第五章 霊的知識を深める

 

 2、生と死

     

「人間は霊界と現界を交互に無窮に往来している」

「(前略)人間なるものは現世界から死後の世界即ち霊界へ往き、霊界からまた現界へ生れるといふやうに、二つの世界を交互に無窮に往来してゐるのである。(後略)」

 

(「未知の世界」 昭和18年10月23日)

 

        

 「人間が生れるといふ事は神の命による」

「(前略)人間が現世に生れるといふ事は神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのもその意味であらう。誰しも思ふ事は、人間は何が故に生れたかといふ事である。斯事を真に把握せざる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に畢(オワ)る惧れがある。然らば神の意図とは何ぞやといへば、此地上をして理想世界、言ひ換へれば地上天国を建設する事である、とはいへどそれは恐らく、その規模に於て、其構想に於て、壮麗雄大なる言語に絶するものがあらう事は想像に難からない。何となれば無限に進歩しつつある文化は、極る処がないからである。此意味に於て現在までの世界歴史は、基礎的工作に過ぎなかったのである。そうして神は一人一人それぞれの使命を与へ、特長を持たせ、生き更り死に替り、理想目的に向って前進せしめつつあるのである。(後略)」
                                

 (「霊層界」 昭和22年2月5日)

 

「(前略)人間は神の命によって、運命は疎(オロ)か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。故に死とは神よりの命令解除である。それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なき為であるから、人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、長寿と幸福は得られる筈がないのである。(後略)」   

 

(「霊層界」 昭和24年8月25日)

 

                     

「死後は霊界生活がある」

「(前略)人間は誰でも一度は必ず死ぬといふ判り切った事であるに拘はらず、死後はどうなるかといふ事は殆んど判り得なかった。考えてもみるがいい、人間長生きをするとしてもせいぜい七、八十歳位までであらうが、それで万事お終ひであっては実に儚ない人生ではないか、之は全く死後霊界生活のある事を知らないからの事で、此事を深く知り得たとしたら、人生は生くるも楽しく、死するも楽しいといふ事になり、永遠の幸福者たり得る訳である。(後略)」

 

              (「霊界叢談序文」 昭和24年8月25日)

 

       

「霊素が肉体と分離する事を死という」

「(前略)肉体の原素としては、水素と土素との両物質であって、此両物質だけでは、生物としての活動は起らない。之に霊魂なる即ち無形の霊素が加はって、初めて活動が起るのである。そうして、無形の霊の形態は、人体そのままで、此霊素が肉体と分離する事を死といふのである。何故に分離するかといへば、肉体が老衰、病気、負傷、大出血等によって、使用に堪えざる状態、それがある基準を超えたる刹那、分離せざるを得ない法則であるからである。そうして、死と共に、忽ち体温が冷却し、血液は或一部に凝結するといふ事は、霊素即ち火素が無になるから、冷却する為である。然らば、此霊素はどうなるかといふと、人体の形状の儘、霊界なる別の世界に入るのである。(後略)」                                        

  (「死とは何ぞや」 昭和14年)

                          

