第二章 メシヤ様の御経綸
3、破壊と建設
前項では、メシヤ様の御経綸の「順序と型」ということについて学びましたが、ここではさらに深く、メシヤ様が進められようとした御神業のリズムについて学んで見たいと思います。
「凡ゆる面に渉って破壊と創造が行はれる」
「(前略)神は愈々時期来って、地上天国を造るべく私といふ者を選んで、その実現に当らせ給ふたのである。それに就いては根本として文化のレベルを一層向上させる事である。それには千差万別ある文化の全体から、いいものは採り、悪いものは棄てるといふ方針によって進めてゐるのである。そこで先づ手始めとしての根本が、医学とそうして農業であって、此革正が土台となって、次に宗教、道徳、哲学、科学、芸術といふやうに、凡ゆる面に渉って破壊と創造が行はれるのである。(後略)」
(「文化のレベル」年代不明)
「建設されただけは破壊されていく」
「(前略)これだけは言ってもいいと思う事は、何時も言うとおり今度の御神業は破壊と建設です。
つまり最後の審判とか天国というのは破壊と建設が同時に行われるという事を、私は前から言ってます。それで「世界夢物語」は、その破壊の順序を書いたのです。そうするとその破壊というものは建設の方と一緒になるのです。建設されただけは破壊されていくと言ってもいいのです。というのは建設というのは日が昇る事です。光が強くなる事です。それで強くなるだけは闇の方がそれだけ消えていくのです。そうすると今までの文化というのは闇の文化ですが、それが消えていくのです。
そうするとその建設の雛形が箱根と熱海になります。箱根は霊界の方で熱海は現界の方になります。日は霊界、水は現界です。そうすると熱海のメシヤ会館は建設の第一歩になるのです。ですからメシヤ会館が出来るとそれが世界に写って、そうして世界にメシヤ会館が出来るわけです。それには今まであった汚たないものは取り払われて綺麗にされなければならない。という事になると、日本は今言う日の経綸になるからして、それだけ日の光が強くなると、だんだん世界的に汚たないものが消えていくのです。つまり黒の部分がだんだん薄くなって白が拡がっていくという事になります。そうすると、その拡がり方の順序が「世界夢物語」に書いてある順序になるわけです。(中略) そういう様な工合で神様の事は実に深く、いろいろな型によって始まっていくのです。それは私にはよく分ります。しかし時期によって、やはり発表できる場合とできない事があるのです。ですからその見当がつく救世教信者のおかげというものは、そういう点にも大いにあります。」
(御教え集18号 昭和28年1月2日)
「破壊と建設は同時に進む」
「(前略)それで世界の中心というものは、先にも言う通り、此の神山(カミヤマ)なのです。之は日本の西と東の真中になる。それから日本は世界の型になつているのです。世界の型という事は、天国の型になつている。(中略)神山の山の上に何か建てるわけにはいきませんから、其下の強羅が神山の型になるわけです。
それで私は「神山荘」と名前を附けたのです。「日光殿」も最初は「早雲荘」と附けたのですが、神山と早雲山の型になる。そうするとあの美術館は世界の真中の型になるわけです。此の神仙郷というのは中心になるから、此処が完成すれば霊界の天国が出来たのです。之が霊界で、之が段々拡がつていく――体的に拡がつていくと、間違つているものや汚いものは自然に無くなつていく。
だから破壊と建設が同時に出来ていくという事は、そういう事です。然しこつちで破壊していくのではない。間違っているものは自然にそうなるのです。そうすると大変な現界的な変化になつていくわけです。 (中略)」
(御教え集14号 昭和27年9月16日)
「空前の大変化が起る」
「(前略)いうまでもなく霊界に於ては夜の期間中は水素が主で火素が従であったものが昼の世界に入るや其反対に火素が主で水素が従となるのである、即ち暗が明に変るのである、それだけなら別段心配する事はないが、実は之によって空前の大変化が起るのである、といふのは未だ嘗て経験にない程の破壊と創造が行はれる、即ち霊界に於ては濁が清となり、そのまゝ現界に移写されるから現界は如何に大いなる変異を起すか想像にあまりある、勿論霊界に火素が殖える結果として浄化力発生と共に時の経過に正比例して漸次強化されるのである、其の表れとして善悪正邪は明かとなり全人類に浄化が行はれる、元々人間の病気とは火素による浄化作用であるから体内に汚濁を多量に保有してゐる者ほど強烈なる浄化が行はれるのは当然である
