第三章 信仰の向上を図るために
4、感謝報恩について
① 御守護に対する感謝
「感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶ」
「感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ、何となれば感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずるからだ、此理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ、大本教のお筆先に曰く「喜べは喜び事が来るぞよ」とは正に至言である。」
(「人間は想念次第」昭和24年9月3日)
「その役目に選ばれた救世教の人は、大変な仕合せ」
「(前略)今までの神様や仏様というのは本当の事を知らなかったために間違った教えや事を説いたわけです。バイブルにしろ経文にしろ、随分間違った所があるのです。そのために幾ら研究しても本当の事が分らないからして、覚りを開けなかったわけです。又そのために、人間が本当の事を知らなかったのです。つまり文明というものが間違って、それで人間が苦しみ抜いて来たわけです。例えば医学にしろ、全然間違った事をやっていたという事など、そのために人間が病気で苦しんだり、早死にしたりするという事なども、元は本当の事が分らなかったためです。という事は、本当の事が分ってはいけなかった主神の経綸なのですから、それでよかったわけです。それをもう本当に分らせて本当の文明を作らなければならないという時期が来たという事も、やはり主神の経綸なのですから、やはりそれでよかったのです。
これからの人類、人間は、本当の幸福というものを得られるわけです。その役目が救世教です。ですから“来たるべきものが来た”というわけです。今までの間違った世の中が続いてはいけない経綸からそうなったのです。だからそれがどうこうという事は人間には分らないのです。今丁度、何時も言うとおり、夜の世界が昼間になる、その分れ目なのですから、実に重大な時期であると共に、その役目に選ばれたる救世教の人達は、まず大変な仕合せなわけです。人類始まって以来ない幸福と言ってもよいわけです。(後略)」
(御教え集32号 昭和29年3月24日)
「神恩への感謝を忘れない事」
「(前略)先ず普通信仰者の最初の中は至極真面目に御神徳や奇蹟に感激し、熱心な信仰を続けつつあるのであるが、正しい信仰である以上おかげは著るしく自然多数の人から尊敬される事になり、生活境遇も大に恵まれるので、本来なれば愈よ神恩に感謝し、一層身を慎しみ報恩に尽すべきに拘わらず、凡人の悲しさ、不知不識恩に狃(ナ)れ、慢心が生じ、心に隙が出来るのである、処が邪神は此隙を常に狙ひつめてゐるので、得たり賢しとその隙に入り込み、その人を占領し肉体を自由自在に操るようになるので、実に危い哉というべきである。(後略)」
(「神は正なり」 昭和25年3月18日)
「感謝の想念は、自らわく気持で」
「(前略)想念の問題はこうだと思うと窮屈になるのです。だからそれは自分自らわく気持でよいのです。だからその人が大して思ってない、或いは有難くて有難くてしようがないという、それでよいのです。感謝です。(中略)想念がなければ御利益がないと言うと、それは強制されたもので、想念でないのです。想念というのはわき起こるものです。だから千篇一律と思っても、自分だけはどうしてもそう思えないという、それが本当の想念で、これが大乗的なものです。想念を説くのもよいのですが、それも時と質問によってです。ですから私は不断は言いません。」
(御垂示録23号 昭和28年8月1日)
「一瞬にして霊線を通じてお蔭を頂く」
「(前略)
私にある光の力は非常に大きいもので、普通人の何万倍か何百万倍か、あるいは無限大かも分らないほどで、ほとんど想像を絶するといってもよかろう。(中略)之程絶大なる力を有つ私としたら、何物も分らない筈はない。信者はよく知る通り、如何なる事を訊かれても、私は答えに窮した事はない。又遠方の人で病苦に悩んでいる場合、よく電報などで御守護を頼んでくるが、それだけでお蔭を貰う人も沢山ある。それは私の耳に入るや、一瞬にして光の一部が分裂して其人に繋がる。之によって霊線を通じてお蔭を頂くのである。此様に光は何万倍にも、どんなに遠くても放射され、連繋されるのだから重宝である。(後略)」
