第四章 浄化作用と再浄化

 

3、大浄化作用---最後の審判

 

「最後の審判とは世界的大浄化作用のこと」

「最後の審判とは、(中略)一言にしていえば、世界的大浄化作用の事である。
  私は以前から霊界に於ては、今迄夜の世界であったのが、愈々昼の世界に転換する時になったという事を説いて来たが、それが如実に現れるのが最後の審判であって、而も目捷の間に迫って来ているのである。之も予て知らしてある通り、霊界に於ては一九三一年六月十五日を境に、徐々として昼に転換しつつあり、最後に到って、決定的大浄化作用が行われるのである。勿論其順序としては神界、幽界、現界というように、三段階になって進みつつあるが、本当の昼間になった時こそ、即ち光明世界である。之に就てつい先頃、私は今年の六月十五日から、右の最後の段階である現界が、昼間になる最後の時に愈々一歩入るのである。そうして今年から十年間に、光明世界即ち地上天国の基礎が成立つ仕組になっている事を知るべきである。
  以上は大体をかいたのであるが、黎明から昼間になる迄には、勿論漸進的ではあるが、確実に一歩々々変化しつつある事は、信者諸君はよく知っているであろう。何となれば霊界が昼間になるにつれて、浄化がドンドン強くなってゆくと共に、浄霊の効果も著しくなり、現に日に月に治り方が早くなる事や、奇蹟の多くなる等である。信者諸君が一年前二年前の治り方と、現在と比べてみるとよく分るであろう。此様に浄化が段々強くなるにつれて、人類社会もそれに伴い、変化も激しくなるのである。一切が光明に晒される以上、相応の理によって、汚れたる者は段々衰えてゆき、清き者は段々栄えてゆくというように、霊界の浄化の程度と同化される訳であるが、実は之が重大問題である。という訳は愈々という時になると、いくら人間が頑張ってみても、大自然の力には抗する事が出来なくなるからで、善悪は判然と区別され悪は滅び、善は生き残る事となろう。
  右の理によって、罪穢の沢山ある人程、大浄化に耐える事が出来ず、永久に此世をおさらばとなるより致し方ないが、それに引換え、善は易々と生き残り得るのであるから、どんな浄化が来ても、耐えられる程の状態に置かれていなければ安心出来ないのである。従って最後の審判とは、罪穢の多い人は怖るべきであるが、少ない人は寧ろ有難いのである。何となれば最後の審判の後に来るもの、それは此世の天国であって、歓喜の生活者となり得るからである。
それに就て、本教の出現であるが、以上説いた如く、審判を無事に切り抜け得る人間を、一人でも多く作るのが目的で、之が神の大愛であり、私に課せられた大使命でもある。其唯一の方法としての浄霊であるから、浄霊とは独り病気を治すのみではない。来るべき審判を無事に切り抜け得る資格者を作るのであるから、此仕事を知ったなら本教が如何に大きな救世的ノアの筥舟(ハコブネ)であるかを認識されるであろう、本教の名が救世教と言うのも、右の理由に外ならないのである。(後略)」

                                                 

(「最後の審判とは」昭和26年6月27日)



「(前略)私は目下天国の基礎的準備に取り掛ってをり、甚だ小規模ではあるが、日々驚くべき力と奇蹟を顕わしつつあり、人々は驚嘆している。そうして右の如き模型的経綸が漸次発展するに従い、他面世界的には旧文明の清算の幕が切って落される。それが最後の審判の開始であって、眼目は善悪の立分けである。即ち悪は亡び善は栄える段階に入るのである。之が為如何に多数の犠牲者が出るかは計り知れないものがあろう。
  併し乍ら神の大愛は之等犠牲者を最少限度に喰止めらるべく、救いの其第一声が此著出版の理由である。といっても旧文明世界からも、神は善悪正邪を選り分け善にして役立つ者は残されると共に、悪にして見込なき者は永遠に滅びるの止むなきに至るのである。
  以上の如く、最後の審判が済むや、続いて新世界設計の順序となるのは勿論だが、其転換期に於ける凡ゆる文化の建直しこそ、空前絶後のものであって、言う迄もなくそれは旧文明の誤謬の是正と共に、新文明の指針を示すのである。処が茲に悲しむべき事がある。というのは人類が数千年の長い間に堆積された処の罪穢であって、当然此大浄化作用が発生するのである。
それを之から詳しく説いてみるが、幸い之を読む人々は救いの綱を目の前に出されたのであるから、何等の躊躇なく掴まれん事である。それを前以て人類に知らせ、悔改めを私は神に代って勧告するのである。之ぞ神の大愛でなくて何であろう、従って之を知った以上、一時も早く頭の切替へは固より、心の準備に取掛るべきである。そうして審判の最後に到っては、罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである。(後略)」   

