 

 処が世間よく何十日も痛む患者があるが、之は元の病気の外に薬毒を追加する為、其痛みが増したからである。而も自然治癒なれば不具にもならず、醜い痕も残らず、短時日で順調に治り費用もかからず、生命の危険さへないのだから、此事を知っただけでも大きな幸福を得たのである。

 

 然し之を読む医師も一般人も、今迄の考へ方との余りの異いさに、容易に信ずる事は出来まいが、之こそ絶対の真理である以上、白紙になれば簡単に分る筈である。(中略)」 

                                             (「手術に就て」医革  S28.)

 

「(中略)近来手術の進歩を誇称し、大いに励行しているが、これは大変な誤りである。というのは手術の進歩とは、医術の進歩ではなく寧ろ退歩であるからである。何となれば真の医術とは、病に冒されている臓器その物を除去するのではなく、臓器はその儘にしておいて、病だけを除去するのが本当であるからである。しかもその為肉を切り、出血をさせ、非常な痛苦を与えるのみか、内部的不具者にするのであるから、医術処か非医術であるに拘わらず、これを進歩した方法と信じているのであるから、その無智なるいうべき言葉はないのである。

 

  しかも人間は、身体の一部と雖も毀損する以上、その影響のない筈はない。例えば盲腸炎にしても、膿だけ除るのならいいが、医療はそれが不可能な為、虫様突起までも共に切除してしまうのであるから、野蛮極るというべきである。何となれば造物主は人体に不必要なものは一つも造ってない筈である。

 

 

 

これについてよく医家は盲腸は不必要だとか、腎臓は両方なくても差支えないなどというが、これは全くその必要性が不明であるからで、如何に今日の医学が幼稚であると共に、一面神への冒涜でもある。何となればそんな理屈をいう医学者自身も神から造られたものではないか。(中略)」                      
(「手術について」ア救  S28.1.1)