食と農
食」について
11-2、体内機能と食物
「体内機能の力」
私は前項迄に、薬剤の恐るべきものである事を、詳説したから最早判ったであろうが、茲に見逃す事の出来ないのは、栄養に関する一大誤謬である。先づ結核の項に動物性蛋白の不可である事を述べたが、之ばかりではない。全般に渉って甚しい錯誤に陥っているのが、近代栄養学である。
其最も甚だしい点は、栄養学は食物のみを対象としていて、人体の機能の方を閑却されている事である。例えばビタミンにしろ、ABCなどと種類まで分けて、栄養の不足を補わうとしているが、之こそ実に馬鹿々々しい話である。それは前述の如く体内機能が有している本然の性能を無視しているからである。というのは其機能の働きが全然判っていない処に起因する。機能の働きとは人体を養うに必要なビタミンでも、含水炭素でも、蛋白でも、アミノ酸でも、グリコーゲンでも、脂肪でも、如何なる栄養でも、其活動によって充分生産されるのである。勿論全然ビタミンのない食物からでも、栄養機能という魔法使いは、必要なだけは必ず造り出す事である。(後略)
(「栄養」結革 昭和26年8月15日)
「出来るだけ単食がいい」
(前略)以前斯ういう事があった。或時私は東北線の汽車に乗った処、隣りにいた五十幾歳位の顔色のいい健康そうな田舎紳士風の人がいた。彼は時々洋服のポケットから青松葉を出しては、美味そうにムシャムシャ食っている。私は変った人と思い訊ねた処、彼は誇らし気に自分は十数年前から青松葉を常食にしていて外には何も食わない。以前は弱かったが、松葉がいい事を知りそれを食い始めた処、最初は随分不味かったが、段々美味くなると共に、素晴しい健康となって此通りだと釦を外し、腕を捲くって見せた事があった。又最近の新聞に、茶殻ばかりを食って、健康である一青年の事が出ていた、之は本人の直話であるから間違いはない。以前私は日本アルプスの槍ケ嶽へ登山した折の事、案内人夫の弁当を見て驚いた。それは飯ばかりで菜がない、訊いてみると非常に美味いという、私が缶詰をやろうとしたら、彼は断ってどうしても受けなかった。それでいて十貫以上の荷物を背負い、十里位の山道を毎日登り下りするのであるから驚くべきである。之は古い話だが彼の江戸中期の有名な儒者荻生徂徠は、豆腐屋の二階に厄介になり、二年間豆腐殻ばかりを食って勉強したという事である。又私は曩に述べた如く、結核を治すべく三カ月間、絶対菜食で鰹節さえ使わず、薬も廃めて了ったが、それで完全に治ったのである。此様な訳で私は九十歳過ぎたら大いに若返り法を行わうと思っている。それはどうするのかというと、菜食を主とした出来る丈の粗食にする事である。粗食は何故いいかというと、栄養が乏しい為、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならない。それが為消化機能は活溌となり、若返りとなるからである、とすれば健康で長生きするのは当然である。又満洲の苦力(クーリー)の健康は世界一とされて、西洋の学者で研究している人もあると聞いている。処が苦力の食物と来たら大変だ、何しろ大型な高梁パンを一食に一個、一日三個というのであるから、栄養学から見たら何というであろう。之等の例によっても判るが、今日の栄養学で唱える色々混ぜるのをよいとするのは大いに間違ってをり、出来るだけ単食がいい訳である。何故なれば栄養生産機能の活動は、同一のものを持続すればする程其力が強化されるからで、恰度人間が一つ仕事をすれば、熟練するのと同様の理である。(後略)
(「栄養」結革 昭和26年8月15日)
「人間の食物・・・天与の作物以外不可」
(前略)人間の消化機能なるものは、人間の食物として自然に与へられたる物以外は、全部消化し終るといふ事は出来ないやうである。従而薬剤即ち洋薬も漢薬も天与の飲食物ではない。いはば、非飲食物であり、異物である。又薬と称し、蛇、蛞蝓(ナメクジ)、蚯蚓(ミミズ)等を呑み、其他生物の生血を飲む等はいづれも異物であるから、毒素は残存するのである。
