食と農

 

「食」について

 

 3、現代栄養学の誤謬

「現代栄養学の解釈」

 現代医学に於て栄養学は相当進歩されたと思はれてゐる。そうして医学に於ける解釈は次の如くである。
             (某専門家の記事による)
   「私どもは、毎日誰でも三度は大概欠かさずに食事をする。これは日常体内で失はれてゐる物質を補ふためと、一方では新しく身体の組織をつくる必要からである。
     かうして体内では、断えず分解作用と合成作用の二つが行はれてゐるのである。新陳代謝といふのはこの二つを総称したものである。ところで体内で食物がそれぞれ消化吸収されてそれから補給物質になったり、合成物質になったりするまでにはどんな経過をたどるのであらうか。
    まづ蛋白質からいふと、消化器の中で分解されてアミノ酸になったのは、腸壁から吸収されて血液の中へ入り肝臓を通過して血液と一緒に全身に送られて、各組織に分配されるのである。かくして組織に達したアミノ酸は、そこでそのところの組織に特有な蛋白質に組立てられ、一部分はアミノ酸からさらに分解されて尿素、尿酸、アンモニア、クレアチン、クレアチニンそれに無機塩類となって尿の中へ排泄されるものである。

以上のやうに蛋白は消化するとアミノ酸として組織の合成に用ひられるが、一部は含水炭素や脂肪と同じやうに燃焼して運動エネルギーとなるものである。蛋白質はこの程度にしておいて、つぎは含水炭素だが、この方は最後には単糖類のブドー糖に変化して腸壁から吸収されて静脈へ入り門脈によって運搬される。したがって、含水炭素を一時に沢山とると、血液の中の糖分が増加してくる。そして沢山とった時は肝臓に行ってグリコーゲンとして貯へられ必要に応じて、再びブドー糖となって補給されるのである。このブドー糖は血液中の酸素によって酸化燃焼して、主として運動ヱネルギーを供給するが、同時に此場合沢山の炭酸ガスを生ずる。運動が激しければ激しい程ブドー糖の酸化作用はさかんで、これに従って肝臓に貯へてあるグリコーゲンが引張り出されて補ひをつけてゆく。

しかしブドー糖の酸化によって炭酸ガスを生ずる迄には、い
ろいろの中間産物がある。尿酸はその一つで、従って尿酸の量を測ると疲労の程度が分るといってこれも行はれる。
     なほこの外に含水炭素の一部分は、体内で変化して脂肪となり沈着する。で含水炭素の食品を沢山食べると体内脂肪が増加して次第に肥満してくるといふことになるのである。つぎに脂肪であるが、これは胃の中で一部は消化吸収されることがあるが、大部分は腸へ行ってから膵液中の脂肪分解酵素ステアプシンのために、脂肪酸とグリセリンに分解され腸壁を通って吸収され、再び脂肪となり、淋巴液と一緒に乳状態となって体内をめぐり静脈へ入って、脂肪の一部はその後に体内脂肪として蓄積され、一部は酸化燃焼してヱネルギーとなる。しかし含水炭素と違って、これは主として熱のヱネルギーとなって行くのである。」

右の如く、その説明は詳細を極め、一見洵に感心されるので、一般人が信ずるのも無理はないのである。
 然し乍ら、如何に詳細を極めたる説明と雖も、それは死体の解剖や食物の分析、排泄物の試験等によって得たる医学者の推定的想像の範囲を出でないと思ふのである。何となれば、人体の組織機能とその活動によって表はれる処の生活力なるものは、現在科学の水準よりも遙かに高度であり、深遠であるからである。従而、今日人間の健康に対し栄養学的に解釈し得たとしても、それは煙突内から天を仰いで天の大きさを知ったと言ふに等しいものであらう。又名画の価値を定むるに当り、紙代と絵具代と労銀によるやうなものであらう。
 之を要するに、神秘霊妙なる人体とその生命を知悉(チシツ)せんとするには、現代科学は未だ余りに水準が低いといふ事を認識しなければならないのである。勿論科学の進歩は何れの日かはそれを知り得る程度に達する事も予想されるのであるが、私は科学者ではないから、科学的に説明はしないが、実際と経験によって、真の栄養学は如何なるものであるかといふ帰納的論理を以て説くつもりであるから誤謬はないと思ふのである。                                      (「栄養学」明医一  昭和18年10月5日)

