第三章 信仰の向上を図るために

 

4、感謝報恩について

 

 

「感謝報恩とは、一人でも多くを救う事」

「(前略)子が如何に親の恩恵を享けやふとしても、其子が常に我儘勝手な事をし、親を顧みずして、只親から吾が欲しいものだけを与えて貰はふとしても駄目である。矢張り平常から、親を思ひ、親に尽し、親の言ふ事を肯き、親の喜ぶ行為を重ねなければならないのである。世には御利益ばかりを欲しがり、絶大な御利益を受けながら、それに対し感謝報恩を忘るる者があるが、是等は実に親不孝者で、終に親から見放されて了ふのは致し方ないのである。然し、斯ういふ輩に限って、自己の非を悟らないで親を怨むといふ事になり、自ら滅びゆくといふ哀れな結果になるものである。
  故に、人は神仏に対っては、よく神仏の御心を悟り、人として無理からぬ正しい願求を、恭々しく淡白になし、又、出来る丈の報恩感謝をするのが本当である。
  そうして、感謝報恩とは、一人でも多くを救ふ事である。といって人間には、人間を救ふ力は到底有る訳がないから、自分が救はれた神仏へ導くより外は無いのである。そうして、人を導く其徳に由って、それだけ自分も救はれるのである。又、人を導く暇のない人などは、それに換るに、金銭物品を奉る事も結構である。(後略)」  

 

           (「宗教的治病に於る誤謬」昭和11年4月13日)

   

「神恩に感謝し、一層身を慎しみ報恩に尽すべき」

「(前略)普通信仰者の最初の中は至極真面目に御神徳や奇蹟に感激し、熱心な信仰を続けつつあるのであるが、正しい信仰である以上おかげは著るしく自然多数の人から尊敬される事になり、生活境遇も大に恵まれるので、本来なれば愈よ神恩に感謝し、一層身を慎しみ報恩に尽すべきに拘わらず、凡人の悲しさ、不知不識恩に狃(ナ)れ、慢心が生じ、心に隙が出来るのである、処が邪神は此隙を常に狙ひつめてゐるので、得たり賢しとその隙に入り込み、その人を占領し肉体を自由自在に操るようになるので、実に危い哉というべきである、(後略)」
                          

 (「神は正なり」昭和25年3月18日)

  

自分を苦しめる人にも感謝」

「(前略)一家にどうしても信仰に入らない人があつて、其人が反対したりするが、そうすると反対された人の方は、始終やきもきしてますが、そのやきもきする方に曇がある。其人に曇が無くなつて魂が浄まると、他の人が悩み苦しめる事は出来なくなる。すると其人は信仰に入る事になる。あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつの為に飛んでもない事になつた、あいつは飛んでもない損をさせた。又いくら言つても入らないとか、そういうのはやつぱり御自分を見なければいけない。それはそれ丈の曇がこつちにあるからなのです。それに依つてこつちの曇を除つて呉れるのです。ですから自分を酷い目に遭わせたり苦しめたりするという人は、自分の曇を除つて呉れているわけです。浄化作用の仕事をやつて呉れているわけです。そこ迄来ると、感謝してもよい事になつて来るのです。(後略)」

 

 (御教え集15号  昭和27年10月6日)

   

「天国を心の中に築く事」

「(前略)そうして本教は地上天国を造るのであるから、何よりも先づ自分一家が天国にならなければならない。それには先づ自分自身の心が天国になる事で、心の天国とは心に苦悩のない状態である。という訳で焦るのも苦悩なら、思うようにならないと煩悶する悩みも地獄であるから、少なくとも苦悩から脱却する事である。それには感謝によって苦悩を打ち消すのが一番いい方法で、つまり心の中に地獄を作らない事である。
  それに就て心得べき事は従来の凡ゆる宗教は信仰の苦しみを可いとしている。中には態々苦しみを求める信仰さえある位で、世界的大宗教であるキリスト教ですら、歴史をみれば、殆んど苦難で開いている。そういう事が一般人の頭にあるので、本教信者になってもそれが附纒って離れ切らない。
  右は全く今迄の世の中は、夜の世界即ち地獄世界であったから、仮令立派な信仰者となっても、地獄の苦しみから脱却出来なかったのである。処が愈々夜は終りを告げ、茲に昼の世界とならんとしている今であって、而も本教が指導者となって天国を造るのであるから前述の如くどこ迄も地獄を造らないよう、天国を心の中に築く事である。(後略)」   

 (「神様が発展の調節」昭和26年7月11日)

 

  