(「私の光」 昭和27年5月25日)
「霊的の事は想念が肝腎」
「(御奉仕のやり方想念によってひっかかるのがあるのではないかと思われますが)
御蔭ですか。前に私が大本教に居た時に、或る人が献金を頼んだのです。するとその人は綾部に行く途中で芸者買いをして使ってしまったのです。そうすると無駄なようですが、ところが決してそうではないのです。その想念は直ぐ神様に通ずるものです。“それは霊は行っているので、体だけが使われているのだから何でもない、上げるというのを持って行って途中で使っても同じだ”というので、私はなるほどと思いました。上げたいという想念です。それが一番分るのは、死んで間もない霊が咽喉が嗄れてしようがないと言うので“遺族が水を上げたでしょう”と言うと、“そうではあるが、その想念が悪いから飲めない”と言うのです。“上げたい”という心で上げると飲めるが、女中に任せたり、お役でやっていると、その想念が間違っているから、飲んでもうまくないし、又飲めないというのです。霊的の事は想念が肝腎です。
霊主体従で霊が主なのですから、“これだけお上げする”という気持で上げると、途中で無くしても、そんな事は関係ありません。」
(御垂示録22号 昭和28年7月1日)
「感謝の誠を捧げる場合、分相応の最大限度であればいい」
「(前略)そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。分相応の最大限度であればいいのである。神様は何も彼も御存知だから、無理をせずとも御許しになると共に、その上一人でも多くの人を救い信者を作れば尚更結構であって、要は実行である。
そのように凡てが理屈に叶えば、先ず再浄化は起らない筈で、仮令起っても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。話は違うが世間多くの宗教の中には、御蔭を頂かない内から、これだけ献金すれば助かるなどといって、御礼の先取りをする事があるが、これなどは欺瞞行為であるから、御利益のあろう筈はない。全く取次先生の考えが誤っているからである。そこへゆくと我救世教は御利益があってから分相応の感謝をすればいいので、至極合理的であるに拘わらず、それを怠るとしたら、全く人間の方が間違っており、お気附けを頂くのは当然である。それでも気がつかないから命まで召上げられるので、何処までも不合理は赦されないのである。
今一つ肝腎な事は、神様が命を下さる御目的はその人を御神業に働かせる為であるから、それを覚って実行すれば健康は益々よくなり、幸福は何程でも恵まれるが、それを裏切るとしたら折角の救いを自分から拒否する訳である。」
(「信仰の合理性と再浄化」 昭和28年5月27日)
「御蔭というのを値打にするなら・・・」
「(前略)本当言うと、御蔭というのを値打にするなら、無い命を助かるとすると、とにかくその人はどんな事を犠牲にしても構わないわけです。仮に御蔭を百貰って御礼を十上げると、九十は借金になります。借金になるからあとの御蔭があんまりないのです。
だから本当に厳密に言うと、そこにいくのです。処が普通の人は御蔭を百貰って、神様の方に御礼が五十なら良い方です。全部やったら裸になるから……。それを二十とか三十にするから、あとの二十とか三十が借りになる。するとあとが悪くなるのです。それで仮にお金ならお金を上げると普通十倍になって返って来ます。お金を上げて貧乏になる様な宗教だったら信仰をやめた方が良いです。それは神様に力がないのです。(後略)」
(御垂示録16号 昭和27年12月1日)
「死を覚悟した重病患者が全治したら、力の限り神様に御恩報じするのが当然」
「(前略)死を覚悟し絶望的となった重病患者が全治したとしたら、何を措いても力の限り、神様に御恩報じをするのが当然であり、これが合理であるに拘わらず、忘れるとしたら御蔭の取りっ放しであり、恩知らずも甚だしいのである。
この理を一層分り易くいってみると、例えば生命の価値を十とすれば、十の感謝ならプラスマイナスであるが、十以上であればその余分だけはプラスになり、神様はその何倍にも当る御恵みを下さるものである。それと反対に感謝が五とすれば、差引五だけマイナスとなるから神様への借金となる。そこで一日も早く御返しすればいいが、それを怠るとすると利息が嵩んで借金は増えてゆく。この点現界と少しも変りはないので、これも相応の理である。