(後略)」
(「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」光42号 昭和24年12月31日)
「不用なものは滅び有用な物のみが残る」
「(前略)霊界が昼となる以上、之が現界に移写するに於ては、夜の文化は当然不用なものは滅び有用な物のみが残る事となるのは当然である、それのみではない、長年月に渉る暗黒時代によって人類の罪穢の少なからず堆積せる以上、それの清掃作用が行はれなくてはならない、右の滅ぶべき不用物とは之を指して言うのである、而もそれと同時に昼の文化の建設が開始さるるのである、斯の如き空前絶後の一大転機とは、何を指すのであらうか、全く何千年否何万年以前より決定してゐた神のプログラムなのである。
又別の言葉を借りて言えば大規模な世界的破壊と創造が行はれるのである(後略)」
(「開教の辞」 昭和25年2月4日)
「理想世界建設に当って」
「(前略)此儘にして地上天国が来るとすれば、人類は洵に幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというに就ては、其前に旧世界の清算がなくてはならない訳である。恰度新しき家を建てんとするには旧き家を破壊し、土地を清浄化されなくてはならない。勿論旧き家にも役立つものは相当あろうから、それは残さるるであろう。その取捨選択は神がなし給う事は勿論である。故に人間は残されるもの、即ち新世界に役立つ者とならなければならない。それによって大いなる切替時を易く越えらるる事で所謂神の試験にパスするのである。その唯一の方法としての信仰である(後略)」
(「観音教団とは何乎」昭和24年1月25日)
「(前略) 五六七世界とはキリストの予言した天国であり、釈迦の唱えた所謂みろくの世である。然るに此理想世界たる五六七の世は、今や呱々の声を挙げんとする寸前に迫っている事である。
私の霊感によれば、今霊界に於ては既に五六七世界の土台は築かれたのである。之によって近き将来、いとも現実的に此地上に出現する事は、疑う余地はないのであるから、何と有難い時節に生れたものではないか。之を慮う時、吾々は歓喜が湧き起るのである。
それに就て知らねばならない事は、例えば今茲に一大豪壮な建築物を建造せんとする場合、今迄その土地に存在していた古い家は破壊されなければならない。勿論その古材の中から、新建築に役立つものを選び、洗い浄め、削り治して使用する事は勿論であって、今や五六七世界建設に当っても、それと同様な事象が行われるであろう。
それに就て今後発生する凡ゆる事態が、人間の眼からみて理屈に合わないような事や、無益と思う事、破壊的の事等もあるかも知れないが、それは汚穢の一大清掃である事を知らねばならない。然し一切は神意の具現である以上、人間の凡眼によって、兎や角判断する事は出来ないとすれば、人間たるもの大いに謙譲の態度を以て、一切の推移に順応すべきである。此事を霊感によって知識し得た吾等は、常に偉大なる神意を曲解せざるよう戒意し、正しい神観を以て今後人類の経験にない、如何なる異常事や崩壊作用も、信仰に徹する者の特権として与えられたる安心立命の境地に住し、生を楽しみつつ時を待つべきである。
斯様な甚だ掴み所のない言い方も、深遠なる神の密意は現在具体的に言う事を許さないからである。
要するにミロク世界実現前、当然経なければならない其過程に対処する心構えを述べたまでである。」
(「五六七世界の建設」自叢十二 昭和25年1月30日)
「深甚なる神の経綸---神の力の発揮」
「(前略)それに就て先ず知っておかなければならない事は、大宇宙の構成である。といっても人間に直接関係のない事は省き重要な点だけをかいてみるが、本来宇宙なるものは、太陽、月球、地球の三つの原素から成立っている。
そうしてこの三つの原素とは火、水、土の精で、その現われが霊界、空気界、現象界の此三つの世界であって之がよく融合調和されているのが実相である。処が今日迄は此三原素中の二原素である空気界と現象界(物質界)だけが判っていたばかりで、此二原素の外に今一つの霊界なるものの在る事が分っていなかったのである。というのは唯物科学では、全然把握する事が出来なかったからである。従而、右の二つだけの進歩によって出来たのが、現在の如き唯物文化であるから、つまり三分の二だけの文化という訳である。
