第二章 メシヤ様の御経綸
2、順序と型
この項では、順序と型ということについて、学んでいきたいと思います。
主神様、メシヤ様の御神業には、設計順序があります。だから、その時期に応じて、時と共に順番に、その設計順序通りに、型を作り進めていかれるようです。
ですから、メシヤ様御昇天後、名称も世界救世(メシヤ)教から世界救世(きゅうせい)教に変ると共に内容も変って、変貌すると共に、その時から、幾度と無く分裂や離脱が相継ぎ、現在では世界救世教も三派に分かれるなど、大小合わせれば、二十数団体あり、それぞれ独自で大なり小なり御教えから外れた活動を進めています。また、離脱教団の中にも、御教えに求める思いが強く、御在世当時の在り方に沿って進めようとしているところもあれば、段々と御教えから離れ、その教団の独自色が出てきている組織もあるようです。
このことをメシヤ様は、「散花結実」というお言葉で表現されていたのではないかと拝察しています。花が散って、実がなるには時間もかかりますが、実が熟すとはじけて種があちこちに飛び散り、飛び散った先で、やがて芽が出て双葉となり、段々成長して立派な木になります。
離脱や分裂を繰り返しながらも、それぞれ独立した教団が増えていく現状と大自然の営みが似通っており、そうして、色んな霊層界というか、段階にメシヤ様の御教えが浸透していって、やがて時と共に統一を果たしていく時期が来るのであろうと思われます。
現在の状況は、そうした過程の一コマであり、全てメシヤ様は、現在のようになることが分かっておられたのであろうし、これまでは、そういうことも許されたのだと思われます。明主様とお呼びしていた時までは・・・地上天国を造っていく御経綸の一コマとしては・・・。
しかし、その流れは21世紀に入って、大きく変ろうとしています。それは、昭和の時代から平成へ、そして令和へと、その年号を考えるとメシヤ様の御経綸が分かってくると思います。
ここではメシヤ様の御経綸、設計順序について学んでいただければ幸いです。
「御神業は順序と型で進める」
「 (前略)それで神様の事は総て型で行くのですから、型が出来ただけずつは霊界でそのとおりに拡がるというわけなのです。この点が人間の仕事と非常に違うのです。ですから順序と型です。それを見ていると分るし、それから又私はそういうようにやっているわけです。それですから別に心配する事もいろいろ迷う事もないわけです。神様の方の設計順序がチャンとありますから、そのとおりにやっておればドンドンうまくゆくわけです。実に不思議な事です。それでこういう事は人間が始まってから未だないのですが、それは今までは夜の世界ですから、全部月のやり方です。今度は太陽が出たのだからまるっきり違うというわけです。
ですから反対な事が多いです。それは日と月とでは反対になります。つまり月の方は右廻り、日の方は左廻りです。それでここに肝腎な面白い点があります。日の働きというものは「引く」引寄せるという事です。それから月のやり方というものは「突く」つまり攻撃です。
ですから「引く」と「突く」との違いさです。それをよく知っているとよいです。突進むでなくて、引寄せるのです。それで一番分り易いのは、月は水で日は火ですから、物質はみんな月になるわけで、霊が日になるわけです。そこで水を寄せるとかえって向うに行ってしまうのです。それで逆にやるとこっちに来るというわけです。よく、あせったりして突進むという事は割に結果が悪いので、落着いている方がかえって引寄せられ集まって来るという事がありますが、これは真理に合っているからです。ですから私は割合にあせらないで落着いて悠々(ユウユウ)としてやってますが、それで非常に仕事が果取(ハカド)って沢山できるという事は、そういう意味になるわけです。ですからそのやり方でゆくと、楽に順調に行って失敗がないわけです。」
(御教え集27号 昭和28年10月16日)
「神様は総て順序です」