そこで借金が溜って或程度を越えると、神権裁判所から督促や差押えが来る。これが再浄化であるから、それに気が附き心からお詫びをすると共に、元利合計御払いすれば助かるのは当然である。
処が中には飛んでもない考え違いを起す人がある。それは信仰で治ったと思ったのはヤハリ一時的で、本当に治ったのではないとして迷い始める。そこへ周囲の者などが、それ見た事かと言わんばかりにしきりに医療を勧めるので、ついその気になって医者へ行く事になるが、もう斯うなったらお仕舞で、十人が十人悪化の一路を辿り、遂に彼の世行となるのは常に経験する処である。
ではそうなる原因は何処にあるかというと、霊界に於ては悪魔は人間の心の隙を狙いつめており、一寸でも油断があると忽ち憑依し、その人をワヤにする。この点注意の上にも注意をしなければならないのである。(後略)」
(「信仰の合理性と再浄化」 昭和28年5月27日)
「汚いものがあるとやれない為、財布の浄化をされる」
「(本年四十九歳にて油脂工場を経営して居る人ですが、三年程前まで事業は盛大で相当財を積みました。二十一年三月教修を受けましたが、分らないでその後御守も紛失してしまいました。事業は二年程前より左前となり、百数十万円の借金を負ひ、家財を処分し幾分かを返済しました。その苦境に立って観音様の有難い事、又私の御導きに少しは分って戴き、無理算段して再教修を授かり、光明如来様もお祭りさして頂き、ひたすら神様のお力にお縋りして居ます。色々御利益を頂きましたが、事業の方は愈々深刻化しています。斯様な物質的浄化は相当続くので御座居ませうか。御伺ひ申し上げます。)
人間の金と神様の金と違ふ。人間の金は怨みとか妬みとかが多く、世の中を善くする用途よりも、悪くする用途が多い。今の世じゃ正当に儲からぬ。罪の塊のようなものである。
光明如来様が宝をやらうとしても
汚いものがあるとやれない。それで財布の浄化をされる。その意味と、汚れたものを蓄えておくとそれに益々利息がつく。それで、祖先を救ふ場合、掃除をされる。財物浄化の手段(として種々な事がある)であるから、此人は先へ行くと非常にいい。損せぬうちに神様に使って頂けば非常に良いが、あまりに汚れた金は神様の方では具合が悪い。大先生の御手許へ入った金でも、あまり浄れた金は使えない。であるから損した金の事など歎く事はない。与えて下さる金は奇蹟で入ってくる。」
( 昭和24年7月18日)
「神様の献金は御守護に見合うように」
「(前略)又あんまり御利益のないのに金を上げろというのもいけない事です。前に、天理教の教師で、病気で苦しんでいる時に幾ら幾ら金を上げれば助かるという事をよく言うのです。それでその幾ら幾らを上げるのですが、なおらないで死んでしまう事がありますが、私は、それでは神様がやっているのではなくて、神様の取次者が詐欺をやっている、とよく言った事がありますが、これは御利益があって本当に有難いという感謝の気持で上げるのが本当の事で、受け売り仕事でさせるのはいけないのです。
しかし又、それだけの御利益があり、命まで助けてもらいながら、それを忘れたり、余計なつまらない金にはウンと使って、御礼の方には少しばかり上げるという事も理窟に合いません。ですからこの前も言ったとおり、理窟に合わなければいけないという事です。(後略)」
(御教え集22号 昭和28年5月27日)
「お蔭に対する借金をしないように」
「(御教え戴きました家賃の事で、一月分は、十二月の末か、一月一日に払うべきだ、と。あれから、そう言う気持でやつて参りましたが、全くお蔭戴きました)
そうすると反つて、経済が豊かになるんです。だから、金に困るとか苦しいとか言うのは、そう言つた種を作つてやつているんです。それが――種があべこべなんだからね。金は、溜めると入りが悪いんです。入りが悪くなつた時に、災難とかがあると、ギユツと苦しくなる。特に神様の事はそうです。
私は金の事は余り言わないが、教団が金が苦しいと言うのは、御用をしないからです。御用をするのは決つているんだからね。それ丈の額に満たないと、お蔭に対する借金をしているんだからね。だから駄目なんです。神様の金だから、そうすると楽になる。」