処が何ぞ知らん、この無とされて来た三分の一の霊界こそ、実は二と三を二つ合せたよりも重要な、基本的力の中心であるから、之を無視しては完全な文明は生れる筈はないのである。何よりも二つの文化が之程発達したに拘わらず、人類唯一の欲求である幸福が、それに伴わないのがよくそれを示している。
従って今此矛盾の根本を充分検討してみると、之には深い理由のある事を発見するのである。というのは若し人類が、初めから一の霊界のある事を知ったとしたら、物質文明は今日の如く、素晴しい発達を遂げ得なかったに違いない。何となれば霊界を無視したればこそ、無神思想が生れ、其思想から悪が発生し、其結果善と悪との闘争となり、人類は苦悩に苛(サイナ)まれつつ、遂に唯物文化の発達を余儀なくさせられたからである。之を深く考えれば、全く深甚なる神の経綸でなくて何であろう。
処が物質文化が或程度発達するや、それ以上は反って文化の破綻を来す懼れが生じて来た。何よりも彼の原子爆弾の発見で、勿論之もその一つの表われではあるが、茲に到っては最早文化の進歩に対し、一大転換が行われなければならない天の時となったのである。
其第一歩として、無とされていた一の霊界の存在を普く人類に明示される事となった。といっても無の存在である以上、其方法たるや、科学では無論不可能である。そこで未だ曽て人類の経験にない程の偉大なる力の発揮である。即ち神の力である。
処が長い間唯物主観に固まっていた現代人であるから、納得させるには非常な困難が伴うのであるが、之に対し本教が行う唯一の方法としての奇蹟がある。即ち本教の浄霊法こそそれである。之によって如何なる無神論者と雖も、一挙に承服せずには措かないからである。
従って此事が普く人類社会に知れ亘るに於ては、世界共通の真文明が生れんとして、現代文化は百八十度の転換を、余儀なくされるであろう。
処が茲に残された厄介な問題がある。それは何千何万年も掛って、今日の如き文化を作り上げたのであるから、之迄には如何に多くの罪悪が行われたか分らない。罪悪とは勿論霊体の汚穢で、それが溜り溜っている以上、此儘では新世界建設に障碍となる。恰度家を建てる場合、木屑、鉋屑、其他種々の塵芥が散らばっているようなものであるから、茲に其清浄作用が行われなければならないが、之も又止むを得ないのである。キリストの最後の審判とは之を曰われたのであろう。
以上によっても判る如く、本教が素晴しい奇蹟を数限りなく現わしている此事実こそ、一の世界の存在を認識させる為の、神の御計画でなくて何であろう。そうして神は私に此大任を荷わせ給うたのである。」
(「一の世界」栄111号 昭和26年7月4日)
「お使いいただけるのは一生涯の光栄」
「(前略)観音様の御都合により、その時の仕事の上において誰を使ふか判らぬ。今後と雖も観音様は必要があれば誰でも使ふ。もし使はれた人が、俺がこうであるから使はれたとか、俺がどうだからと思ふと間違がある。観音様から斯ういふお見出しに与るといふ事は、一生涯の光栄で、それに対しては唯感謝より外何もない。感謝して有難いと思へば後又使はれる。
少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使ひにならぬ。此点は大変重大な事で、観音会がだんだん発展する上に於いても、観音様は非常に和らかくて厳粛で、沢山な人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐり此人はといふ人だけ残し、そういふ人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、たゞパッと拡げない。世間ではよく形だけみせるやうにするが、こういふ行り方は非常に観音様は嫌はれる。場当りのいい或一時的の仕事などはなさらない。要するに真実で飾り気のない事、人間のやうに衒ひも何もない。
本当のお試しとは、自己といふものを全然みない。本当に世界人類を救はなければならぬといふ止むにやまれぬ状、また此の世の中の状態をみて、実に哀れだ、可哀相だ、見てはをれぬ、然し人間の力ではどうする事も出来ぬ、然し観音様が観音力を揮はれるにつき、その一部にも加へてもらって、そして力限りやらして貰ふといふそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。
