第五章 霊的知識を深める

 

3、祖先と子孫について

 

① 仏壇について

                    

「祖霊祭りに就いての注意」

「神道では神さえ祀れば仏はどうでもよいとしているがこれはいけない。(後略)」                                 

 

(「御光話録」年代不詳)
   

 

「必ず仏壇を設ける」

「新家庭は必ず仏壇を設けねば駄目なんです。」       

                                               

 

(御光話録  昭和23年2月8日)

              

「仏壇でも祖霊は順序正しく居並ぶ」 

「(前略)霊界はでたらめではないので、実に厳格になってますから、霊主体従の法則によって、順序が違っているとそれだけ影響がきますから、苦しかったり思うようにゆかなかったり、なんだか気持ちが悪いものです。ですから、私がこうして高い所でしゃべるから、しゃべりよいし、またあなた方も聞きよいのですが、これが逆になったら変なものです。ですから「神は順序なり」で、神様は非常に順序がやかましいのです。仏様を拝むたびに祖霊がたくさん来ますが、それは実に順序がキチンとしています。大先祖は上段にいて、それからだんだん新しい先祖ほど下にゆき、親子兄弟、親戚と、その順序は正確に並んでいるわけです。(後略)」                     

 

 (「御教え集26号」昭和28年10月15日)

 

                                            

「仏壇の意義」

「(前略)仏壇の意義を概略説明するが、仏壇の中は極楽浄土の型であって、それへ祖霊をお迎へするのである。極楽浄土は百花爛漫として香気漂ひ、常に音楽を奏し飲食裕かに諸霊は歓喜の生活をしてゐる。それを現界に映し華を上げ、線香を焚き、飲食を饌供するのである。又鐘は二つ叩けばよく、之は霊界に於る祖霊に対し合図の意味である。
之を耳にした多数の祖霊は一瞬にして仏壇の中へ集合する。然し此事は何十何百といふ祖霊であるから、小さな仏壇の中へ如何にして併列するか不思議に思ふであらうが、実は霊なるものは伸縮自在にして、仏壇等に集合する際は其場所に相応するだけの小さな形となるので、何段もの段階があって、それに上中下の霊格の儘整然と順序正しく居並び、人間の礼拝に対しては諸霊も恭しく会釈さるゝのである。
そうして飲食の際は祖霊はそのものゝ霊を吸収するのである。然し霊の食料は非常に少く、仏壇に上げただけで余る事があるから、余った飲食は地獄の餓鬼の霊に施すので、その徳によって祖霊は向上さるゝのである。故に仏壇へは出来るだけ、平常と雖も初物、珍らしき物、美味と思ふものを一番先に饌供すべきで昔から孝行をしたい時には親はなしといふ諺があるが、そんな事は決してない。寧ろ死後の霊的孝養を尽す事こそ大きな孝行となるのである。勿論墓参法事等も祖霊は頗る喜ばれるから、遺族又は知人等も出来るだけ供養をなすべきで、之によって霊は向上し、地獄から脱出する時期が促進さるゝのである。
  世間よく仏壇を設置するのは長男だけで、次男以下は必要はないとしてあるが、之は大きな誤りである。何となれば両親が生きてゐるとして、長男だけが好遇し、次男以下は冷遇又は寄付けさせないとしたら、大なる親不幸となるではないか。そういふ場合霊界にをられる両親は気づかせようとして種々の方法をとるのである。その為に病人が出来るといふ事もあるから注意すべきである。(後略)」

 

                (「祖霊と死後の準備」昭和24年8月25日)

「(前略)華や線香の意味を説いてみるが、すべて仏壇の内部は極楽浄土に相応させるのであって、極楽浄土は善美の世界であるから、飲食(オンジキ)は饒(ユタ)かに百花咲き乱れ、香気漂ひ、優雅なる音楽を奏してゐるのである。此理に由って小やかながらも、その型として花を供へ、線香又は香を焚くのであって、寺院に於て読経の際、木魚を叩き、鐃鈸(ニョウバチ)を鳴らす等は音楽の意味であり、立派な仏式に於ての、笙(ショウ)、篳篥(ヒチリキ)なども同様の意味である。又仏壇に飲食を供ふる際、鐘を叩くのはその合図である。(後略)」         