(御垂示録5号 昭和26年12月1日)
「祖霊の御気附」
「(御神体御屏風観音様も御奉斎させて頂き、妻と長女と三人家族にて三人共入信、仕事の方も発展致し感謝の日々を送らせて頂いております。この度の春季大祭に妻と長女が御参拝させて頂く都合で、自家用の三輪トラックに乗り、他の信者一名と三人乗ってバスの乗場に向いました。少し家を離れたところで、四歳になる男の子が道の真中に飛んででました。喫驚して車は急停車致しましたが、子供は小さい溝に落ち石で耳の上を怪我致しました。早速飛んで降りて子供を抱上げ御浄霊をさせて頂きました。御守護により二十分程で痛みも止り、血も止りました。右のような事故のため春季大祭に信者三人共御参拝が許されませんでした。これ迄は入信以来春秋の大祭には無事お参りもお許し頂いております。何かの御気附のように思われますがこのような場合どのように覚らせて頂くのが正しいのでございましょうか。)
勿論お気附けに違いないから、よく考えれば必ず成程と思うことがある。そこで一番考えられるのは、御守護に対し御恩報じが余りに少ない場合、そういうことがある。例えば十と思う御利益に対し五の報謝とすれば、五だけ神様からの借金になるから、御返ししないと祖霊が御気附をするのである。」
(地上天国48号 教えの光 昭和28年5月25日)
「神仏の御加護と思われる事があった場合、その感謝の誠を捧げる」
「(前略)右の如く、金銭を上げさして、幸に病気が治ればいいが、反対に不幸な結果を来す事も往々あるから、そうした場合一度上げた金銭は決して返還しないのである。丁度、品物を売買の場合前銭をとっておいて約束の品物を渡さないのと同様であって、之等は神様を看板にして行ふ一種の詐偽的行為といっても差支へなからう。然るに、斯ういふ目に遭った場合、相手が神様であるから、後の祟りを恐れて泣寝入に終るといふのが常態である。故に、之を奇貨として布教師等が病人の懐を絞るといふ行為を見受けるが、実に赦すべからざる罪悪で、世人は斯様な事に騙されぬやう大いに注意すべきであらう。従而、世人が心得おくべき事は、神仏を信仰する場合、顕著な御利益があり、如何に考へても、神仏の御加護に違ひないと思はれるやうな事があった場合、その感謝の誠を捧げるといふ意味で金銭又は品物を上げるのが本当である。(後略)」
7
(「神と悪魔」昭和18年10月23日)
「御守護の感謝を表わしてこそ、神は次の恵を与えられる」
「(前略)本教に於ては、神と人との結び附きが余りにもハッキリしている。何しろ現在の如く紀元末ともいうべき地獄世界を救うとしたら、既成宗教以上の超宗教的力を有っていなくてはならない筈である。従ってこの救世の力を発揮する基本条件としては、神と人との関係が非常にハッキリしていなければならない訳である。成程難病が救われ、無い命が恵まれた以上、無限の感謝が湧くのは当然であって、それを具体的に表わしてこそ、神は第二の恵を与えられるのである。(後略)」
(「神徳斯くの如く験かなり」昭和28年8月12日)
「御守護いただいた事は人に伝える事」
「(前略)観音様の宣伝の場合には、議論や理屈、之は非常にいけない。絶対にいけない。議論めいたり、理屈めいたりするのは観音行ではないのでありますから、その積りで、お蔭話は非常にいゝのであります。それで、講演も議論や理屈をよしたんであります。みんなお蔭話にしました。まして講演等で議論や理屈言ふのに間違がある。近頃はそういふ謬りがあるのでよしたんであります。
それで、そうした話は、議論や理屈でしたりしては、観音様の御趣意と違ふから、顕著な御神徳のあった時は、御遠慮なく話して戴きたいと思ひます。折角の御神徳のあったのを蔵ひ込んでをってはつまりませぬ。戴いた御神徳はどしどし発表して戴きたい。それがやがて観音様へ感謝の意味になり、お話するのを慣れない、極りのわるい方は、支部長とか幹部の方に代って話してもらへばいゝのであります。お蔭は取り放しにしないで、沢山の人に別ける。皆に分配して上げる。そうすると後どしどしと御神徳を戴ける訳であります。(後略)
(「御講話」昭和10年5月11日)
「この千載一遇の好機に生れた光栄を神に感謝」