又近来カルシュウムを補給するとなし、骨を食する事を推奨してゐるが、之等も誤りである事はいふ迄もない。凡ゆる魚は、身を食ふべきが自然で、骨や尾頭等は捨てるべきである。即ち人間の歯は骨の如きものは噛めないやうになってゐるにみても明かである。故に、骨其他は猫の食物として自然に定まってゐるのである。そうして骨の栄養として骨を食ひ、血液を殖やす為に血液を飲む等の単純なる学理は、一日も早くその誤謬に目覚めん事である。右に就て数種の実例を左にかいてみよう。
私は以前、某病院の看護婦長を永年勤めてゐた婦人から聞いた話であるが、四十余歳の男子、何等の原因もなしに突然死んだのである。その死因を疑問として解剖に附した処、その者の腸管内に黒色の小粒物が多量堆積してをり、それが死因といふ事が分ったのである。それは便秘の為、永年に渉り下剤として服んだその丸薬が堆積したのであって、それが為、腸閉塞か又は腸の蠕動(ゼンドウ)休止の為かと想像されるが兎に角、死因は下剤の丸薬である事は間違ないのである。
次に、右と同様な原因によって急死した五十歳位の男子があったが。只だ異ふのは、此者は下剤ではなく、胃散の如き消化薬の連続服用が原因であって、解剖の結果、胃の底部及び腸管内は、消化薬の堆積甚だしかったそうである。
次に、私の弟子が治療した胃病患者があった。それは、胃の下部に小さな数個の塊があって、幾分の不快が常にあった。然るに、本療法の施術を受けるや間もなく数回の嘔吐をしたのである。それと共に右の塊は消失し、不快感は去ったのである。
そうして嘔吐の際、ヌラの如きものが出て、それが蛞蝓の臭ひがするのである。その人は十数年以前蛞蝓を数匹呑んだ事があったそうで、全くその蛞蝓が消化せず残存してゐたものである。
又、前同様、歌ふ職業の婦人で、声をよくせんが為、蛞蝓を二匹呑んだそうである。然るに、数年を経て胃部の左方に癌の如き小塊が出来、漸次膨脹するので、入院し手術を受けたところ、驚くべし一匹の蛞蝓が死んで固結となってをり、一匹の方は生きてゐて、腹の中で育って非常に大きくなってゐたそうである。
右の如くであるにみて、人間の食物として定まれる以外の異物は消化し難く、何年も残存して病原となる事は疑ない事実である。
故に、曩に説いた如く、人間の食物はすべて味はいを含み、楽しく食ふ事によって全部消化し、健康を保つのである。然るにそれを知らずして、不味、臭味等を薬と思ひ、苦食し、それが病原となって、苦痛は固より生命までも失ふに至っては、その愚や及ぶべからずと言ふべきである。
(「異食物に就て」明医一 昭和18年10月5日)
(「異食物に就て」明医二 昭和17年9月28日)
「栄養の主はおかずではない、穀類が主」
(前略)今日の栄養学は、穀類の栄養を転んじてゐる。栄養といへば副食物に多く在るやうに思って種々の献立に苦心してゐるのであるが、之も謬ってゐる。実は、穀類の栄養が主であって、副食物は従である。寧ろ、副食物は、飯を甘く食ふ為の必要物である--と解しても可いのである。此例として、私は先年日本アルプスへ登山した際、案内人夫の弁当をみて驚いたのである。それは白い飯のみであって、全然菜は無いのである。梅干一個も無いのである。私は「飯ばかりで甘(ウ)まいか」と訊くと“非常にうまい”と言ふのである。それで彼等は十二三貫の荷物を背負って、頗る嶮路を毎日登り降りするのであるから驚くべきである。是等の事実をみて、栄養学者は何と説明するであらう。
