食と農
「食」について
10-2、食餌の方法
「食事法の間違い」
今日、食餌の方法として医学で説いてゐる事は、非常に間違ってゐるのである。
其誤りの第一は、食事の時間を決める事である。第二は、食餌の分量を決める事である。食物の種類により、消化時間が一定してゐない事は、営養学者も認めてゐる。三時間で消化する物もあれば、五時間以上を要する物もある。それ故に、若し、食事から食事までの間隔を一定すれば、腹が減り過ぎたり腹が減らな過ぎたりするといふ、実際に適合しない事になる。
故に、腹が減れば早く食ひ、腹が減らなければ延すこそ合理的である。それと同じ意味で、分量も定めないのが本当である。腹が減れば多く食ひ、腹が満ちれば少く食ふのが合理的であり、それが自然であるから、その様に調節すれば、胃腸は常に健全である事は言ふ迄もない。丁度寒いから綿入を着て、火鉢に当るので、暑くなれば浴衣を着、氷水を飲むのと同じ理である。寒暑に対する調節や、其他の総てに良く調節をしたがる人間が、独り食物のみを調節しないで一定すると言ふのは、如何にも不思議である。是等は全く医学其ものの誤謬が原因である事に気付くであらふ。然し、境遇上、例へば、時間的労務に服してゐる者は、時間の調節は不可能であるから、せめて食物の分量だけでも調節するより致方ないであらふ。然し乍ら境遇上、可能の人は是非そうしたいのである。(後略)
(「食餌の方法と原理」医書 昭和11年4月13日)
「食餌の方法」
食餌の方法などといふ事は、実に、可笑しな話であって、方法もクソもありはしない。腹が減った時に、箸と茶碗で食へばいいのであるが、今日、文化が進んだ為に、反って間違った点が多々あるのを以て、本当の食餌法を説くのである。
腹が減るから、飯を食ふといふ事は真実であるが、今は、そうではないのである。腹が減らないのに我慢して食ひ、美味い物を不味く食ふ人が多くなってゐるのである。又、食ひ度い物を食ふと言ふのなら、当然(アタリマエ)だが、食ひ度いものを我慢して喰はないで、喰ひ度くないものを我慢して喰ふといふ、不思議な文化人が多くなってゐるのである。
本当から言へば、三度の食事の時間を決める位、間違った事はないと共に、又、食餌の分量を決める位間違ってゐる事は、之もないのである。考へてもみるがいい、千差万別、凡ゆる食物が消化さるる時間は、決して一定してはゐない。それぞれみんな違ってゐる。三時間で消化する物もあれば、五時間以上でなくては消化しないものもある。それ故、食事から食事迄の間隔を一定すれば、腹が減り過ぎる事もあれば、腹が減らな過ぎる事があるのは当然(アタリマエ)である。腹が減り過ぎた時は結構であるが、腹が減らないのに、時間が来た以上食はなきゃならないといふ事は、初めに言った、食ひ度くないのに喰ふ訳なのである。それと同じく分量も腹が減れば余計食ふし、減らなければ少く食ふといふ事が、最も自然的であり、合理的ではないか。例へて言へば、寒いから綿入を着、火鉢にあたるのであって、暑くなれば、浴衣になり、氷水を飲むのである。その如く、人生何事も一定に決められるものではないので、決めるといふ事が不可なのである。
今日、医家が言ふ養生法に、食事の時間を定めて、食事の分量を定めよといふ事が、如何に間違ってをるかは判るであらふ。然し、そうは言ふものの、食事の時間丈は、不規則に出来得ない、勤人のやうな境遇者は止むを得ないから、せめて、食事の分量を伸縮するより致し方ないであらふ。然し、境遇上、出来得る人は、私の説く様にすれば、必ず胃が良くなり、健康が増進する事は保證するのである。
(「八、食餌の方法」医講 昭和10年)「理想的食餌法とは・・・その1」