(「文明の創造  序文」昭和27年8月20日)

 

  

「大浄化作用とは、善悪の立別け」

「(前略)これは何時かも話した事がありますが、「ゴーラ」という言霊は、「ゴ」は、「火」で、「火」は「霊」です。それで「ゴー」と続けるのは、火が続く事です。「ラ」は「渦巻く事」「螺旋」です。霊界ではいよいよ左進右退的活動が始まるのです。
そうするとそれはどういう結果になるかというと、火の霊気はつまり火素ですから、浄化作用が強くなるわけです。そうするとこの左進右退の渦巻が一切のものに行って、或る程度浄化されたきれいなものは中にはいれますが、汚ないものは外にはねられてしまうのです。大浄化作用です。ですから残ったものは善で、はねのけられたものは悪ですから、自然に善悪の立別けがついてしまうわけです。
それでこの渦巻を自然に通って、はねのけられない人を作るのが救世教の信仰です。あなた方ははねのけられないでしょうが、しかしあんまり慢心したり取違いをしたりすると危ぶないですから、そこをうまくやってもらえばよいのです。それで中にはスーッと通る人もあるし、通っても閊(ツカ)えたりして、かなり苦しむ人もあります。それでそれが一番現われるのは病気です。これはあなた方が始終浄霊していて、だんだん浄化が強くなって、強くなるとどっちかに片付くのが早くなるのです。助かる死ぬという事がはっきりするのです。これは日のたつに従ってそういうようになって来たという事で充分わかるわけです。
ですからこれからは非常に面白くもなるし、恐ろしくもなるし、間違っている間違ってないの結果が早く分るわけです。けれども、私の話をよく聞いて御神書を読んで居れば、そう難かしい事はありません。それで今までの小乗宗教と違って窮屈なやかましい事はないのですから、本当の意味さえ分れば楽々と峠は越せるわけです。(後略)」

 

              (御教え集23号  昭和28年6月16日)

  

「邪神に加担したものは、永遠に滅びる」

「(前略)邪神に加担したものは、最後の審判の場合、永遠に滅ぶる運命者となるのである。故に愈よとなるや、何程後悔しても先に立たずで、滅亡するのは必定である。随而何よりも今の中悔悟遷善し、神の大愛に抱かれ、悪から脱却し、善人の仲間に入り、歓喜の生活者となって永遠の生命を得なくてはならないが、それを吾等は奨めてやまない所以である。」
                         

  (「邪神と没落」 昭和24年11月20日)

 

 

「(前略)茲で、警告を与えたいのは邪神憑依者の運命である、愈よ霊界が昼となり、浄化旺盛となるにつれて清掃作用が絶対的となる以上、邪神は滅亡するより仕方がない、それが所謂最後の審判である。(後略)」 

 

         (「善悪の戦ひ」 昭和25年3月18日)

  

「大量に命を失う」



「(前略)霊の曇りを明るさに相応するようになる時に、病気位で済めばいいけれども、そうでなくてもっと強く、とても病気なんかに堪えられないで、その人は死んでしまう。病気と言うものは、少しずつ来るから病気で、あれでいいのですがね。あれで一ぺんに来たら倒れてしまう。最後の審判と言うのはそれなのです。そこで段々段々この霊界が明るくなるにつれて、そして一ぺんに、やられることになると、その為に命を失うことになる。それが大量になる。大量になっては可哀想だからと言うので、この事を知らせて助けなければならないと言うのが、神様の御意志であるので、私は神様に、それを命ぜられた。そして、こうしてお知らせするわけなのです。(後略)」          

(「日比谷公会堂  講話」昭和26年5月22日)

  

