第四章 浄化作用と再浄化 

 

 

2、再浄化について

 

「浄化によって健康になり、健康になるから浄化が発る

「(前略)浄霊によって一旦治癒した患者でも、暫くすると再発する事がある。之を吾々の方では再浄化というが、此理由は初めの浄霊は、浄化発生している分だけの毒素が解消されるので一旦は快くなるが、業務に就き仕事にかゝるや、此時は相当活力も出て来たので、活溌な浄化作用が発生する。つまり浄化によって健康になり、健康になるから浄化が発るという訳で、それを繰返しつゝ健康は漸次快復するのである。というように再浄化の場合は割合強烈な為、高熱や激しい咳嗽が発る。之は固まった古い痰が出る為で、濃厚なのと薬の臭いでよく分るが、勿論食欲不振、衰弱等も加わり、稀には不帰の客となる事もないではない。其率は今日迄の統計によると、浄霊で全快した者百人に対し、七人の割合であるから、後の九十三人は完全健康者となって、現在皆活動している。
  右の如き驚異的治病成績に対し、一層驚くべきは、吾々に来る患者の殆んどは医療、民間療法、信仰療法等、凡ゆる方法で治らず、死の一歩手前に迄追い詰められた重症患者のみであるに対し、右の如き素晴しい成果を挙げるとしたら、到底信じ得られないであろう。処で右七人の不成績者と雖も、其原因の悉くは薬毒多量の為であるから、浄霊法とはつまり薬毒除去の方法であって、何よりも薬毒が減るだけは、快方に向うに見て明らかである。としたら無結核国日本にするには、敢て難しい事ではない。薬剤を全廃する事と、感冒を奨励する此二つで、充分目的を達し得らるゝのである。(中略)」    

 

(「毒素の解剖」結信  昭和27年12月1日)

  

「信仰の根本は、合理の二字に」

「抑々信仰の根本は、合理の二字にある事を忘れてはならない。如何に信仰上尤もらしい説を立てても、道理に合わないとしたら真の信仰とはいえないのである。この意味に於て神様というものは、理屈に合えば何程でも御守護があるが、理屈に合わなければ如何に拝むとても、御守護はないのである。この点が最も肝腎であって、再浄化の意味もこれに外ならないのである。
  散々医療を始め凡ゆる療法を受けても治らない結核患者などが、浄霊によって忽ち治ったので喜んで入信することとなる。そして暫くしてから再浄化が起る人がよくあるが、これはどういう訳かというと、勿論理屈に合っていないからである。即ち医者から見放された病気が、神様の御蔭で治ったとしたら、神様から無い命を頂いた訳であるから、何程感謝してもし切れない程であるに拘わらず、中にはその当時の感激もいつか忘れて、最早治った以上それで済んだと思ってしまう。そうなると信仰前と同じでないまでも、感心出来ない生活態度となってしまうが、それで何事もなければ万々歳だが、どっこいそうはゆかない。というのは長い間散々薬毒を注ぎ込まれているため、健康恢復に伴い、溜りに溜っていた薬毒の排除作用が起る。これが再浄化である。しかしいつもいう通り右は体的面だけの事だが、実は霊的面の方に体的以上重要な問題があるのである。しかしこの事に就いては今まで少しも知らしていなかったが、最早それが許されない時となったので、その根本をかくのである。
  では何故今まで知らせなかったかというと、未信者や新しい信者などには、誤解を招く懼れがあるからで、出来るだけ言わないようにしていた。処が段々浄化が強くなるにつれて再浄化の人も増える事になるから、茲にハッキリさせるのである。抑々世の中の事は一切相応の理によって動き、道理に合うように出来ている。特に信仰にあってはそれが顕著である。彼の釈尊の曰われた生者必滅、会者定離とは、これを一言に喝破したものであり、因果律とか因果応報などもその意味に外ならない。
  これによっても分る如く、死を覚悟し絶望的となった重病患者が全治したとしたら、何を措いても力の限り、神様に御恩報じをするのが当然であり、これが合理であるに拘わらず、忘れるとしたら御蔭の取りっ放しであり、恩知らずも甚だしいのである。この理を一層分り易くいってみると、例えば生命の価値を十とすれば、十の感謝ならプラスマイナスであるが、十以上であればその余分だけはプラスになり、神様はその何倍にも当る御恵みを下さるものである。それと反対に感謝が五とすれば、差引五だけマイナスとなるから神様への借金となる。そこで一日も早く御返しすればいいが、それを怠るとすると利息が嵩んで借金は増えてゆく。この点現界と少しも変りはないので、これも相応の理である。そこで借金が溜って或程度を越えると、神権裁判所から督促や差押えが来る。これが再浄化であるから、それに気が附き心からお詫びをすると共に、元利合計御払いすれば助かるのは当然である。処が中には飛んでもない考え違いを起す人がある。それは信仰で治ったと思ったのはヤハリ一時的で、本当に治ったのではないとして迷い始める。そこへ周囲の者などが、それ見た事かと言わんばかりにしきりに医療を勧めるので、ついその気になって医者へ行く事になるが、もう斯うなったらお仕舞で、十人が十人悪化の一路を辿り、遂に彼の世行となるのは常に経験する処である。ではそうなる原因は何処にあるかというと、霊界に於ては悪魔は人間の心の隙を狙いつめており、一寸でも油断があると忽ち憑依し、その人をワヤにする。この点注意の上にも注意をしなければならないのである。(後略)」