「(前略)凡ゆる思想文化と雖も、地上天国完成へのそれぞれの使命を以て、歩調を揃えての前進が今や始まらんとするのである。実に斯事を思ふ時、吾等は血湧き肉躍るの感なくんばあらずで、此千載一遇の好機に生れたる光栄を惟い、大経綸に参加せる此歓びを神に感謝する次第である。(後略)」
(「世界画の完成」昭和25年10月25日)
「神様にお使いいただける感謝」
「(前略)ですから観音様の御都合により、その時の仕事の上において誰を使ふか判らぬ。今後と雖も観音様は必要があれば誰でも使ふ。もし使はれた人が、俺がこうであるから使はれたとか、俺がどうだからと思ふと間違がある。観音様から斯ういふお見出しに与るといふ事は、一生涯の光栄で、それに対しては唯感謝より外何もない。感謝して有難いと思へば後又使はれる。
少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使ひにならぬ。此点は大変重大な事で、観音会がだんだん発展する上に於いても、観音様は非常に和らかくて厳粛で、沢山な人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐり此人はといふ人だけ残し、そういふ人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、たゞパッと拡げない。世間ではよく形だけみせるやうにするが、こういふ行り方は非常に観音様は嫌はれる。場当りのいい或一時的の仕事などはなさらない。
要するに真実で飾り気のない事、人間のやうに衒ひも何もない。本当のお試しとは、自己といふものを全然みない。本当に世界人類を救はなければならぬといふ止むにやまれぬ状、また此の世の中の状態をみて、実に哀れだ、可哀相だ、見てはをれぬ、然し人間の力ではどうする事も出来ぬ、然し観音様が観音力を揮はれるにつき、その一部にも加へてもらって、そして力限りやらして貰ふといふそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。
こういふ様に、一寸考えが違ふと、大きい違ひが出来る事になる。どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様の為と思ふと、その人の存在は大きい存在となる。(後略)」
(「御講話」昭和10年8月11日)
「神仏に対しては出来る丈の報恩感謝をするのが本当」
「(前略)例えて謂えば、神仏の御心は、親の心と同じやうなものであり、信徒は子のやうなものである。子が親に向って、或欲求をする場合、見るも悲惨な苦行は、親として決して快いものではない。故に、其願求が正当であるならば、親は欣んで、否、吾子を喜ばせんが為、難行苦行などさせずに、少しでも多く与へたいのが真情である。随而、苦行を求める信仰は、其目標である神は、正神である筈がないから、斯ういふ信仰は悉(ミナ)、迷信であるといって可いのである。
然し、子が如何に親の恩恵を享けやふとしても、其子が常に我儘勝手な事をし、親を顧みずして、只親から吾が欲しいものだけを与えて貰はふとしても駄目である。矢張り平常から、親を思ひ、親に尽し、親の言ふ事を肯き、親の喜ぶ行為を重ねなければならないのである。世には御利益ばかりを欲しがり、絶大な御利益を受けながら、それに対し感謝報恩を忘るる者があるが、是等は実に親不孝者で、終に親から見放されて了ふのは致し方ないのである。然し、斯ういふ輩に限って、自己の非を悟らないで親を怨むといふ事になり、自ら滅びゆくといふ哀れな結果になるものである。
故に、人は神仏に対っては、よく神仏の御心を悟り、人として無理からぬ正しい願求を、恭々しく淡白になし、又、出来る丈の報恩感謝をするのが本当である。
そうして、感謝報恩とは、一人でも多くを救ふ事である。といって人間には、人間を救ふ力は到底有る訳がないから、自分が救はれた神仏へ導くより外は無いのである。そうして、人を導く其徳に由って、それだけ自分も救はれるのである。又、人を導く暇のない人などは、それに換るに、金銭物品を奉る事も結構である。(後略)」
(「宗教的治病に於る誤謬」昭和11年4月13日)
「感謝するという事は奉仕をする事」
「(前略)医者から見放されて全然死ぬに決まったような者が助けられるとしたら、その命の恩は大変なものですから、如何なるものを犠牲にしても、命の代りとして感謝しなければなりません。感謝するという事は奉仕しなければならないのです。(後略)」