「人の死と霊界の関係」

「(前略)使用不能になった肉体から離脱した霊は、霊界に復帰し霊界人となり、霊界生活が始まるのである。そうして先づ人間死の刹那は如何なる状態であるかを霊界から観察した時の模様を記(カ)いてみよう。
  死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概ね人体の三個所から出る。即ち前額部、臍部、足の爪先からである。此区別は如何なる理由によるかといふに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部といふ訳である。その理由としては霊の清浄なるものは、生前善を行ひ徳を積み霊が浄化された為で、汚濁は生前罪穢を累ねたるもの、中位はその間であって凡ては相応の理によるのである。(中略)
  仏教に於ては人の死を往生といふ。之は現界からみれば往死であるが、霊界から見れば生れてくる、即ち往生である。又死ぬ前の事を生前といふのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は霊界に於ける生活を、何年か何十年何百年か続けて再び生れるのである。斯くの如き生き代り死に替り何回でも生れてくるので仏語に輪廻転生とは此事を謂ったものであらう。
  霊界なるものは人間に対し如何なる関係ありやといふに、それは現界に於て、神よりの受命者として人各々の業務を遂行するに於て、意識せると意識せざるとに係はらず、霊体に汚穢が堆積する。それと共に肉体も病気、老衰等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体を捨てて霊界に復帰する。即ち帰幽である。昔から霊の抜けた体を称してナキガラといふ事や肉体をカラダといふのもそういふ意味である。
そうして霊魂が霊界に入るや、大多数は汚穢の浄化作用が始まる。汚穢の量によって霊界生活に於ての高下と浄化時限の長短があるのは勿論で、早きは数年数十年、遅きは数百年数千年に及ぶものさへある。そうして或程度浄化されたものは、神の受命により再生するのである。右の普通の順序であるが、人により順序通りゆかぬ場合がある。それは生に対する執着であって、死に際会し生の執着が強いものは、霊界の浄化が不充分であり乍ら再生する場合もある。斯ういふ人は不幸の運命を辿るのである。何となれば浄化不充分の為、前生に於ける罪穢が相当残存してをりそれの浄化が発生するからである。
此理によって世間よく善人にして不幸な人があるが、斯かる人は前生に於て罪を累ね、死に際会し飜然と悔悟し、人間は未来永劫悪は為すまじと固く決心し、その想念が霊魂に滲み着いてをり、浄化不充分のまま再生するを以て、悪を嫌ひ善を行ふに係はらず不幸の境遇を辿るのである。然し乍ら斯ういふ人も或期間不幸が続き、罪穢が払拭されるに於て一躍幸福者となる例も亦尠くないのである。
亦斯ういふ人がある。自分の妻以外の女は知らないといふ品行方正を誇りとするのや、妻帯を欲せず、独身同様に終るものもあるが、之等の人は前世に於て、婦人関係によって不幸の原因を作り、死に際会し女性に対する一種の恐怖心を抱き、その想念が霊魂に滲み着いてゐる為である。其他鳥獣、虫類等の或種に対し、特に嫌悪又は恐怖を抱くものがあるが、それ等も、其動物によって死の原因を作った為である。又水を恐れたり、火を恐れたり、高所を恐れたりするのは、それ等が原因となった為である。
  人間恐怖症といふのがある。例へば多人数集合の場所を恐れるが、之等も人混みで押つぶされたりして死せる為であり、面白いのは独居を恐怖するものがある。私が扱った患者で斯ういふ人があった。それは留守居が出来ない。即ち己一人では淋しく恐ろしいので独居の場合は必ず外へ出て誰か帰るまで待ってゐるのである。之等は前世に於て独居の際急病が起り人を招んでも間に合はぬうち死せるものであらう。以上の如き数種の例によっても、人間は死に際し、執着や恐怖等なく、平安に大往生を遂ぐるよう、平常から心掛くべきである。(後略)」
                             

(「生と死」昭和22年2月5日)

 

                  

「全てのものに、生死がある」

「人間のみでなく一切に生死がある。この生死がなくては困るんで――、生れる人がある。
  石なども死石といふのがあって、死石はボロボロ欠ける。石にも霊の憑依している事があって、龍神なども石へ憑く場合がある。水の傍の石とか、浅い水の石に憑く事がある。(後略)」 

 

 (年代不詳)
              

 

「生前の行動が再生に影響する」

「(前略)人間の身体も使っているうちに古くなると朽ちて、使ひ途にならぬようになると、霊が抜けて霊界へ行くのである。そして、現界でいろいろの事をやって霊が汚れ切ってしまふ。之を罪穢といふ。
  それを洗ふのだが、或程度洗ふと又生まれ更る。生きているうち簡単でない。深い罪がある。之は執着であって、此執着が強いと蛇になる。人を騙したのは狐になる。斯の如く獣のような行ないをすると獣になる。慈悲も情もない。獣のような事をすると獣になって再生するのである。
  女で嘘ついたり女郎を長くやったものは狐になる。二号や三号になり、ブラブラしてうまい物食ってるものは猫になる。これは猫と同じ行為である。忠実な人間は馬になる。探偵やスパイ等は犬になる。
  一旦四足となり、人間に生れたのは転生といふ。再生は人間が人間に生れ代ったものである。
  霊の入っている間は人間である。ヒトは霊止(ヒト)である。体はカラ、霊のカラ、力といふ字はチカラ、チは霊である。霊体密着して力が生れるのである。霊体結ぶと力が出る。」       

 

 (年代不詳)