右の如く、菜がなく飯ばかりで非常にうまいといふ事は一寸不思議に思ふであらうが、それは斯ういふ訳である。元来人間の機能なるものは、環境に順応するやうに出来てゐるから、粗食を持続すれば、舌の方が変化してそれが美味となるのである。此舌の変化といふ事は、あまり知られてゐないやうである。故に、反対に美食に慣れると、それが段々美味しくなくなるので、それ以上の美食を次々求めるといふ、贅沢な人の例をよく見るのである。(後略) 「栄養学」明医一
昭和18年10月5日)
(「栄養学」明医二 昭和17年9月28日)
(「栄養学」天 昭和22年2月5日)類似
「人体の生育に伴い適する食べ物を摂る」
(前略)人間が此土に生れるや、最初は人乳又は獣乳を飲む、これは歯が未だ生えず、消化器能も出来たての脆弱性であるからで、漸次、歯も生え揃い、体内器能も一人前になるに従って、それに適応すべき食物を摂る事になる。又食物も凡ゆる種類があり、それぞれ特有の味はいを含んでをり、人体の方にも味覚を与えられ、楽しんで食するようになってゐる。(後略)
(「健康の真理」自叢十 昭和25年4月20日)
「凡ゆる飲食物は人間の嗜好に適するよう造られている」
(前略)凡ゆる飲食物は人間の嗜好に適するよう造られている以上それを食えばいいので、それが自然である。よく何が栄養になるとかないとかいうやうな事などは勿論誤りである。食物は凡てその土地の気候風土によって幾分の差異はあるが、それがその土地に生れた人間に適すべく生産されてゐるのである。黄色人が米を食い、白色人が麦を食うのもそうであり、日本が島国であるという事は魚食を多くせよという事で大陸人は肉食である事もそれでいいのである。此理によって農民の菜食も自然に適ってゐる。二六時中休みなく労働に堪え得るという事は、菜食が適してゐるからである。その理を知らない栄養学は近来農民に魚肉を食はせようとするが、之を行えば農民の労働力は減少するのである。それに引換え漁民は魚食の為持続的労働は出来ない、間歇的に労働する。又魚食は敏感性を高めるので漁業に適するので自然は実によく出来てゐる。(後略)
(「人間は健康の器」自叢十 昭和25年4月20日)
「栄養とは人体機能が作るもの」
(前略)今一つの誤謬をかいてみるが、現代人は昔の人間に較べると、栄養不足処か栄養が多過ぎる位である。即ち栄養とは人体機能が作るものであるから、栄養過多だと機能が鈍って了う。此理を一層徹底すると斯うなる。即ち栄養食や栄養剤は謂わば完成したものであるから、機能活動の余地がない事になる。従って未完成な物程活動の必要が多いから、相互関係にある他の機能も活溌となり、健康は増すのである。という訳で人間の生活力とは機能の活動から生れるもので、空腹になれば弱るにみても明らかである。彼の美食家は弱く、粗食家は健康であるのもそれである。故に結核患者と雖も、寧ろ菜食を多くした方がいゝので、之に就て私の経験をかいてみよう。(後略) (「栄養」結信
昭和27年12月1日)
「栄養と消化機能の関係」
輓近(バンキン)、営養学は大いに進歩した如に見へ、又世人もそう信じて居るのであるが、実は進歩処か、飛んでもない方向へ脱線してゐる現状であって、国民保健上、寔に痛歎に堪へないのである。それは、営養と最も関係のある消化器能に関しての研究の結果が、甚だ謬ってゐる事が原因をなして居るのである。
現在の営養学に於ての認識によると、食物が一旦消化器能的活動力に遭ふも、其原質は飽迄其儘であって、絶対に変化しないものと決めてゐる事である。随而、営養学者は、滋養食を摂取すれば、血液や細胞を増し、又肉を食すれば肉が増成され、動物の生血を飲めば血液を増すと信じて、旺んに病者に奨めてゐるのである。試験管やモルモット、二十日鼠等の研究の結果を、直接人間に応用すればいいといふ、頗る単純なる解釈からなのである。然るに、実は此消化機能なるものが、素晴しい化学者であって、其化学者があらゆる食物を変質させるといふ事を知らないが為である。