「本教に背を向けて滅びるか、本教に抱かれて助かるか、二つに一つ」

「(前略) 大本教の御筆先に斯ういう一節がある。『愈々となりてから神に縋りて来たとて後の祭りであるぞよ。普段から神の申す事を上の空で聞いていた人民には、神は構うておられんから、どうしようもないぞよ、俄か信心は間に合わんぞよ』という寸鉄殺人的の言葉がある。これが丁度私が今言わんとする処と同じである。又御筆先に『今度の立替えはこの世に神が有るか無いかを分けて見せてやるのであるから、神有る事が分りたなら、如何な人民でも往生せずには居れまいがな』何と痛烈骨を刺す思いがするではないか。
茲で誰も余り気がつかない事で、且他教に関する事だから気が進まないが、何しろ時節が迫って来たのと人類救いの為としたら、言わない訳にはゆかないから思い切ってかくのである。それは何かというと、愈々来るべき最後の審判に際しては、宗教は何の役にも立たない事になるのである。というのはその宗祖、開祖の殆どが、最早世を救う力がない処か、御自分及びその信徒が救われねばならないから、近来私に対して後から後から歎願に来る有様で、これにみてもその辺よく分るであろう。
成程凡ゆる宗教は今までの世界が続いているとしたら、それ相応の役には立つが、愈々世界大転換という空前の事態となった以上、既成文化は一度は破局的運命とならざるを得ないからである。それと共に万教帰一の時となるので、茲に一切の宗教は一団となって、本教を中心に人類救済は固より、地上天国建設に協力する事になるのである。
  今一言いわねばならない事がある。それは帰する処本教に背を向けて滅びるか、本教に抱かれて助かるかの、二者何れかを選ばなければならない事になる以上、今から覚悟すべきである。これが今後に於ける全人類の課題でもあろう。」    

                        

 (「大恐怖時代来らん」昭和28年2月4日)

   

「赦される者は極く少数---救われる人と救われない人は判る」

「最後の審判に就いてこれからかいてみるが、その根本としては言うまでもなく世界的大清算であって、長い間溜りに溜った処の罪穢の浄化作用である。従って余りに穢くどうにもならないものは、地上から永遠に抹殺される外はないから、恐ろしいのである。という訳で将来役立つものは勿論残されると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し方ないのである。
それは口で言えば甚だ簡単だが、これが人間にとっての脅威は、前古味曽有の大異変であるから、到底筆や言葉では表わせないのである。つまり根本は、善と悪との立別けであって、善人は無罪となり、悪人は有罪者となる訳で、決定的審判が行われるのである。従って現在地上にある人間悉くは、裁きの前の動物に等しき運命に置かれているのだから大問題である。然も悲しい哉、赦される者は極く少数で、救われない者の方が大多数である事で、その割合は数字では表わせないが、大体右と思えば差支えないのである。
  勿論日本人も同様であるから、助かりたい人はこの際至急頭の切替えをする事である。この事は昔から各聖者が神の代弁者としてハッキリ予言されている通りで、言わばその時が来たのである。それも人類全部が救われるとは言わなかった。ただ神の大愛によって一人でも多くを救えと曰われただけであって、その使命を以て生まれたのが我救世教であるから、先ずこの認識が何より肝腎である。右の如く救われる人よりも救われない人の方が多いとしたら、この事を信者はよく心得て置かなければならない。というのは病気を治し救おうとする場合その見別けが必要である。成程誰も彼も一人残らず救ってやりたいのは山々だが、右の如くであり時の進むに従い、救われる人と救われない人とは自ら判るようになるからで、これは神意である以上、如何共し難いのである。従って浄霊を嫌ったり、話に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、已に救われない側に運命づけられたからで、そういう人を何程分らせようとしても無駄であり、反って救わるべき人が疎かになるから注意すべきである。
  又折角御蔭を頂いても大病が治り一時は感激しても、時の経つに従い忘れたり、迷ったりする人もあるが斯ういう人は已に縁が切れ、滅びの方へ廻ったのだから、手放した方がいいのである。以上によっても分る如く、これからは入信させようとする場合、素直に受入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生として諦めるより仕方がないので、この意味に従い最後に近づくにつれて信者諸君は先ず善悪を判別する事である。」
                      

 (「最後の審判とは何か」昭和28年6月17日)

 

「(前略)神様は人類全部を助けるとは言われない。助かる者と滅びる者と出来ると言うんです。それが、最後の審判ですよ。最後の救いではないんです。審判と言うのは、やはり――罪(ツミ)人は罰せられると言う訳です。(後略)」 

 

     (御教え集6号  昭和27年1月3日)