 

(「霊界の構成」昭和18年10月23日)

「(前略)霊は霊自体の想念によって伸縮自在である。一尺巾位の仏壇の中にも数百人の祖霊が居竝(ナラ)ぶ事が出来る。そういふ場合、順序、段階、服装等は頗る厳格で、何れも相応の秩序が保たれてゐる。勿論人間が心からの祭典は霊は非常に喜ばれるが、形式だけのものは余り喜ばれない。其場合仏教では戒名、神道に於ては、御鏡、石、文字、神籬(ヒモロギ)等に憑依する。故に祭典の場合は身分に応じ、出来るだけ誠を罩(コ)め、立派に執行すべきである。(後略)」      

 

 (「幽霊はあるか」昭和22年2月5日)
 

                     

「仏壇へのお供えは誠を込めて」

「(前略)又何かが憑依したらしく頗る慎ましやかな態度である。聞いた処「妾は近くの煙草屋の娘で○○といふ。今から二月ばかり前に死んだものですが、竹ちゃんが好きだったので(此男の名は竹ちゃんといふ)今晩来たのです。」といふので、「何か用がありますか?」と訊くと、「喉が涸いて堪らないから水を一杯頂戴したい。」といふので私は、「未だ新仏である貴女は毎日水を上げてもらうんでしょう。」といふと「ハイ、上げてはもらひますが呑めないのです。」といふので私は不思議に思ひ、再び訊ねた処、彼女曰く「水を上げる人が私に呑ませたい気持などはなく、ただ仕方なしお役で上げるのでそういふ想念で上げたものは呑めないのです。」との事で、「成程霊界は想念の世界」といふ事が判った。故に仏壇へ飲食を上げる場合、女中などにやらしたり、自分であってもお義理的に上げるのでは、何にもならない事が判った。彼女の霊に水を呑ませると、うまそうに都合三杯のんだのである。」                

 

(「憑依霊の種々相」昭和24年8月25日)
         

                   

「仏前の鐘と拍手、灯明、線香」

「鐘は霊界への合図であるから鳴らすべきである。霊界の事はすべて二つである。祖霊の場合二拍手で音をさせない。」                      

                                                      

 (昭24年6月19日)

「祖霊への合図であるから、鐘は鳴らさなくてはいけない。」      

                                                       

 (昭24年7月3日)

【問い】御仏壇にお参りする際に、御灯明とお線香をあげるのが本当でせうか。
「灯明は上げた方がよい。仏界は暗いからである。」  

 

 (年代不詳)

【問い】御線香は大神様へ(イブシ)の意味と伺って居りますが如何でせうか。
「全然上げなくてよい。上げぬ方がよい。仏であるから、メシヤとなった以上、絶対上げぬ方がよい。」 

 

         (昭25年2月23日)

              

「普段は幽世大神のみでよい」

「幽世大神のみでよい。仏壇は幽世大神守給へ幸倍給へ、惟神霊幸倍座世を奏げればよい。
  ふだんは善言讃詞を奏げない方がよい。つまり観音様に奏上するのと同じ形式ではいけない。失礼になる。」

 

    (昭25年2月23日)

                            

「仏壇への参拝」

(大光明如来様の朝晩の礼拝をする時は、仏壇の方は礼拝の必要はないのでしょうか。) (中略)


光明如来様を拝んだ後、仏壇へ向って手を軽く二つ叩く。拍手はしない方が本当だが、今神界に復元しつつある。幽世大神守給へ幸倍給へ、惟神霊幸倍坐世でよい。光明如来様を拝んだ後朝晩拝む。命日等の時は善言讃詞だけ。御讃歌もよい。霊によいもの。鐘は食上げる時でいい。」          

 

(昭和24年7月25日)