「(前略)それで神様は総て順序ですから、チャンと順序が合わないとスラスラと行かないのです。だから何んでもやってみてスラスラと行かない事は、みんな何処かに、霊的に間違ったところがあるからです。そこに気がついてやり直し、計画を変えるという事が肝腎です。そうするとスラスラと行きます。だから楽に行く事でなければ、うまく行くものではありません。苦しむようでは決してうまくは行きません。箱根が出来て熱海に移り、熱海が出来て今度は又箱根に行く、という順序なのです。それで私のやっている事は肝腎な経綸ですから、ちょっとでも順序が違うと直ぐに神様からやられてしまうのです。(後略)」
(御教え集26号 昭和28年9月23日 秋季大祭)
「神様の事は総て型でゆく」
「兎に角、前にも言ったとおり箱根が霊で熱海が体ですから、この救世会館が出来るという事は、体的に一つの始りです。箱根の方は霊ですから、ちょっと目には見えないわけです。しかし熱海は体ですから、この救世会館がだんだん出来るに従って、その影響が世界的に現われるわけです。一番著しいのは救世教の発展ですが、これが体的ですから目について来るわけです。
そして神様の事は総て型でゆくのですから、例えて見れば何処か拡がるとか出来るというと、やはり御神業の方もそれだけ増え、拡がってゆくわけです。つまり小さい型を拡げれば、大きいものも拡がるという事になるわけです。ですから建増しとか地所を拡げるという事は非常によいのです。支部などもそうで、拡げれば拡がっただけは必ず御神業の方も発展します。これが型です。
昔の宗教が小さな所に楯籠(タテコモ)って、ごく地味にやっているああいったやり方とは全然違います。昔とても立派な堂宇(ドウウ)や伽藍(ガラン)を作るには作ったが、それはかなり成功してからの事で、最初は誠にそういった事にはあまり関心を持たなかったのです。
ところが救世教の行き方はそれとは違うのです。今までは一切衆生を救うという建前でしたが、救世教の方は地上天国を造るという建設が主になってますから、やっぱりこっちの根本がそういったようになってますから、体的にも建設をしてゆかなければならないのです。そういうようなわけでこの救世会館が出来るに従って、日本は固(モト)より外国の方にもドンドン拡がってゆくわけです。(後略)」
(御教え集27号 昭和28年10月15日)
「型は神様がやっているので、大先生がやっておられる訳ではない。これに就ては今は言えない。時期が来れば話す。」
(S23・6・28)
「神の経綸は最初、小さく造る」
「(前略)そうしていつもいう通り、神の経綸なるものは最初は極く小さく造り、漸次拡がって終には世界大となるという洵に神秘極まるものである。これは現界にも当嵌る。即ち人間が大きな物を造る場合、先ず模型を造り、しかる後始めるようなものである。故に今度出来たこの神仙郷地上天国にしても、将来に於ける世界的地上天国を暗示していると思えばいいのである。(後略)」
(「神仙郷地上天国の大いなる意義」栄216号 昭和28年7月8日)
「(前略)神様が世界の経綸を行はれる場合はね、すべて「型」ってものをおやりになるんです。神様がこの位(直径一尺位の円をおかきになられる)の活動をなさる時には、この位(直径一寸五分位)の型もやられゝば、又この位(直径三分位)の型もやられるんです。丁度之は人間が最初に胎内に宿る時は虫けら位の大きさですが、それが一人前の大きさの人間になる様なもんでね、世界の動きも、国際状勢もある型によって示されるんです。私なんかは周りでよく示されるんで実に便利なんですがね。(後略)」
(御光話録8号 昭和24年3月)
「順序は神也」
「 (前略)世界人類を救い、病貧争絶無の地上天国を御造りになると宣言なさる、ドエライ神様の事だから、其通り実現するのは絶対間違いないのである。然し物には順序がある。順序は神也であるから、例えば果物が生っても、急には大きくならない、月日を経、雨風に当って、段々大きく美味いものになる。又寒さに慄え、雪霜を凌いでこそ、春が来れば四方に匂う梅花が開くのである。之が天地自然の理法であるとしたら、いくら立派な本教でも、時を待たなければ、花は咲かないのである。