                                        (「栄養学」明医二  昭和17年9月28日)

                                        (「栄養学」天  昭和22年2月5日類似)

 

「現在栄養学の誤謬、その1」

 今日の医学衛生に就て特に、此食餌と営養程謬って居り活眼を開いて貰はねばならない事を専門学究に向って言ひ度いのである、夫は余りに学理に偏して実際と隔離し過ぎてをりはすまいか、何故なれば余が十数年に渉っての刻苦研鑚の結果は不思議にも、今日の営養学とは、全然相反する結果を生んだのである、それを是から、私自身の体験から出発して述べてみよう。 私自身は、十五六年以前は大の肉食党で、夜食は殆ど洋食で偶に支那料理を混ぜるといふ具合で、今日の所謂営養学上から言へば、理想的とも言(イ) はるのであるが、何ぞ知らん其当時の私は、三十代で体重十三貫をどうしても越えないといふ情ない状態ばかりか、二六時中風邪(フウジャ)と胃腸の悪くない事はないと言ふ位で、お医者の厄介にならない月は一ケ月も無かったのである、そういふ訳であるから、どうかして健康になり度いものと、深呼吸、冷水摩擦、静座法等と当時流行の健康法を片っ端から行ってはみたが、何れも多少の効果は、あるにはあるが、体質改善といふ処迄は到底行かなかったのである。
  それがどうだらう肉食の非を知って日本人的食餌即ち魚菜本位に転換した結果、メキメキ体重を増し二三年にして、実に、十五貫五百から、六貫位を往来する程となると共に、段々風邪に罹らなくなり、其上胃腸の苦悩は、全く忘れて、初めて健康の喜びにひたり、爾来十余年頑健なる肉体を以て、活動しつつあるのである。 是等の体験を得た私は、子供六人をも併せて十数人の家族に思う儘実験をしたのであるが、勿論皆好成績で私の家(ウチ)から、病魔の影は全く見ないといふ幸福を享有したのである、特に面白いのは六人の子供に、非営養食を施してみた、即ち家内及び女中に命ずるに、子供等には、特に粗食を与へるやうに命じたのである、米は七分搗きとし、野菜を多量にして、魚は塩鮭目刺等の卑魚を稀に与へ、香の物に茶漬、又は香の物に塩結び、自製海苔巻等営養学上からみれば、先づ、申し分のない営養不良食を多く与へるやうにしたのである、然るにその成績たるや驚くべし、小中学とも体格は甲、営養は普通又は佳良等にて十六歳の長女を頭に四歳の男児に至る迄、未(イマ)だ重病と名づくべき病気せしもの、一回も無く、無欠席の賞は毎度頂戴すると言った工合である。
 夫等の実地から得た尊い経験を私が八年前からやってゐる病気治しに就て、数百人の患者に試みたる結果、例外なく、好成績を挙げ特に肺肋膜等の患者に対する野菜食が、如何に効果あるかは、世の医家に向って大いに、研究されん事を望みたいのである。簡単ではあるが、以上の事実に徴(チョウ) してみて今日大いに発達せる如くに見ゆる、営養学が其根本に於て、一大誤謬のあるといふことは、私は、断言して憚(ハバカ)らないのである。此事は国民保健上、大問題であるが故に、敢然起って、--警鐘を鳴らし、斯界の学究諸賢は固より、一般世人に向って、一大警告を発する所以なのである。
 私が提唱する、此新栄養食が、一般に行はれるとすれば、国家経済上からみても一大福音と言ふべきである、彼の我邦の農民が、労働に耐久力のあるのは、全く卑食であるからであって、若し肉食的の栄養食を摂ったとしたら到底、あれだけの労働は出来ない事を私は保證するのである。         

                       (日本式健康法の提唱(二)「食餌と営養」東光6号  昭和10年6月)