「(前略)仏壇へ祭った観音様へは、祝詞を奏げる要はない。光明如来様に礼式する。祖霊は拝む気持だけでよい。」                                         

(昭和24年2月4日)


「(前略)幽世大神守給へ幸倍賜へ、惟神霊幸倍坐世と奏上す。仏壇へ御讃歌を奏げるのは結構である。善言讃詞を奏げてもよい。」

                      (昭和25年3月22日)

「(前略)仏前には天津祝詞を奏げてはいけない。神道の方ではないから必要はない。
善言讃詞は奏げてもいいがその要はない。御讃歌は非常に祖霊が喜ぶ。二、三首でよい。」 

 

             (昭和24年10月28日)


「仏壇には祝詞は要らない。「幽世大御神守り給へ幸倍給へ」と「惟神霊幸倍坐世」の二ケ所だけでよい。特別の御祀りには両方上げたらよい。」

 

                 (御光話録  昭和23年2月18日)

  

「特別の日は仏前に善言讃詞を奉唱」

(お盆、彼岸及命日に御仏前に善言讃詞を奉唱させていただいてよろしうございませうか。)


  斯ういふ時にはよい。」                          

 

 (昭24年7月9日)

「(前略)法事や御祀りの時は仏壇に善言讃詞を上げるが、普段は上げない方がよい。唯最後の二句だけでよい。若し上げるならば、観音様の御軸に祝詞と善言讃詞を御上げし、仏壇には善言讃詞だけあげる。こうしないと御軸と仏壇と格が一緒になって了ひますから。」                  

 

(御光話録  昭和23年5月18日)
                 

「観音様に反対の宗旨はない」

(御屏風観音様を戴きたいが、宗旨を変えると、煩さいと言うので御座いますが――)


  変えなくても良い。観音様は全部の宗旨をやつているから――観音様に反対の宗旨はない。


  (阿彌陀さんを祀つてある処は、昔から祀つてあるからと言うので、煩さいので――別に致しましても――)

 

  別にと言うのは、仏さんをもう一つ拵えるんですか、それは駄目です。」                      

 

(御垂示録5号  昭和26年12月1日)
                 

 

「仏壇に善言讃詞は・・・」

(仏壇に善言讃詞はいけないと御教戴いておりますが、信者さんで何か仏さんに奏げたいと言うので御座いますが――)


  善言讃詞はいけないですね。幽世大神――それをやつているでしよう。それで良いです。


(御屏風観音様御奉斎の時に善言讃詞は――)


  いかんですよ。つまり、神様と祖霊と同じにする事がいけないんですよ。祖霊の方がずつと下だからね。その区別を著しくしなければならない。同じ扱いでは御無礼と言うよりも、祖霊が苦しむんです。御讃歌で、あとは構わない。


    (命日には――)


  命日にも色々あります。新しい仏の命日と、古い仏の命日と違いますからね。少し沢山祖霊があつたら、毎日命日があると言う事になる。唯、法事と言うのがありますが、その時のは善言讃詞を奏げて良いですよ。


    (未信者で、御魂を戴き、御屏風観音様を戴けないと言う者で――)


  だけども、まあ信者だね。だから、何時も――幽世大神に御讃歌で良いです。


    (御屏風観音様を初めて戴き、光明如来様はお祀りして居りませんが、御魂鎮めの形式は――)


  良いですよ――初めての時はね。」    

 

(御垂示録5号  昭和26年12月8日)

(御垂示録第5号に、御仏前のお参りは幽世大神と御讃歌とありますが、命日には善言讃詞と御讃歌をお奏げして良いと承りましたが、如何に――)


  それで良いですよ。


    (月の命日にも善言讃詞を――)


  良いですよ。その霊に奏げてやると言う気持でやるのなら良いですよ。


    (善言讃詞は神様にお奏げするので、区別しなければいけないと御教え戴いておりますが)


  それで区別になつてます。命日丈やるんだからね。


    (特別に年忌の時丈と言うのでは御座いませんのでしようか)