その代り、時来れば、全人類悉くが歓喜の声を放って、地上天国建設に協力するであろう事も、一点の疑ない処である。従って此夢を楽しみつつ、今は黙々として、救いの業に精進していればいいのである。」
(「巻頭言」地24号 昭和26年5月25日)
「大自然は順序を教えている」
「昔から「神は順序なり」という言葉があるが、之は凡てに渉って重要事であり、心得おくべき事である。先づ森羅万象の動きを観れば分るが、総て順序正しく運行されてゐる。四季にしても、冬から春となり、夏となり、秋となるといふように、梅が咲き、桜が咲き、藤が咲き、菖蒲が咲くというように、年々歳々不順序(クルイ)なく生成化育が営まれる、斯様に大自然は順序を教えてゐる。もし人間が順序の何たるを知らず、順序に無関心である結果は、物事が円滑にゆかない、故障が起り勝ちで混乱に陥り易いのである。処が今日迄殆んどの人間は順序を重要視しないが、之を教えるものもないから無理もなかった。私は一般が知っておかねばならない順序の概略をかいてみる。
先づ順序に就て知りおくべき事は、現界の凡ゆる事象は霊界からの移写であると共に、現界の事象も亦霊界へ反映するのである。そうして順序とは道であり、法であるから、順序を紊すといふ事は道に外れ、法に悖(モト)り、礼節に叶わない事になる。(中略)」
(「順序を過る勿れ」信 昭和24年1月25日)
「何かやる時は順序に注意する」
「(前略)信仰には限らず、凡るものがそうですが、ここが完成しなければ本当の発展がないんです。(中略)完成しなければ、そこに欠点がありますから発展がしない。ですからこの位の本山が之だけ拡がれば、それだけ教線も拡がるものです。ですから、相応の理と言つて神様の方は特にそう言う事はやかましい。それから、熱海は体で箱根は霊です。熱海は緯、箱根は経になる。ですから此処が済まないと熱海は出来ない。こつちの建築が済まないと熱海の建築が出来ない。実にはっきりしている。瑞雲郷の少し先に欲しいのがあるが、それを先に手に入れることは出来ない。実に順序良く、隣から隣へと次々いっている。ああ言うのにも非常に順序がある。「神は順序なり」と言つてね。順序を乱したりしているから今の世の中は非常に乱れている。そう言う事を知らないんですね。 (中略)
現界で順序をはずすと、霊界がはずれてしまう。そうすると、それが現界に写るから、何うしても滑らかにいかない。だから、何かやるとかと言う時は順序を注意する様にする。(中略)」
(御教え集1号 昭和26年8月28日)
「何事においても順序が肝腎」
「(前略)順序を乱すと、順序というものは霊界ですから、霊界を乱す事になるから、霊界に順序がつかないと順調に行かないのです。これは何でもない様な事だが、大変に影響があるのです。(中略)ですから何事においても順序が肝腎なのです。これはやはり大自然を見習うのです。どんなになっても梅より桜が先に花が咲く事はないので、やはり大自然には順序があるのです。ですから大自然を見習うという事が信仰の根本なのです。自然農法にしても浄霊にしても、根本は大自然です。ですから順序というものは大自然を見習う事で、間違いないわけです。」
(御教え集20号 昭和28年3月15日)
「想念--言霊--物質が現れるという順序」
「(前略)箱根の神仙郷はそれで大体完成です。それが写って、今度は熱海の瑞雲郷がどんどん進むわけです。それでいずれ熱海にも美術館を造るつもりですが、これは大体箱根の三倍くらいにしようと思ってます。敷地がせまいので、もっと拡げる様に指図してありますから、もうじきそれが拡がる事になってます。それから京都も四月あたりに行っていろいろ案を立てて、敷地だけをボツボツかからせるつもりですが、この方の設計は頭の中には大体出来ましたから、今度は頭から言霊になって、それから物質になるのです。