「現代栄養学の誤謬、その2

 そうして、今日栄養学といへば、カロリーやヴィタミン説に捉は
れ、それによって凡て律してゐるが、私は断言するのである。ヴィタミンが全然無い物を食ってさへも、人間は立派に生きてゆかれる事である。
  そうして医学に於ての研究なるものは、食物の方にのみ偏して、人体内に於ける消化機能や栄養製産機能の作用を無視してゐるので其点に根本的誤謬がある。元来人体内の凡ゆる機能なるものは実に偉大なる化学的製産者であって、凡有る食物を自由自在に変化させるのである。然るに、医学に於ては、此変化力といふ意味が未だ知られてゐないのである。然らば、此変化力とは如何なるものであるか。例へば、米飯や菜葉や芋や豆を食っても、それが消化機能といふ魔法使によって変化し血液となり、筋肉となり、骨となるといふ事である。然るに米飯や菜葉を如何に分析しても、血素の微粒、肉素の一耗だも発見し得られないであらう。只だそれを食する事によって、体内で自然に各素が製出されるのであって、全く神秘偉大なる変化力である。故にヴィタミンの全然ない食物を摂取しても、それを幾つかの機能の端倪(タンゲイ)すべからざる活動によって、ヴィタミンのAもBもCもアミノ酸もグリコーゲンも、其他未発見のあらゆる栄養素も製出さるるのである。従而、右の理によって考える時、斯ういふ疑問が起るであらう。即ち血液素の全然無い物を食ふ事によって血液が出来ヴィタミンの絶無である物を食ってヴィタミンが製出されるとしたなら、栄養と称して血液を飲んだりヴィタミンを摂取したりしたら、それはどういふことになるであらうかといふ事であるが、それは斯ういふ結果になるのである。即ち、血液やヴィタミンが入るとすると、それ等を製出すべき機能は、活動する必要がないから休止するのである。従而、それ等体内の一部の機能と雖も休止する以上相互関係にある他の機能も、休止又は退化するのは当然である。
 卑近な例ではあるが、彼の牛が草や藁を食ふ事によって、彼の素晴しい牛乳といふ美味な栄養汁が出来るが、之は牛の体内の消化機能の活動による変化力のためで之を今日人間が如何に機械力を以てしても、草や藁から牛乳を製出する事は不可能であらう。 右の理によって、ビタミン等の栄養素を摂取すれば或期間結果は好いとしても、其後に到って漸次機能が弱り、全身的弱体化するのは当然である。恰かも車に乗れば一時は楽であっても漸次足が弱るといふのと同様である。故に栄養食を摂れば一時は身体は肥え、血色は良くなり、統計的にも好成績は表はれるが或期間を過ぎれば弱体化するのである。故に、今日栄養食実験の結果、一二年の統計に表はれたる好成績に幻惑されて、栄養食奨励の策を樹てるのであるが、実に困ったものである。
 故に、右の意味に於て人間の生活力を旺盛ならしむるには、栄養機能の活動を促進させなければならないのである。

それには栄養の少い物を食って、体内の栄養製産機能を働かせるやうにする事である。勿論運動の目的も其為である。故に実際上昔から農民は非常な粗食であるが、粗食をするから彼丈の労働力が湧出するのである。もし農民が美食をすれば労働力は減少するのである。又、満洲の苦力の生活力が強靭なのは有名な話であるが、彼等は非常な粗食であって、而も三食共同一な物を食ってゐるといふのに察ても私の説は肯定し得らるるであらう。然るに今日の栄養学に於ては、種類を多く摂を事が推奨するが之等も実際に当嵌らない事は言ふまでもないのである。 又、今回の大東亜戦争に於て、米英蘭の軍隊を敗退後調査した処によると、彼等の食物は日本兵と比較にならない程、贅沢であったそうである。此事実によってみても、美食である敵兵よりも粗食である日本兵が強いといふ事は全く私の説を裏書してゐるのである。(後略)

                                                  (「栄養学」明医一  昭和18年10月5日)

