第四章 浄化作用と再浄化
4、浄化を乗り越えるために
② 善徳を積む
「幸福は霊界の地位による」
「(前略)運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、一段階が六十段で、それが又二十段宛に分れ、総計百八十段になっている。勿論下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。そうして一般人の殆んどは中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。即ち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。然も現界と異って霊界は至公至平にして、些かの依怙(エコ)もないから悪人には都合が悪いが、この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。勿論地獄界は嫉妬、怨恨、嫉(ソネ)み、憎み、貧窮等仏教でいう貪瞋癡が渦巻いており、下段に降る程濃厚となり、最下段は根底の国、又は暗黒無明極寒地獄、煉獄とも曰われている。といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、人間の運不運は、霊界の地位如何によるのである。勿論その因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。事実悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記の如く霊界に於ける籍が地獄にあるからである。それに引替え現在如何に不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、いつかは幸運者となるのは、厳として冒すべからざる神律である。(後略)」
(「霊と体」世奇 昭和28年9月10日)
「人を幸福にする」
「(徳を積めば良いという事で、どうする事が一番徳を積む事になるかという事をよく聞かれますが、その一番の事は明主様の御仕事の御手助けになる事をさせて戴くという事が一番良いという事でございますから)
それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合わせにする事です。要するに徳を積む事です。それが明主様の御仕事の手伝いをするという事になるのです。」
(御垂示録16号 昭和27年12月1日)
「多くの人を助けて、神様のお役に立つこと」
「(前略)応身の働きによつて、多くの人を助けて、神様のお役に立つと言うと、自分が持つている罪穢れが消えていく。無くなつて了つて、自分が浄化されなくなる、色んな災難――苦しみと言うのは無くなつていく。そうなつて。はじめて安心立命になる。神様にお任かせすると言う事になる。いきなり安心立命と言うのは難かしい。それ丈け、その人が浄まらなければならない。併し、そこ迄本当に解つて信じられれば、安心立命を得ているんです。何んな事があつても、びくともしなければね。少し位悪くても、之は浄化で、之で毒が減つていくんだからと言う事になる。だから、メシヤ教に入れば、大体は安心立命を得ている。唯、あまり浄化が強いので、中には迷うのもあるが、何うして自分はこうだろうと思う人もあるが、之は人間として止むを得ないですね。その根底さえ分つていればその苦しみを楽に通過しますからね。(後略)」
(御垂示録4号 昭和26年11月5日)
「陰徳を積む」
「(徳を積むとか、徳のある人とか申しますが、この「徳」とは何でせうか。又陰徳を積むとは何の事でせうか。)
徳ってのは人の為とか、世の中の為になる事をすること――それが徳になるんです。これを沢山やる事を徳を積むって言ふんです。そして、徳を積むには御浄霊によったり、この信仰に導いたりするのが一番いゝんです。金をめぐんだり、慈善を施したりするのは一時的でね、永続性がないんですよ。だから、人を永遠に救ふ信仰に入れる程、徳を積むのにいゝ方法は他にないんですよ。徳を積むと大勢の人が感謝しますからね。その感謝の光でその人の霊が太り、霊の栄養になるんです。神道の祝詞に「御霊(ミタマ)のふゆを幸倍(サキハヘ)給へ」ってのがありますがね、「ふゆ」ってのは「殖える」で太る事なんです。太ると光りが多くなるから霊層界の上にのぼり、仕合せも、いゝ事も多くなるんです。
それから陰徳ってのは人に知られないでいゝ事をする事ですよ。よく、神社の境内なんかに「金何円也」とか書いて寄附の札が貼ってありますね、あれなんかは人に知られるから陽徳ですよ。人に知られる場合はそれだけの報ひがもう来てゐるんですが、人に知られない場合は神様が御褒美を下さいますからね。同じ徳でも陰徳の方がよっぽどいゝんですよ。ところが人間ってのは顕れないと気が済まないもんでねえ……
