「食と農」
「食」について
15-2、メシヤ様の健康法
「メシヤ様の若返り法」
(前略)又私は曩に述べた如く、結核を治すべく、三ケ月間絶対菜食で、鰹節さへ使はず、薬も廃めて了った処、それで完全に治ったのである。此様な訳で私は九十歳過ぎたら、大いに若返り法を行はうと思ってゐる。それはどうするのかといふと、菜食を主とした出来るだけの粗食にする事である。粗食は何故いいかといふと、栄養が乏しい為、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならないから、それが為消化機能は活溌となり、若返る訳である。とすれば健康で長生きするのは当然であらう。(後略)
(「科学篇 栄養」文創 昭和27年)
「メシヤ様の健康法とは・・・」
最後に私の健康法をかいてみるが、私は本年西洋流に数えて六十七歳になるが、矍鑠として壮者を凌ぐものがある。目下開拓してゐる山に始終登るが、若い者の方が脚が弱いので何時も私の方で加減するのである。よく明主様おくたびれになったでしょうと言はれるが、正直に言ふと草臥れてゐないので返事に困る事がある。夜寝るのは先づ二時半か三時朝は七時から七時半までの間に起床する。先づ四時間か四時間半位の睡眠である。仕事はといえば之は側近者はよく知ってゐるが、十人分位の仕事はするので若い者は後がつけないので困ってゐるようであるが、之は致し方がないと我慢して貰ってゐる。
右は私の養生法の為もあるが私の養生法は現代人のそれとは凡そ反対であるからそれを多くの人に知らして参考に供したいのである。
先づ現代医学の養生法といえば第一無理をしない事、睡眠をよくする事、栄養を十分に摂る事、食物はよく噛む事、あまり頭を使はない事等々であるが、私は凡そ逆である。
私の養生法の第一は無理を為す事である。といふのは人間は無理をするだけ健康が増すのである。然し私はあまり無理をすると苦しいから或程度の調節はとる。睡眠は年齢によって差別はあるが私位の年では四五時間が恰度いゝのである。食物に就ては面白い事には私はいつも栄養が多過ぎる事を心配するのである。といふのは多くの信者からの献納の食物が勿体ない程沢山あるので、出来るだけ少しづゝでも信者の誠を食べるようにしてゐる為もあって先づ美食家といってよかろう。それを調節する為に朝食後は必ず相当量の薩摩芋を食う。又就寝前は茶漬をよく食い汁粉を一杯は欠かしたことがない。そうして食物にも陰陽があって、陰に傾いても陽に傾いてもよくない。勿論陰とは野菜で陽とは魚や肉である。これを偏らないように加減する。朝は陰七分陽三分、昼は陰陽半々、夜は陽七分陰三分の割合を守ってゐる。香の物にも陰陽がある。陰とは青菜類、陽とは大根蕪(カブ)の如き白色のもので、之等も半々にしてゐる。そうしてあまりよく噛まない半噛み位である。よく噛むと胃が弱るからである。又私は食休みといふ事をしない。飯を食うとすぐに起って活動する。之は胃の強健法である。私が胃病を治したのは此の方法で効を奏したからである。そうして決して量は決めない。私の食餌法の原則は「食べ度い時に食べたいものを食べ度いだけ食う」のである。然し実際生活上そのやうな我儘は出来ないから然るべくやってゐるのである。
茲で一寸意外に思う事がある、というのは成可頭を使う方がよいので、之は一種の健康法で頭脳を使う人は長命である。然し心配の為頭脳を使うのは之はいけない。面白く愉快に使うのでなくてはいけない。此の点にも信仰の価値を見出せる。それは心配事のある場合神様にお任せするという気持になるので之で心配の大半は減る、つまり神様に分担してもらうのである。至極横着な話であるが斯ういう横着は反って神様はお喜びになるのである。
私は昔から一日の中必ず一回は外出する。雨が降らうが風が吹かうが欠かした事がない。そうして出来るだけ歩くのである。之は老いて益々健康などという人にそういう事をよく聞くのである。又酒は猪口に三杯位、ビールはコップに一杯、煙草は普通程度である。
以上が私の健康法である。勿論黴菌などには無関心である。故に一般人には反って不養生に見へるが実は之が真の養生法である。何よりも右の方法を実行すれば誰でも健康になる事請合である。青白いインテリ型などには決してならないから安心して実行する事をお奨めするのである。
(「私の健康法」自叢十 昭和25年4月20日)