                                       (「栄養学」明医二  昭和17年9月28日)
             (「栄養学」天  昭和22年2月5日)類似 「現代栄養学の誤謬、その3」

 曩に栄養の喜劇といふ論文をかいたが、未だ言ひ足りない点があるから追加としてかいてみるが、私が先年日本アルプスへ登山した時の事である、昼の弁当を食ふ時、山案内人夫の弁当を見て驚いた、白い飯ばかりで菜が見えない、私は「君の弁当は菜がないのか」と訊くと、彼曰く「ヘイありません、之で結構うまいです」と言ふ、私は見兼ねて「何か缶詰か何かの菜を上げようか」と言ふと「それなら砂糖を頂きます」といふので、砂糖を若干与えた処、彼は喜んで飯へかけて食ったのである、此事実に就て驚かない現代人は恐らくあるまい、といふのは飯ばかり食ってゐて毎日十貫以上の荷物を背負ひアルプスの険路を上り下りするのであるから、栄養学者は何といふであらうか聞きたいものである、何故ならば今日の栄養学に於ては、重なる栄養は菜にあるように言ってゐるからである。
 又今日混食をいいとしてゐるが、之も可笑しいと思ふ、彼の満洲苦力の体力旺盛な点に於ては世界的に知られている、処が彼等は朝昼晩とも高梁製のパンのみであるというから極端な単食である、とすれば現在の栄養学は事実と反対になるという訳で、之も栄養学者の一考を要する処である、此理由は私から言えば斯うである、それは単食の場合、栄養機能の神秘力は必要だけの多種栄養素に変化生産するのである。(後略)

                                     (「之を何と見る」光17号  昭和24年7月9日)

 

「現代栄養学の誤謬、その4」

  (前略)そうして人間を養う為の必要な食物は、地球上至る処に生産されている。穀類、野菜、魚鳥、獣肉等等、地域的、気候的、民族的に、夫々適切な食物を神は配分されているので、それで充分栄養は摂れ、健康は保たれるように出来ているのである。其意味を知らないから科学の魔術にかかり、栄養学などという馬鹿々々しい学問を作り、手数と金をかけて健康を弱らせているのであるから、其愚かなる評すべき言葉はないのである。又此事は食物の咀嚼に就ても言える。それは余り咀嚼すると胃の活動の余地がないから弱って食欲は減退する。それを補うべく消化薬を服み、消化のいゝ物を食うから愈々胃は弱り、其結果胃下垂や胃潰瘍となるのである。此理によって結核患者も栄養などは問題にせず、一般人と同様の食物で、半噛み位にすれば結構で、昔から早飯の人程健康であるのはそういう意味である。(後略)                    

                                          (「栄養」結信  昭和27年12月1日)

 

「現代栄養学は人体機能を閑却している」

 私は前項迄に、薬剤の恐るべきものである事を詳説したから、最早判ったであらうが、茲に見逃す事の出来ないのは、栄養に関する一大誤謬である。先づ結核の項に動物性蛋白の不可である事を述べたが、之ばかりではない、全般に渉って甚しい錯誤に陥ってゐるのが、近代栄養学である。
 其最も甚しい点は、栄養学は食物のみを対象としてゐて、肝腎な人体の機能の方を閑却されてゐる事である。例へばビタミンにしろABCなどと種類まで分けて、栄養の不足を補はうとしてゐるが、之こそ実に馬鹿々々しい話である。それは前述の如く体内機能が有してゐる本然の性能を無視してゐるからである。というのは其機能なるものを全然認めてゐないのである。即ち機能の働きとは人体を養うに足るだけのビタミンでも、含水炭素でも、蛋白でも、アミノ酸でも、グリコーゲンでも、脂肪でも、如何なる栄養でも、其活動によって充分生産されるのである。勿論全然ビタミンのない食物からでも、栄養機能といふ魔法使ひの力によって、必要なだけは必ず造り出されるのである。
 此理によって、人体は栄養を摂る程衰弱するという逆結果となる。即ちビタミンを摂る程ビタミンは不足する事になる。