こういふ様に、一寸考えが違ふと、大きい違ひが出来る事になる。どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様の為と思ふと、その人の存在は大きい存在となる。
之は生長の家の物質は心の影といふのと似てゐる。自分を見せやうとすると空虚になる。世の人の為と思って自分を無視すると、無視した自分が立派に存在する。ここの道理のはっきり判った人は、本当の働きが出来る。神の道がある。自分の都合よくなりたい、よくしたいといふ念が、少しでもあるとすれば、物が思ふ様に行かぬ。自分を空虚にする、自分を無視すればする程、自分の実在は確かになる。
此点だけが肝腎な悟りで、此前お話したが、お釈迦様の時代に目連尊者といふ人がゐて、母が地獄で苦しんでゐるのが見えるので、どうか助けやうと思っても助からぬ。他の人はいくらでも助かる。で、お釈迦様に、お母さんを出さうと思ふが、どうしたら地獄から出せるかと聞くと、お前のお母さんはお前が忘れればいいといはれた。そこで考へた結果、はっと思った。
俺は天下万民を救ふ使命によって働いてゐるのに、自分の近親の者親の事ばかり思った為救へなかった。大変な間違ひをした。第一に天下万民を救はなければならぬと、それからは母の事も忘れ、一切衆生を救ひの為活動して、一年経って地獄を覗いてみると、もう地獄には母は居なかったといふのであります。
自分を良くしたいと自分だけよくしやうとすると、先づそうなさなければならぬ。人をよくしやう、人を助けやうとする時に自分はよくなる。
信仰の妙諦はここだけなんであります。」
(「御講話」昭和10年8月11日)
「神様の経綸は眼に見えないが、霊界では進んでいる」
「今度神仙郷が完成し、美術館も出来たが、之は本教モットーである地上天国、即ち真善美の中の美の面の最初の小さな模型であるから、何れは此模型が段々育ってゆき、世界大となるのは勿論であって、一点の疑う余地などないのである。それから真と善も形はないが何れは具体的に表われる時が来るから其つもりでいて貰いたいのである。右の如く神様の経綸は眼には見えないが、霊界ではズンズン進んでいるのであるから、何れは三大目標が世界の表面に現われるとなったら、其時は何人も吃驚仰天、開いた口が窄(スボ)まらぬであろう。
そうなってから、アゝ俺は長い間飛んでもない誤解をしていた。メシヤ教こそ最後の救いであった事を知らなかった。何と自分は迂闊であったのであろう。といっても今更頭を下げて行くのも強腹だと、歯ぎしりする人も沢山出来るだろうし、而もそういう連中はインテリやジャーナリストの特別鼻の高い人に多いのだから、気の毒でもあり可笑しくもある。(後略)」
(「アレヨアレヨ」栄166号 昭和27年7月23日)
「破壊とは自己清算である」
「(前略)私によって今や行われんとする一大革命も、決して夢でない事が肯かれる筈である。そうして其課程としては勿論破壊と創造であるが、破壊といっても他動的のものではなく、神の審判による自己清算であると共に、一方新文化の建設であろう。之は好むと好まざるとに拘わらず、今や其時期が刻々と迫りつつあるのである。言い換えれば善なるものは残され、悪なるものは潰滅するのである。としたら大体神の御目的も想像出来るであろう。(後略)」
(「本教と文化革命」地天33号 昭和27年2月25日)
この項で学んだ内容というのは、メシヤ様の御神業は、「順序と型」で進んでいくということの他に、「破壊と建設」でミロク世界、地上天国を造っていくということです。
そこで大切なことは、破壊と建設は同時進行で進むということが1点と、夜の世界が清算され、昼の世界、すなわちミロク世界という新世界の建設に際しては、有用なものや有益なものは残し、少しでも役に立つものは改善して使い、有害にして無益なものは抹殺又は消滅させられるということを述べられています。
このことは自然に対しても、人間に対しても、さらに人間が作り出した物質文化についても同じことが言えるわけです。
また、メシヤ様は、救いの道筋を示されています。救われた人がメシヤ様の御神業に参加が許され、救いと建設が進展することによって、破壊も進んでいくというリズムが生まれ、さらに破壊が進んだだけは、建設も進むという相互の関係があり、メシヤ様のご経綸は進んでいくのです。ですから、破壊も建設もメシヤ様のみ心のままに進められていることを覚らせていただくことが大切であるとともに、その時に対処するために日頃から何をなしておくべきかを考え、日々精進していくことが一層求められると思います。