なるたけ人に知られないでいゝ事をするんですね。そうするとね、神様の方で何層倍にもして返して下さいますよ。だから陰徳を積むってのは大変なことなんです。今の人はこの事が判らないから陽徳許りですね。」
(御光話録9号 昭和24年)
「災難に遭うのは決まっている」
「災難ってのはね、大体人間には決ってるんです。ちゃんとその人はその時に災難に会うように決ってるんです。そこで大難を小難に、小難を無難に変へて頂く様に御願ひするのが本当ですね。この人はしかし、まだ無難にするだけの御利益を頂いてないんです。だんだん徳を積むと無難に変へて頂ける様になりますよ。一番無難に変へて頂くのは夢で済ませて頂くんです。本当は死ぬべき所を、夢で死ぬ形をするだけで済むことがあるんです。」
(御光話録9号 昭和24年)
「子供の不良化は親の罪」
「(前略)子供が不良だっていふのは、やっぱり親に罪があるんですよ。子供が不良だといろいろと心配するでしょ。その苦痛が浄化作用なんですよ。すべて苦痛といふものは罪穢れの浄化なんですから。所が、徳を積むとそれによって苦痛を受けるべき条件が減って来るんです。だから親が信仰を深くして、一生懸命に人を助けて徳を積めば、それによって子供の不良もよくなるんです。」
(御光話録9号 昭和24年)
「子供は親の想念を受けるもの」
「(前略)それから信仰すればいゝ子が出来るっていふのは、之は決ってますよ。信仰すれば心が神仏に向ひ、悪い料簡を持たなくなりますからね。子供は親の想念を受けるものなんです。みんなではないけど、ある点は必ず受けるんです。だから、親が心のいゝ状態の時に出来た子供は矢張りいゝですよ。親の罪穢れの多い少い、心持のいゝ悪いが子供に非常な関係があるんです。親が間違った事をしながら、子供をいましめるっていふのは滑稽ですよ。親は幹で、子は枝ですからね、幹がヒョロヒョロしてゐて、枝だけよくなる訳はないんです。先づ親が大いに徳を積むんですよ。そうすりゃ子供の不良も出なくなりますよ。親が妾を囲ったりしてゐながら、子供が放蕩するのを叱りつけるっていふのがよくありますがね、こんなのは何にもなりませんよ。
だからね、人間っていふのは間違った事は出来ない様に出来てるんですよ。間違った事をすれば必ずそれだけの酬ひが来て自分自身が苦しむんです。然も、苦しみには利息がつきますからね。溜れば溜る程利息がついて、それが一遍に返って来る時にはひどい目に合ひますからね。だから早く解決しないと困るんですよ。」 (御光話録14号 昭和24年8月23日)
「霊線によって浄める事が一番」
「入信して徳を積む。すると家族も霊線によって浄まる。○○子も霊線によって浄めてゆく。そうすると入信したくなる。或程度浄めなければ信仰心は起らぬ。それには此方が浄まる事で、そして霊線によって浄める事が一番効果がある。霊線を伝わって曇りがとれる。一人判った人が出来ればいい。」
(S24・11・7)
「騙されるのもそれだけの資格がある」
「(小供の手癖の悪いのは如何したらよろしゅう御座いましょうか。)
動物霊が憑いてやらすのである。斯ういう事をするのは、親に罪がある。親と関連している。親自身、自分の心を省みて大いに徳を積む事にする。そして親に罪があると、霊層界の下にあり、霊層の下の下にあると、何か苦しみがある。それで子供の盗みの苦しみがなくなるとしても他の何かの苦しみがある。徳を積んで霊層界の上へ上ると、子供も親が心配するような事が出来なくなる。その事をよく知らなくてはならぬ。騙されるのもそれだけの資格がある訳である。泥棒にとられたり、いろんな事で損をする等も、その物質が汚れてる。間違った事があり、その罪をとられる為の浄化で、之は凡ゆる事にある。(中略)」
(年代不詳)
「曇りを無くすることが根本」
「人間に曇りを無くすることが健康法の根本であります。これは光に浴することが一番で光にふれることである。朝夕観音様を拝む事は光にふれる事で、光に照されることである。魂に光を受けるから清まるのである。此の光に大、中、小がある。本部が大であり、支部が中であり、自家の観音様が小なのである。(後略)」
(「絶対健康法」 昭和10年9月15日)
「信者を作らして戴くことや導くことが大切」
「(前略)又徳を積む事である。徳を積めば其徳により光が増すのである。人を救う。善い事をすると感謝となって、光となって其の人へ報い来るのであります。其の為其の人に威厳が増すから恭敬(ウヤ)まわれるのである。魂の穢れた人は徳がないから光がない。始終ビクビクしているから卑しく見えるのだ。徳を積むには神様の事、社会の事、個人を救う事をどんどんやるのである。其の人が仮に病気をしていて人を救うことが出来んというかも知れんが、病気中なれば病気をしながらも人を救う様に世話をするのである。神様の有難いことを話して神様を信ずる様にするなり、病人なれば神様へ御治療を受けに行く様にする事である。この様にすれば病人でもその徳により自分の病気が直ちに癒るのであるから余計に神様からお光をいたゞくのである。