(御教え集22号 昭和28年5月15日)
「全てに感謝して天国的生活を送る」
「(前略)本来信仰の理想とする処は常に安心の境地に在り、生活を楽しみ、歓喜に浸るというのでなければならない。花鳥風月も、百鳥の声も、山水の美も、悉(ミナ)神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固より鳥獣虫魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。之が法悦の境地であって何事も人事を尽して後は神仏に御任せするといふ心境にならなければならないのである。(後略)」
(「信仰の醍醐味」昭和24年1月25日)
「本教発展の理由は、奇蹟の体験による感謝」
「(前略)起死回生的大いなる救を体験したるものの感謝感激は申す迄もない、貴重なる自己の生命は全く神様から戴いたものだ、この御恩返しをしなければならない、自分と同じような不幸なものが世間には余りに多い、それ等を一人でも多く救わせて戴きたいと誰しも念願せずにはおられないであろう、この感謝感激が底力となって人の心を動かす以上教線は発展せざるを得ないのである。(後略)」
(「本教発展の主因」昭和24年3月8日)
「(前略)永い間病苦に悩み、大病院も名医もありと凡ゆる療法に手をつくし、莫大な療養費を費し命旦夕(タンセキ)に迫った者が、本教によって起死回生の御利益を得たり、懐疑に煩悶懊悩死を覚悟した青年や、不幸のドン底に陥った人達が本教によって光明を認め一転歓喜の境地に救はれた者等は、全く本教によって生命を与えられたのであるから、その感謝感激が熱烈な信仰を生むのは当然である、決して気紛れや思いつきでは其境地に達する事は出来よう訳がない、(後略)」
(「人間を愚にするな」昭和24年11月26日)
「夫婦と言えど、感謝の心で見直す事」
「(前略)結婚に於ても産土神が男女を結合させるので、其際恋愛による場合と、見合による場合と、孰れも産土神の思召によるのである。然しそれを知らない人間は、人為的に成立するものと思う為、世間に沢山ある夫婦喧嘩の末、「貴様出て行け」などと言うのは、如何に間違ってゐるかという事である。折角神様の思召によって結ばれた妻であり、夫であるものを、人間が勝手にどう斯ういう事は、神様に対して甚だしい無礼となるではないか。如何に気に入らぬ夫でも、気に入らぬ妻でも、縁があって神様が決めて下さった以上、疎かに思う事は申訳ない訳で、有難く感謝すべきである。故に其事を知って、感謝の心を持って見直したならば、好い妻であり、好い夫であると、思えるようになる事は請合である。(後略)」
(「夫婦の道」昭和24年1月25日)
「食物の恩恵も忘れてはならない」
「(前略)餓鬼道に堕ちる原因は自己のみが贅沢をし他の者の飢餓など顧慮しなかった罪や、食物を粗末にした等が原因であるから、人間は一粒の米と雖も決して粗末にしてはならないのである。米といふ字は八十八とかくが、之は八十八回手数がかかるといふ意味で、それを考えれば決して粗末には出来ないのである。私も食後茶を呑む時茶碗の底に一粒も残さないように心掛けてゐる。彼のキリスト教徒が食事の際合掌黙礼するが、之は実によい習慣である。勿論食物に感謝の意味で、人間は食物の恩恵を忘れてはならないのである。」
(「天国と地獄」昭和24年8月25日)
「浄化にも感謝」
「(教師の長男二十一歳、昨年二月入信。四月に光明如来様を御奉斎。五月頃よりマージヤンに凝り、放蕩し、九月に大光明如来様を御奉斎し益々放蕩が激しくなり、母は教師でありますので罪の払拭をさせて戴きてをりますが、母の信仰が進めば進む程激しくなります)
結構ではありませんか。喜んで神様に感謝しなさい。一家に非常に罪があるので、それを信仰させる為に、早く罪を取つて呉れる。それには子供に金を使わせて、祖先が其の子供を一人犠牲にしているのです。
(ヒロポンを射つ様になり、買つて来て射ちますので、座敷牢に入れる事はいけませんでしようか)
入れても構いません。座敷牢に入れるとか病院に入れるとか、然る可くした方が良いです。そうしてその子供を一人犠牲にするという腹になる事です。」
(御垂示録14号 昭和27年10月1日)