  仏壇に奏げてはいけませんよ。命日だつて、臨時応変ですよ。亡くなつて間もない霊とか、三十回、五十回忌迄は良いですが、それより古いのは、もう良いですよ。


    (御屏風観音様を初めて御奉斎致します時には――)


  良いですよ――初めてと言うのでね。意味があれば良いんです。」                       

 

 (御垂示録7号  昭和27年3月10日)
                                

                            

「祖霊への挨拶」

(朝祖霊様に「御先祖様から皆様に御分ち下さいませ」と言葉に出して供物を上げる様と承って居りますが、同時に御挨拶にて、どの様な意味の事を申すのがよいでせうか。)


  特殊の場合はお願ひしてもよい。して悪い事はない。
  光明如来様にお願ひするのは結構である。先祖に関係した事をお願ひするとよい。重要な事のみお願ひする。一年に一度か二度でよい。」

 

                           (年代不詳)

                            

「仏壇への願い言」

(仏壇に向っての朝礼の際「今日も自分がやらせて戴く人の救ひに対し霊界にある各霊位の御援助を御願ひ致します」と言ふ様な事は霊界に通じますものでございませうか。)


  通じるが黙っていても一生懸命でやる。」      

 

(昭24年10月24日)

   

「普通の観音様や仏壇に善言讃詞を上げても駄目」

「普通の観音様や仏壇に善言讃詞を上げても駄目です。止むをえない時――例へば光明如来を頂かうとしてゐるが、表装がまだ出来ない時は別ですが。」 

 

           (御光話録  昭23年2月8日)

          

「仏壇に「幽世大神」と申し上げるのは・・・」

「観音様には一切の御働きがあり、幽世大神にもなるのです。幽世大神は閻魔大王ですから観音様は間接的に閻魔大王にもなるんです。――観音様は現幽神の三界を司るのです。


  (さう致しますと裁きも司られるのでせうか。)


  観音様には裁きの御働きはない。御救ひの御働きだけです。一切を無差別に救はれるのです。――観音様と閻魔大王とは裏表になってるのです。神様にはいろいろと御役目があり、一つの神様もいろいろ役目を兼ねて居られる。閻魔大王は今は現界を司って居られる。以前は外の仏様にさせてゐられたのですが、それは丁度人間界でも運輸大臣をやった人も内閣が変ったりすれば文部大臣にもなる様なものです。幽世大神は観音様の御働きと解してよい。観音様を通して幽世大神に行くのです。」           

                                               

 

(御光話録  昭23年7月18日)

「(前略)幽世大神も観音様の部下なんですが、霊界で係りをやってゐるから御唱へするのです。丁度此の世でも区役所の仕事は内務省の管轄だが、いきなり内務大臣へは行かない。それと同様に夫々係りがあるのです。」

 

        (御光話録  昭23年6月28日)

「観音様は、神幽現三界に渉るお働きになっている。それ故幽世大神のお働きもされる。現在は幽世大神は外の神である。観音様が各神―幽世大神に御命令される。
  観音様でなければ幽世大神様にお願いする。そして観音様に伝え、観音様から幽世大神様に行った方が強い。事と次第によっては観音様が直接御守護下さる。幽世大神のお働きもあるからである。(後略)」

 

                     (昭24年11月19日)

「仏界は霊界の一部である。霊界の――仏界等、一切の主宰神が幽世大神である。宗教も幽世大神が主宰しているから、幽世大神に願えばよい。」

 

                    (昭23年11月24日)

「(前略)幽世大神って方は幽界を直接支配されるんで、従って現界の方は間接的ですね。そして閻魔大王が幽世大神様だったんです。閻魔大王の御本体は国常立尊なんですがね。所が、国常立尊は現界の方の仕事をされる様になったので、――これは最近の事ですがね、――そのあとに大国主命が後釜になって居られるんです。で、大国主命って神様は極くおとなしい神様で、まあ神様の二級どころですが、国常立尊は一級の神様で、素晴らしい御力を持って居られるんです。それで、今でも全く交替された訳ぢゃなくて、やはり国常立尊が一部を司って居られるんです。五六七の御世になれば大国主命で沢山ですがね、今は未だ兇党界の邪霊が働いてますからね、これには国常立尊でなくちゃいけないんです。(後略)」          (御光話録17号  昭24年)