                                   

 (「信仰の合理性と再浄化」昭和28年5月27日)

 

「理屈に外れるから再浄化が起ったり、命まで失くす」

「 (中略) 本教に於ては、神と人との結び附きが余りにもハッキリしている。何しろ現在の如く紀元末ともいうべき地獄世界を救うとしたら、既成宗教以上の超宗教的力を有っていなくてはならない筈である。従ってこの救世の力を発揮する基本条件としては、神と人との関係が非常にハッキリしていなければならない訳である。成程難病が救われ、無い命が恵まれた以上、無限の感謝が湧くのは当然であって、それを具体的に表わしてこそ、神は第二の恵を与えられるのである。
  そうしてそれに酬ゆると共に、恵まれた命は何が為かという事を考えてみるべきである。勿論御神業の御役に立てんが為の神意である。これに就いては先日も神様の事は、一切理屈に合わなければいけない。理屈に外れるから再浄化が起ったり、命まで失くすのである。それに引替え戴いた命は最早自分のものではない、神様の御手にある以上、救世の為力限りベストを尽くす。そうしたなら再浄化などは消し飛んでしまうので、反対に歓喜幸福な境遇になるのは、絶対間違いないのである。
  従って不幸になるのも幸福になるのも、自分の心掛次第で、この点一分一厘も違いないのである。それは左の御蔭話がよく表わしているから、読んだ人は成程と思うであろう。」
                  

 (「神徳斯くの如く験かなり」栄221号  昭和28年8月12日)

 

 

「お蔭をいただいて命を助かった人は、大いに注意する」

「(前略)命に関(カカ)わらない病気ならそうでもないが、命に関わるような病気がなおれば、命をいただいたのですから、なおってよい塩梅だと金儲けだとか相変らずな事をしていると、折角下さった命を自分の事に利用してしまう事になるので、つまり何時も言うとおり自分の命だと私有財産みたいに思ってしまうので、そこに大変なくい違いがあるのです。
以前に、鉱山をやっている人で、相当に年をとった人ですが、心臓病で命の無いところを助かったのです。それで自分は一生懸命に神様のために働くと口では言っているが、何時の間にか山に行って、暫らく見えないからどうしたかと思っていると、その人は相当の資本家で経営者であるから鉱山に行っていたが、工合が悪くなってあわてて帰って来て、治療をしてもらうと良くなって、今度はよいだろうと思うと、又行ってしまうのです。そういう事が度々あったので、とうとう私は“あの人は駄目だから放っておけ”と言っておきましたが、それから暫らくして死んでしまいました。
この人などはあんまり命を粗末にするので勿体ないくらいなものです。こういう人は滅多にありませんが、これに似たような事はよく聞きます。お蔭話などにもよく出て来ますが、難病がなおってそうして神様は大したものだと言いながら、この次再浄化で悪くなると医者に行くのです。そうして散々やってもらって、今度は前よりも悪くなって、やっぱりこれは神様に縋ろうと来る、それで今度なおると、そこで初めて分るのです。実に世話がかかるのですが、よくそういう人があります。
だからそういった大きなお蔭をいただいて命を助かった人は、これから大いに注意してやるのです。そうすれば再浄化は余程少なくなります。そこで万一再浄化が起こった場合には、何故起こったかという意味を、今のような訳だという事を話してやるとよいです。大体どんな病気でも、なおればそれよりか重い病気が起こるわけはありません。第二の起こり方ですから、軽く済むわけです。ところが再浄化の方がかえって重い場合が多いのです。という事は人間の方が間違っているからです。(後略)」 