之に就て、私の研究を述べてみよふ。それは本来、消化器能の活動力は、凡ゆる物を消化すると共に、其原質を自由自在に必要なだけの営養素に、変化さして了ふといふ事である。
其適例として、最も相似してゐるのは、彼の土壌である。即ち土の上に、一個の種子である微粒を播くとする。太陽熱の温波と月露、或は雨水と空気中の肥料等によって、いとも不思議な変化を起すのである。即ち、美しき緑の葉を生じ、次に蕾(ツボミ)を生じ、尚も進んで、嬋娟(センエン)たる花を咲かすのである。一個の見る影もない小さな芥子粒が、あの美しい花にまで変化するとは、誰か予想し得らるるであらふ。生命の神秘と其変化妙技こそ、洵に驚歎の極みであって、自然は実に一大化学者である。
それと同じ理であって、凡ゆる食物が、食道を通過して、胃と腸に入るとする。胃及び腸、其他の臓器の分掌的活動は、食物をして順次変化さしてゆく。其変化力の神秘さは、人智では到底測り得ない。巧妙極まるものなのである。そうして最後には血液、細胞、漿液等、生命に必要なだけの原素と化して了ふのである。赤色である血液も、白い米や青い菜の変化であらふ事は勿論である。そして変化の基礎的主体は、何と言っても胃腸である。
故に、是等消化器能の本質的活動は、物質を変化さして了ふ其変化力なのである。人間が言ふ所の営養食でも、非営養食でも、体内の化学者は、自由自在に生命を構成する原素にまで、そして必要な丈の量にまで変化さして了ふのであって、洵に素晴しい不可思議力である。
然るに、今日の営養学者は、此変化力が認識出来ないのである。それは、試験管の中や、モルモットの器能と、人間の器能と同じと思って居る事で、実は非常な相異がある事を知らない為である。第一、考えてもみるがいい。人間はモルモットではない、又人体の内臓は試験管の内部とは全く異ふのであって、人間は飽迄、特殊の高等霊物たる存在である。之を、別な方面で例えてみやふ。阿弗利加の土人に施した政治が、好結果であったからといって、高度の文化国人へ対って其儘の政治を行っても、決して成功する筈はない。そして文化人と土人との違ひさは、色の白いと黒いとの異ひさ丈で、人間としては同一である。であるさへ右の如くであるとすれば、モルモットで成功したからといって、人間の適合する筈はない。こんな判り切ってゐる事でさへ、今尚気が付かないのは不思議と思ふ程である。それ故に、十年一日の如く毎日モルモットの研究に没頭してゐても、恐らく解決は付かないであらふ。それ等の学者達を見れば、実に気の毒であるとさへ、吾々は思ふのである。
人間とモルモットを同一にしてる程に、単純な営養学は胃腸の変化力に気の付かないのも当然であらふ。
器能の変化力を知らない営養学者は、ヴィタミンが欠乏してゐればヴィタミンを嚥(ノ)ませれば可いと思ってゐる。ヴィタミンの欠乏は、或物質をヴィタミンに変化させる。其器能に故障があるのかも知れないのである。又、其或物質の不足かも知れないのである。それ故に、ヴィタミンの不足といふ事は、ヴィタミンを嚥まない為ではない。ヴィタミンに変化させる。或物質の不足からとも言へるのである。
爰で再び私は、土壌と花の例を引き度い。それはあの美麗な花も、似ても似付かない穢ならしい種を播けばこそ、それを土壌が変化させるのである。だから直接、花を土に埋めても花は咲かない。花は土壌の変化力に遇えば、反って枯凋んで、汚穢(キタナ)らしい芥となり、終には土に還元するまでである。之と同じ様に、ヴィタミンや血液とは、似ても似着かない営養の有りそうもない、穢い種の如な意味の食物を摂取すればこそ、胃腸の変化力は、立派なヴィタミンや、血液や肉とまで変化させるのである。故に其理を営養に当て嵌めてみれば、猶能く判るのである。即ち、花の如に完成したヴィタミンや、血液や滋養剤や、営養素を摂取すれば、それを胃腸の変化力は、花を土に埋めて、芥にする如くに、同じ意味の糞尿とするであらふ事は、洵に瞭らかな事である。