之は不思議でも何でもない。それは栄養を体内に入れるほど栄養生産機能は活動の余地がなくなるから自然退化する。

之は言う迄もなく栄養の大部分は完成したものであるからで、本来人間の生活力とは、機能の活動によって生れる其過程なのであって、特に消化機能の活動こそ生活力の主体であるといってもいい。言はば生活力即機能の活動である。此理によって未完成な食物を完成にすべき機能の労作過程こそ生活力の発生源である。何よりも空腹になると弱るといふのは、食物を処理すべき労作が終ったからであり、早速食物を摂るや、身体が確かりするのにみて明かである而も人体凡ての機能は、相互関係にある以上、根本の消化機能が弱れば他の機能も弱るのは当然である。
 (中略)栄養学は殆んど逆であるから、健康に好い筈がないのである。又他の例として斯ういう事もある。乳の足りない母親に向って牛乳を奨めるが、之も可笑しな話である。人間は子を産めば育つだけの乳は必ず出るに決ってゐる。足りないといふ事は、何処かに間違った点があるからで、其点を発見し是正すればいいのである。処が医学ではそれに気が付かないか、気が付いてもどうする事も出来ないのか、右のやうにする。之では呑んだ牛乳は口から乳首迄筒抜けになるやうに思ってゐるとしか思へない。実に馬鹿々々しいにも程がある。従って牛乳を呑むと反って乳の出が悪くなる。何となれば外部から乳を供給する以上、乳生産の機能は退化するからである。そればかりではない。病人が栄養として動物の生血を呑む事があるが、之も呆れたものである。成程一時は多少の効果はあるかも知れないが、実は体内の血液生産機能を弱らせ、却って貧血する事になる。考えても見るがいい。人間は白い米やパンを食ひ、青い菜や黄色い豆を食って赤い血が出来るのである。としたら何と素晴しい生産技術者ではなからうか。血液の一粍だもない物を食っても、血液が出来るとしたら、血液を呑んだら一体どういう事にならうか、言う迄もなく逆に血液は出来ない事にならう。そこに気が付かない栄養学の蒙昧は、何と評していいか言葉はあるまい。彼の牛といふ獣でさへ、藁を食って結構な牛乳が出来るではないか、況んや人間に於てをやである。

等によってみても、栄養学の誤謬発生の原因は、全く自然を無視し、学理のみに偏した処に原因があるのである。(後略)
                           (「科学篇  栄養」文創  昭和27年)

「学理に捉はれた自然無視の間違い」

 今蜜柑が出盛ってゐるので大抵な人は喰ふであらうが、之に就て注意すべき事がある、それは医学では蜜柑は実よりも皮の方が栄養があるとしてゐる、即ち皮にはヴィタミンのA、B、Cが全部含まれてゐるからといって推奨するのであるが、之等も実に間違ってゐる、全く学理に捉はれた自然無視の謬説である、何となれば皮は実よりも不味いのは何を物語ってゐるのであらうか、全く皮は喰ふ物ではない事を神が示してゐるのであるから実を食ふのが本当だ、とすれば実に結構な話ではないか、こんな判り切った事まで判らなくなった医学の逆進歩には困ったものである。
 又医学が言う処の、肴の骨にはカルシュウムがあるから食えというのと同様で、わざわざ不味くて人間の歯では噛めないようなものを食へというのは人間を猫と同様に扱う訳で、現代人は実に憐れむべきである。      (「憐むべき現代人」光44号  昭和25年1月7日)

 

「食物のおかしな話」

(前略)二、よく芥子(カラシ)を患部へ貼りつけるが、之も可笑しな話である。一体芥子は何であるか。納豆、おでん、ビフテキなどにつけて食ふのは至極結構なものであるが、人間の病気をそれで治さうなどとは滑稽にも程がある。
三、よく病人によっては、海草が好いと云って、昆布や若布(ワカメ)を荐りに食ふが、之も変な話である。

人間は陸生動物であって魚ではないから、海の草なんか沢山食はなくとも可いので、陸で出来たものを多く食ふのが本当である。偶に海草を食へば可いのである。
四、よく赤色のものを服むと血が殖えると思って、葡萄酒や動物の生血を呑むが、之も可笑しな話である。赤いもので血が殖えるなら、臙脂(エンシ)をといて呑むのが一番いい訳で、飯なども白いのでなく、年中赤の御飯か強飯ばかり食って、おかずはトマトに人参、刺身に蛸ばかり食ったら可いだらふと思ふ。(後略)                                    (「箆棒療法」昭和11年)