凡て順序というものは最初は頭の中です。これは霊界に出来るのです。それでこれを、こうしろああしろという言霊に出て、それから本当に物質が現われる、という順序です。それで今は頭の中の霊界では設計が出来てます。それで四月に行って、今度は言霊の設計をやるのです。そこで言霊というものは非常に重要なものです。それは誰がやる事でもそうです。たとえば、ここならここで思いますが、それは霊界にはすぐに出来てしまうのです。私でなくても誰でもそうです。ただ私がやると霊界での出来方がはっきりするのです。ですからはっきりと間違いなくいくのです。それが普通の人なら、そういう様にこしらえてもじきに消えてしまったりするから中途でいろいろ故障があります。中には物質に出来上ってからでも中途でオジャンになるのがあります。(中略)」
(御教え集18号 昭和28年1月3日)
「規模が大きい程救われる人も多数に上る」
「本来宗教とは何かというと、不幸な人を幸福に導く為に、神の愛によって発生したものであって、それ以外の何物でもない。知らるる通りこの世の中に生を営んでいる誰もは、幾ら一生懸命に幸運になろうとしても、中々思うようにはならない。一生涯かかって幸福になる人は九牛の一毛で、殆んどの人は幸福処か逆に後から後から不幸という奴が見舞って来る。というように学校で学んだ学理も偉い人の修身談や伝記、それに関する書籍を読み、その通り実行しても役立つ場合は稀である。成程理屈は実によく出来ていて感心はするが、実際となると理屈通りにゆかないのは誰も経験する処であろう。(中略)
即ち幸福を生む根本は何かというと勿論善であるがこの善を通そうとするには悪に勝つだけの力がなくてはならないのは言うまでもないが、既成宗教にはこの力が不足していた為、真の幸福は得られなかった。(中略)
処が我が救世教は、精神的救いと共に物質的にも救われる。寧ろそれ以上といってもいい程である。本教が数年の間に現在見る如く、各地に地上天国や美術館等を造営しつつあるのも悉く信者の寄附金である。しかも本教は最も搾取を嫌い、自発的寄附を方針としている。にも拘わらずこれ程の大規模の事業を経営するとしたら莫大な基金を要するのは勿論で、それが集ってくるのは、実に奇蹟である。これにみても信者の懐が楽であるからである。しかも一時的ではなく、多々益々増えるのであるから、金銭上の心配などした事はない。次に言いたい事は時代である。昔の各宗教が出た時代は小乗信仰でよかったから、祖師は紙衣(カミコ)の五十年式で済んだが、今日となってはそうはゆかない。一切万事世界的となった以上、全人類を救うとしたら驚くべき大仕掛でなくてはならない。つまり規模が大きい程救われる人も多数に上るからである。以上の如き本教の大計画を知ったなら、何人と雖も本教を見直さない訳にはゆかないであろう。」
(「幸運者を作る宗教」栄212号 昭和28年6月10日)
「教導所なども立派な程いい---神の格が高くなる」
「各地に御祀りしてある同一神仏の御分霊の御力には差がありませうか。」
「えゝ、差がありますね。そこの所の人間次第で差がつきます。同じ神でも例へば御宮が立派か粗末かによってもその御力が違って来ますし、拝む人が多い少いでも違ひます。又、心から拝む人が多い程神の威光は強くなるのです。
御宮の作りも立派な程神の格が高くなります。」
「教導所などもやはり立派な方が宜しいでせうか?」
「勿論ですね、立派な程いゝです。」
「御仏壇は如何でせうか?」
「仏壇も同様ですが、然し之は「相応の理」によって、その家や身分と相応しなければいけないのです。大本教の御筆先に「今の人民神の住居を粗末にし、己が住居ばかり立派にして、神の家をないがしろにしてゐるが――」とありますが、実際今の人はそうですね。然し之は大変な間違ひです。やはり家や身分に相応するのがいゝんです。又反対に、チッポケな家に住んでゐるくせに仏壇を余り不相応に立派にしすぎるのもよくない事で、そんな事をすると何か御知らせがあります。以前平塚の方の人が、大光明如来を御祀りしたんですが、間もなく雨が漏って台無しにしてしまった事がありました。之はその家に不相応なので、祀れない様になって了ったのです。 (中略)」
(御光話録4号 昭和24年2月18日)