実に、土壌と胃腸は、すばらしい一大化学者である。(S11・2・20)
(「消化機能は一大化学者なり」医書 昭和11年4月13日)
「消化機能による栄養の変化」
栄養食ですが、之は、現在程度の学問では未だ判らないと思ふのであります。何となれば、飲食物は、人間の口から入って胃へ行き、それから腸或は肝臓、脾臓、腎臓など、各種の消化器能を経るに従って、最後は其成分が一大変化をしてしまふであらふ事です。如何なる食物と雖も、原質とは全く異ふ迄に変化するでせう。
青い菜葉や白い飯を食って、赤い血が出来、黄色い糞が出来るといふ事だけを考へても、その変化力は想像し得らるるのであります。故に、滋養物を食ったから滋養になると思ふのは、消化器能の変化力を算定しない訳であります。試験管内では、よし滋養物であっても、人間の体内は全然違ふべきで、血を飲んでそのまま血になるやうに思ってるが、それはまるで筒抜のやうなもので、消化器能がないやうな理屈であります。然るに実は-消化器能なるものは、一大魔術師であります。(中略)
消化器能の活動といふものは、大体食物が入ると必要なだけの栄養素と必要なだけの量に変化させるもので、厳密に言へば、食物の栄養素五分、消化器能の変化活力五分の割合でありますが、それは消化器能の方が主体なのであります。何となれば、消化器能さへ完全であれば、粗食と雖も栄養に変化させますが、如何に栄養を摂っても、消化器能が衰弱しておれば栄養不足になるのは誰も知る事実であります。之を観ても、栄養は従で、消化器能の方が主である事が明かであります。(後略)
(「栄養食に就て」療講 昭和11年7月)
「消化のいいもの程機能が弱る」
(前略)そうして人間に運動が健康上必要である事は
言ふ迄もないが、それは外部的に新陳代謝を旺盛にするのが主で、内部的には相当好影響はあるが、それは補助的である。どうしても消化機能自体の活動を強化する事こそ、健康増進の根本条件である。故に消化のいいもの程機能が弱るから、普通一般の食物が恰度いいのである。処が医学は消化の良いものを可とするが、之は如何に間違ってゐるかが分るであらう。(後略)
(「科学篇 栄養」文創 昭和27年)
「生きるのに必要なものは自然に作られる」
(前略)人体も血液が濁れば浄化が発るのは、自然の生理作用であるから、伝染病に罹らないようにするには血液を濁らせない事である。では浄血者になるにはどうすればいいかというと甚だ簡単である。即ち薬を用いなければいい。何となれば人間が生きるに必要なものは自然に作られる。五穀、野菜、魚鳥、獣肉、水等がそれであるから、それを飲食していれば、決して病気に罹る筈はないのである。何よりもそれ等悉くに味があるという事は、其物自体が食うべきものである事を教えている。それをどう間違えたものか、苦い薬を服んだり不味いものを栄養などといって食うのは、如何に自然に反するかが分るであろう。(後略) (「伝染病恐るるに足らず」栄164号
昭和27年7月9日)
「生活力は粗食から」
(前略)人間の生活力を旺盛ならしむるには、栄養機能の活動を促進させなければならないのである。それには栄養の少い物を食って、体内の栄養製産機能を働かせるやうにする事である。勿論運動の目的も其為である。故に実際上昔から農民は非常な粗食であるが、粗食をするから彼丈の労働力が湧出するのである。もし農民が美食をすれば労働力は減少するのである。又、満洲の苦力(クーリー)の生活力が強靭なのは有名な話であるが、彼等は非常な粗食であって、而も三食共同一な物を食ってゐるといふのに察ても私の説は肯定し得らるるであらう。然るに今日の栄養学に於ては、種類を多く摂る事を推奨するが之等も実際に当嵌らない事は言ふまでもないのである。(後略)
(「栄養学」明医二 昭和17年9月28日)