「それから今までもそうでしたが、これからは信仰の話をしても分らない人はあんまり追いかけない方がよいです。追い放した方がよいです。というのは救世教は素晴らしいものだ、神様は大したものだと言うが、それには違いないが、今度の最後の審判というものは、審判は善悪の裁きだが、普通は一人でも多く、ほとんど世界人類が救われるように思いがちですが、救われる人はごく少いので、あとはみんな駄目になる、滅びるのです。それをよく分っていなければならない。
だから少し話して分らない人は放してしまった方がよいです。それは閻魔(エンマ)の帳の方ではチャンと消してあるのです。かえってその方が楽で、そのために救われるべき方の人が遅れたりするからいけないのです。ですからそうした方が非常に楽で救われるべき人が早く救われます。(後略)」    

 (御教え集23号  昭和28年6月6日)

  

「良くなる人と悪くなる人がはっきりする---霊界は死人の山」

「(前略)それから浄化作用ですが、これはみんなよく知っているでしょうが、だんだん強くなって来てます。来月立春祭を過ぎると又かなり強くなるわけなので、信者の人は余程ボヤボヤして居られない事になるのです。
というのは、つまり片付くと言いますか、良くなる人と悪くなる人がはっきりすると共に、肉体ではもういけないというように、つまり決められるわけです。これもあんまり良い気持はしないのです。やっぱり肉体で働いた方がよいです。霊界で働くのはずっと後の遅い方がよいわけです。
これは信者未信者にかかわらず、最近随分死ぬ人があるのです。私などもハッと思うような事があるのです。しかしまだまだ序の口です。今年の節分過ぎあたりから序の口に入るというような時期になるわけです。それで最初は信者の人が多いですが、それからだんだん一般の人に及ぼすようになって来ます。
霊眼で見る人がよく言いますが、今霊界は死人の山なのです。そうなって初めて私の唱える医学の根本が分るわけです。そうなると病気は救世教の浄霊より他に駄目だという事が分って、一ぺんに信者が増えるわけです。天手古舞(テンテコマイ)をする時期が来るわけです。それは一度に来るわけではないので、だんだんにそうなって来ます。丁度今年の農村の凶作みたいなもので、なにしろ神様は自由自在ですからして、それには助ける方の準備が必要ですから、今まで救世教がだんだん発展し、それから信者さん達ができつつあるという事は、つまり準備時代というわけです。(後略)」                           

(御教え集30号  昭和29年1月25日)

  

「病気が非常に増える」

「(前略)それで今の第三次戦争ですが、之は戦争ばかりでなく、その頃になると病気も非常に増えて来る。何故ならば凡ゆる浄化が一緒になりますから、そこで人間はどうして良いか分らなくなる。それが最後――世の終りです。(後略)」

                                          

 (御教え集14号  昭和27年9月5日)

  

助かるのは一割以下?」

「(前略)一種の恐怖時代が来ます。それが最後の審判です。之は二千年も前から神様の方ではちやんと警告を与えてあるのです。で、日本人なんかでも極く上等で三分の一――三割助かつたら極く上等です。或いは助かるのは一割位かも知れません。(後略)」

 

                     (御教え集13号  昭和27年8月6日)

 

「(前略)大本教の御筆先に「世界の人民三分になる」とある。之は三割のことか三分のことかわからない。中島の方で大浄化の時は二割しか残らぬと云ってゐるのは、中島が大本で凝ってゐるからそういふんだ。三割が二割までおまけしてある。わたしらは%と解してゐるが、それはわからない。神様はわかってゐたって人間には知らさない。(後略)」

 

        (御光話録  昭和23年4月18日)
  

「見込がないと神様が一つにまとめて整理される」

「(前略)それで信者も多いし、今に段々増えて来ますがね。中には間違つた人もあるし、飛んでもない人も来ますよ。多い中にはね。けれども神様はそれを多勢寄せて――それは因縁のある人ですがね。因縁に就いても話しますがね。それから選り別けるんですよ。選り別けた結果、何うしても役に立たない――こう言う人間は居ない方が良い。住む資格がない者だと言うのが幾人かありますね。そうすると、その人間を教団からつまみ出さなければならない。教団の方で出すと、先方が怨む――怨むと、その想念が邪魔するから、怨まない様に神様は一つの間違つた事を造るんです。之が因縁なんです。そうすると、そのつまみ出され様とする人が皆信ずるんです。だから、神様が丁度良い様にする。あの人は教団から離れる、惜しい。と気を揉むが、神様はそう言う必要があつて――教団からつまみ出す指導者を作るんです。(中略)」
                          

 (御垂示録8号  昭和27年4月1日)