          

「幽世大神は汚れを取って救って下さる」

「国常立尊といふ神様は厳正至直で、いかなる間違ひも許さず、ずっと昔人間として御生れになり、死んでから閻魔大王になられたんです。然し、閻魔大王は裁きを司り、なかなかきびしくて、霊になったものゝ汚れを取って救って下さるんです。そうやって地獄を救はれるんですね。」

 

       (御光話録15号  昭和24年9、10月)

               

「御屏風観音様の位置について」

「(前略)それから仏教で、よく阿彌陀さんの絵とか像がありますが、お像の方は木でも金でも同じですが、それは御屏風観音様の前に安置すればよいです。御掛軸の方は阿彌陀さんを後にして御屏風様を前でよいです。


  (それはそのまま続けて宜しいのでございますか)


  何年でもよいです。阿彌陀さんと観音様との関係というものを知ればよいです。阿彌陀さんと観音様は夫婦関係にもなってます。観音様が夫で阿彌陀さんは妻になるわけです。それから親子関係もあります。観音様は子になって阿彌陀さんは親になるのです。ですからどっちを上にしても差し支えないし、並べても差し支えありません。
  それで阿彌陀さんは月で観音様は日ですから、日月になるので、一緒で構わないのです。しかし位は観音様の方が上なのです。位が上だから、本当は観音様の方を上にしなければならないが、ちょうど天皇と同じようなもので、天皇陛下となると親よりも上になりますが、しかし親子だから血筋の方からゆくと親の方が上になります。そういう解釈によればどっちでもよいです。しかし厳密に言えば観音様の方が上になります。


  (一度お下げした阿彌陀さんのお姿を再びお掛けしても宜しいでしょうか)


  よいです。


  (その場合に、阿彌陀さんの像が非常に大きく、前からお姿を拝せないような場合には如何致しましたら宜しいでしょうか)


  そういうのは観音様の御顔が見えるだけの台をして上にすればよいです。


  (仏壇が狭いために阿彌陀さんを観音様の右にお祀りしておりましたが、これはそのままで宜しいものでしょうか)


  向って右に阿彌陀さん、真中に観音様でしょう。それでよいです。


  (お掛軸は後という事でございますが、全然見えない事になりますが)


  それは構いません。


  (御屏風観音様が動くのは祖霊の戒告でしょうか)


  動くとはどういうのですか。


   (台からはみ出します)


  はみ出てはいけません。


   (一度直しましたが、三時間ほどしますと、又なります)


  自動的に動くのですか。それは何か間違っているのです。今度仏壇を前から見た図を書いて来なさい、見てあげます。話でも分ればよいですが……。仏壇は何段になってますか。


   (三段で、その上に台をおいて御屏風観音様を御奉斎しております)


  台は必要ないでしょう。三段の一番上に戒名があるのでしょう。


   (横に戒名があります)


  上の段には戒名を祀ってはいけません。戒名は下の二段にお祀りするのです。それが間違っているのです。そうすると御先祖様が苦しいのです。つまり同列になるから苦しいのです。それは台くらいの違いではいけません。だから御先祖様が知らせるのです。やっぱり霊界ですから上中下となっているのですから、観音様は上段で、御先祖以下は中段以下にならなければなりません。観音様と同じ段では苦しいのです。(後略)」

  

(御垂示録20号  昭和28年5月1日)

                      

「御屏風観音様と祖霊の位置」

「(前略)だから祖霊もそうです。祖霊をあんまり奉ってよくすると、祖霊が苦しいのです。だから仏様に御屏風観音様をお祀りしても、祖霊の方とあんまり段が違わないと祖霊が苦しいのです。だから自分で何とか末席に行こうとしていろいろな事を知らせるのです。」
                          

 (御垂示録23号  昭和28年8月1日)