信者を一人作らしていたゞくのや導くのは大変な御用である。其の人が他人を救う。又其の救われた人が又救うといふ様に鼠算式に信者が殖えると大変なことになる。
それが絶対の健康法なのである。体的本位の健康法は末である。神様の御用をすれば何を喰べても非常に健康なのである。滋養も衛生も末の末、夜の世界の最後のものである。滋養は神様の霊気が一番なのである。」
(「絶対健康法」 昭和10年9月15日)
「出来るだけ善事を行う---他人を幸福にする」
「(前略)吾々としては現実を主とし、生ある間幸福者たり得ればそれでいいのである。故に何よりも右の根源を発見し実行する事である、ではその方法はといへば常に吾々のいう、他人を幸福にする事で、ただ此一事だけである、処がそれには最もいい方法がある、その方法を私は長い間実行していて、素晴しい好結果を挙げているので、それを教えたい為に此文をかいたのである。
右を先づ簡単にいえば、出来るだけ善事を行うのである、始終間さえあれば何か善い事をしようと心掛けるのである、例えば人を喜ばせよう、世の中の為になら妻は夫を気持よく働かせるようにし、夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする、親は子を愛するのは当然だが、叡智を働かせて子供の将来を思い、封建的でなく、子供は親に快く心服し、愉快に勉強させるようにする、其他日常凡ての場合相手に希望をもたせるようにし、上役に対しても下役に対しても愛と親切とを旨とし出来る限り誠を尽すのである、政治家は自分の事を棚上げにして国民の幸福を第一とし凡て模範を示すようにする、勿論、一般人も一生懸命善事を行う事につとめ智慧を揮ひ、努力するのである、斯様に善事を多くした人程幸福者になる事は受合である。(後略)」
(「幸福の秘訣」 昭和24年10月1日)
「善を想い善を行う場合、之が霊体に加って光を増す」
「(前略)霊衣の厚薄も善悪の量に比例するのである。即ち善を想ひ善を行ふ場合、内面的には良心の満足感が起るので、その想念は光となり、之が霊体に加って光を増す事となり、その反対である場合、悪は曇となって霊体に曇りが増す。又外面的には人に善を行ふ時は相手の人の感謝の想念が光となって、善行者に対し霊線を通じて伝達するから光が増す事になる。其反対である場合、怨み、憎み、嫉み等の想念は曇りとなって伝達して来るから曇りが増すのである。之によってみても人は善を行ひ他人を喜ばすべきで、決して他人から憎み、怨み、嫉み等の想念を受けてはならないのである。
世間よく急激に出世したものや成金輩が、いつしか失敗没落するやうな事があるのは右の理に由るのである。即ち成功の原因は自己の力量手腕、努力に因るとなし、増長慢に陥り、利己的独善的となり、贅沢三味に耽る結果、多数者から憎み、怨み、嫉み等の曇りの想念が蝟集(イシュウ)する結果、霊衣は光を失ひ、薄くなり、終に没落するのである。又何代も続いた名家や富豪などが没落するのは、元来社会的上位にある者はそれだけ国家社会から恩恵を受けてゐる以上、それに酬いなければならない。即ち大いに社会に向って善事を行ひ之によって断えず曇を消すべきである。然るに多くは己の利欲のみを考へ、利他的行為に乏しい結果曇の方が増量し、形態は立派であっても霊の方は下践者同様になってゐる。其為霊主体従の法則によって終に没落する事になるのである。(後略)」
(「霊波と霊衣」昭和22年2月5日)
「真の健康法とは、正しい想念と善徳を施す以外にはない」
「元来、真の健康法といふものは、霊体を曇らせない様にする事である。霊体を曇らせない様にするには、其根元である魂を曇らせない様にする事であります。
茲に、一個の人間があるとする。此の人が間違った事をする。秘密的な人に知られて悪いやうな事をすると良心が咎める。それ丈でも魂は曇るのであります。
又人を苦しめる様な事をすると気が咎めて自分自身が曇ると共に、苦しめられた人の想念が曇となって来るのであります。(中略)
今度は反対に人を助けたり人が感謝する様な行をすると、その感謝の念は『光』となってその人に来るので、それによって曇はそれだけ解けるから、其人は常に健康でいつも朗かでをられるのであります。之に依てみても真の健康法とは、正しい想念と善徳を施す以外にはないのであります。
其人の行が俯仰天地に愧じないならば、心魂は常に爽快明朗であります。ですから、病気は或程度自分が作るのであって、それに依って苦しむものなのであります。祖先の罪穢(ツミケガレ)と雖も自分の行り方によって消えるのであります。(後略)」
(「真の健康法」昭和11年7月)
② 善徳を積む