 

               (御教え集22号  昭和28年5月15日)

 

「再浄化について」

「再浄化について、今までも話しようと思ったが、あんまり話のしよい事ではないので、つい言わなかったのです。だんだんこれから再浄化が多くなりますから、そこでどうしても本当の事を言わなければ追いつかなくなって来たので、本当の事を言います。本当は再浄化というものは起こるべきものではありません。しかし起こるべきものではないと言っても、或る程度はやむを得ないが、再浄化で命が無くなるという事はありません。再浄化のあるのは、ほとんど結核ですが、医者から見放されて全然死ぬに決まったような者が助けられるとしたら、その命の恩は大変なものですから、如何なるものを犠牲にしても、命の代りとして感謝しなければなりません。感謝するという事は奉仕しなければならないのです。それをボヤボヤしているから、神様は横を向かれるのは当り前です。だから再浄化が起こるという事は、再浄化が起こるようにしているのです。それで今の人はやっぱり医学迷信のために、お医者でなおったのは非常に有難がるのです。ところが信仰でなおったのは有難味が少ないのです。というのは信仰でなおるべきものではないと思っているから、“なおったのは時節が来たのではないか”或いは“今まで沢山のんだ薬が効いて来たのではないか”というような解釈をする人があるのです。ところがお医者の方でなおったのはじき忘れるが、神様の方はそういう理窟に合わない事は絶対に許されないのです。しかし今までは和光同塵で、少しは許されて来たのですが、これからは絶対にお許しにならないのです。大本教のお筆先に“神厳しくなると人民穏かになるぞよ”というのがありますが、うまく言ってあります。(中略)」                    

 

 (御教え集22号  昭和28年5月15日)

  

「慾を出すのは、程々にすること」

「(前略)それから病気で苦しんでいる時に、命が危ぶない、このままではどうしても死ぬよりないという時に、これは幾ら金がかかっても、財産を全部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。そうしているうちに、なおって、だんだんよくなって来て命の心配がなくなると、今度は慾が力をつけて来て、どうしても金をこうしなければいけない、ああしなければいけないという慾が出て来るのです。そうしているうちに何時の間にか、助かりさえすればよいという時の事を忘れて、慾を出すという事は、誰でもある事で、私なども経験があります。
それは最初の病気の時に考えた事も本当なのです。それからそういった慾が出るのもやむを得ないのです。ただそこのところをうまく程のよいという事です。人によると、助かってしまってから今度はばかによくなったと、最初思っている半分も三分の一も御礼をしないという事もあるので、そこでこの間再浄化という事を話したり書いたりしたのです。そこで結局「程」です。一方に片寄るから、そこに問題が起こったり無理があったりするのです。そこで「程々」という事が伊都能売になるのです。(後略)」   

                                          

  (御垂示録21号  昭和28年6月1日)

 

「想念が合ってないと治りが悪い」

「(前略)病人が何も分らない内は疑いもし、反対もし、物は試しだぐらいにやるのですが、それはそれで神様から許されます。それは当り前です。ところが相当に話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、入っていながら、それに合ってゆかない想念でやってもらうと、そのときは治りが悪いのです。うまくゆかないのです。そういう事に対してチャンと合理的の理窟があるのです。
だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それから相当に信じている人で治りが悪いという事がありますが、それはそういう訳です。全然知らない人はいくら疑ぐっても、それは当り前の事で許されるのです。理窟に合っているのです。ところが相当事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。
そういう事をよく考えてみるとチャンと理窟に合っているわけです。その合っている理窟を早く発見し早く知るという事が智慧証覚です。心の鏡に写るわけです。ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、早く発見するという事になるのです。ここに信仰の、案外軽く見ている事で実は非常に重要な点があります。(後略)」

 

        (御教え集29号  昭和28年12月5日)