「自分の心を天国にする」

「(前略)今迄の宗教で、天国を造ると言つた宗教はないんです。来ると言う事は言つたが、造ると言う事は言わなかつた。時期が早かつた。処が今度は愈々昼間になるんですから、今度は造るんですね。そうすると、天国を造るには先ず一番の元は御自分ですよ。自分が天国にならなければならない。
けれども、自分の境遇や家庭を、急に天国にする事は出来ない。だから、その因(モト)である自分の心ですね。心を天国にする。そうすれば、一家が天国になり、一国が天国になり、世界が天国になるんですから、先ず何と言つても心を天国にする。そうすると、色々な事で苦しむと言う事は天国ではない。
一番解り易い事は、病人なら病人を浄霊に行く。そうすると非常に愉快な楽しい家と、何だか気の向かないが、嫌々乍ら行く家と両方ありますね。そうすると、何だか気の向かないと言うのは地獄ですから、本当は避けられれば避けた方が良いんです。楽しいと言うのは、良いし、そう言う病人は治りが良いんです。発展するんです。
けれども、全部が全部そう許りはいかないですがね。それでは丸で、我儘坊ちやんみたいでね。そう許りもいかないが、原則としてそこに重点を置く。神様もそれが思召しですがね。それが、天国的信仰と地獄的信仰です。そう言う事は、神様にお任せすると良い。何処迄も人間の力でやろうと言う事がいけない。
処が今迄色んな――習慣やそう言う様な一つの思想を植附けられてあるので、ともすればそう言う心が起り易い。で、自分で目的を立てて、それを実現しようとして骨を折るんですが――それは人間は目的なしでやる事は出来ないから、良いですが――何処迄も進むから、そこで無理になる。無理になるから、そこで、逆結果になる。
その点を良く心得て置けば、却つて楽に旨くいくんですね。私なんかは、最初はそうでなかつたが、その事が解つてから、そうやつてますが、少しやつてみて、思う様にいかないと、神様に任せて置く。忘れる様にする。そうすると、忘れた時分にヒヨツと旨くいく。と言う事がよくあるですね。信仰でも、地獄的信仰、天国的信仰と、こうあるんです。今迄の信仰は全部地獄的信仰です。で、メシヤ教で初めて天国的信仰と言う信仰が生れたんですね。その点の区別ですね。それをよく知らなければならないですね。だから、こんな楽な事はないんです。楽にやる程成績は良いんですからね。」                     

 (御教え集7号  昭和27年2月25日)

 

「本教への援助、之程生甲斐ある聖業はない」

「(前略)本教が病無き世界、現世に地上天国を出現すべき一大経綸を現実に行ってゐる以上、その援助こそ之程生甲斐ある聖業はないと信ずるから、余裕ある人はその報恩の誠をこめて献金したいのは寧ろ当然というべきである、恐らく濁世の世に此様な精神美は実に賞讃に価するものがあらう、然るに之を目して迷信とか邪教に溺るるとかいう非難を浴せる人達は、知らぬ事とは言い乍ら全く盲目であり、寧ろ哀れむべき人間としか思えないのである、処が斯ういう人々こそ救う必要があり、信徒が一団となって日夜奮励しつつあるのである。
  現在本教が地上天国模型を造るべく、箱根熱海の景勝地に頗る大規模な造営をしつつあるのもそれが為で、大部分は信徒の勤労奉仕で、皆人から何等の援助も受けず、手銭手弁当で、朝から晩まで営々汗して働いているその崇高なる態度を見れば、何人と雖も感激胸に迫るものがあろう、それも無理はない、何しろ死ぬべき生命を助けられたのであるから、その生命こそ神から与えられたものである事を、深く肝に銘じている以上、その熱誠も並々ならぬものがあるのである。
  以上によってみても、本教の収入が多ければ多い程救はれる者が多い結果になり、それによって天国的善美の世界が作られるのであるから、此実状を知ったなら何人と雖も大いに祝福すべく思うであろう、もし知ってなお反対の人は、気の毒乍らいつかは滅ぶべく運命づけられたる人というより外はないであろう。」

                        (「本教の収入に就て」昭和25年4月1日)

  

「大いなる御霊徳に対する感謝報恩あるのみ」

「(前略)信徒の幸福を犠牲にして顧みない宗団それ自身は、永続すべき筈がない。何れは崩壊の危機に遇ふのは当然であらふ。又、社会的に観てこういふ宗団の信徒は、一種の精神変質者であるから、往々秩序や伝統を破り勝ちであって、自然その宗団以外の交渉は絶えるのであって、言ひ換えれば、社会的、国家的異端者のやうになるので、其結果として、不敬や脱税等の行為に迄、不知不識に進むのである。
  斯ういふ宗教は、時の経過によって解消するのは当然であるが、それに惑はされて気の付かない、善良なる信者こそは、実に可哀相なものである。
  然るに、我観音信仰はそれと異り、否寧ろ反対の事が多いのである。極端な犠牲がない。唯大いなる御霊徳に対する感謝報恩あるのみである。又、難行苦行は絶対に観音様の忌嫌(イミキラ)ひ給ふ処である。何となれば、難行苦行は地獄である。観音様は極楽浄土に於る最高の御位で被在らるる以上、どうしても地獄的境遇には堕ちる事が出来ないのである。であるから、観音信仰は洵に易行である。(後略)」       

(「観音易行」昭和11年4月30日)

  

「肌も美しく丹精を施すのが、神に対する報恩」

「(前略)人間としては神から与へられたる所の皮膚は、弥が上にも美しく丹精を施すのが、神に対する報恩であり、至情でなくてはならない。そうして此美を、一年でも一月でも長く保持すべく、心掛くるのが本当である。(後略)」 

 

    (「灸治法」昭和11年4月13日)

  

神への感謝の誠は人を動かす」

「『本教は都合の良い宣伝や無理な勧誘は決して行らない方針だ。よく昔から新規開業などの場合チラシを出したいと云って来るがそれを許さない』何となれば、そういふ行り方は甚だ力が弱いからである。どうしても『自分の難病が治り、感激の余り病苦に悩む人を見るに見兼ねて、自己の体験から浄霊や信仰を奨めるのであるから力がある』それは『神に感謝報恩の誠が滲み出てゐるからである以上、人を動かさずにはおかない訳である』するとそれに応じ浄霊を受けるや、忽ち大きなお蔭を戴くので此人も感激の余り他の人を勧誘する。斯くして漸次発展する。それが本当の行り方である以上本教も此方針で進んで行くのである。(後略)」                    

 「真の医術」昭和25年5月21日)

  

 

「無理はいけない」

「物質を提供する事はすでに精神が出来てる訳である。上げたくないのに強制的に上げるのは、浄財にならぬ。それは金に汚れがあり、光がなく、永遠の生命はない。感謝報恩の場合、無理してはいけない。本来の使命逸脱せぬ事。」     

 (年代不詳)