次に、今の人は、食物に就て、非常に間違ってゐる点がある。それは、何が薬だとか、何が毒だとか言って、喰ひ度いと思ふ物を喰はないで、喰ひ度くもない不味い物を我慢して喰ふ傾向がある。それも、実際に合ってゐれば未だしもだが、飛んでもない間違った事を行ってゐる。本来、凡ゆる食物は、神が人間を造り、其人間を養ふ為に、種々の要素を必要とする。故に、その必要の要素が形を変え、味を変えて、食物になってゐるのであるから、何が薬だとか、何が毒だとか、人間が勝手に決められるべきものではないのである。詰り、其時喰べ度いと思ふ物が其時の必要なる物で、それが、其時其人に、薬になるのである。恰度、喉の乾いた時に、水が飲み度い様なもので、それは、其時水分が欠乏してゐるからである。
食べ度くないとか、不味いとかいふ物は、其食物が必要でないからで、そういふ物を我慢して喰へば、毒にこそなれ、決して薬にはならないのである。
であるから、最も理想的食餌法を言ふならば、喰べ度い時に、喰べ度い食物を、喰べ度い丈喰ふのがいいのであるから、少くとも、病人丈はそうしたいものである。 (「八、食餌の方法」医講 昭和10年)
「理想的食餌法とは・・・その2」
(前略)次に、今日の人間は食物に就て非常に誤った考を抱いてゐる。それは、何を食べると薬だとか、何を食べると毒だとか言って、食ひ度いと思ふ物も食はず、食ひ度くないものも我慢して食ふといふ謬りである。本来凡ゆる食物は、造化神が人間を養ふ為に、種々の物を造られたのであるから、如何なる食物にも人体に必要な養素が、それぞれ含まれてゐるのである。
そうして、其営養素は、科学や試験管で測定するよりも、もっと簡便な正確な方法がある。それは、何であるかと言ふと、人間自体が其時食べ度いと思ふその意欲である。何故、意欲が起るか。それは、其時其食物が肉体に必要だからである。故に、之程正確に測定される機械は無い訳である。恰度、喉の渇いた時に水を欲する様なもので、それは其時水分が欠乏してゐるからである。故に、食べ度くないとか、不味とか言ふのは、其食物が其時必要でないからで、それを我慢して食えば、反って毒にこそなれ、薬にはならないのである。満腹の時、如何に嗜好する物も、食ひ度くないといふのは、今は、食物一切、不要といふ訳である。故に、最も理想的食餌法を言ふならば、食べたい時、食べたい物を、食べ度い丈食ふのが一番良いので、少くとも、病人だけはそうしたいものである。(後略)
(「食餌の方法と原理」医書 昭和11年4月13日)
「食事の時間や分量を決めるのは間違い」
今日、胃病といふ病気になるのは、殆んど全部が薬の中毒といっていい位であります。消化不良とか胸焼、胃酸過多、アトニー、胃痛などいろいろありますが、原因は一つで、最初は食物がもたれたり、不消化であったり、胃が痛んだり、胸が焼けたりする。然らば、それ等の原因は何かといふと、之は全く食物の分量を決めたり、食事の時間を決める為であります。何となれば、分量や時間を決めた以上、前の食物が消化されない中に食ふ為に、前の分が醗酵し腐敗し、前述の如き胃の病的症状を起すのであります。
でありますから、腹が減れば食ひ、減らなければ食はない主義にすれば、絶対に胃病は起らないのであります。
私は此方法によって永年の胃腸病が治り、今日は頗る健全であります。 (「胃病」療講 昭和11年7月)
「食事の時間と分量」
(前略)次に「食事の時間」とか「食物の分量」を決めるのも間違
っております。何となれば、食物は各々その消化時間が異ってゐる。つまり三時間もかからなければ消化出来ないものもあれば、五時間も六時間もかからなければ消化出来ない物もあります。
又、食事の分量を決めるといふ事も間違っております。何故なれば、腹の減った時には余計食ひ、余り減らなければ少し食ふのが自然であり、それが衛生に叶ってゐるのであります。
食事の時間を決めるのは、ちょうど小便する時間を決めるやうなものであります。
「食べる分量」を決めるのは、一年中、浴衣ばかり着てゐるやうなもので、夏は浴衣を着、冬は綿入を着て調節をしなければならないのであります。
理想的に言へば人間は「食べたい時に食べたい物を食べたい分量だけ食ふ」といふのが一番衛生に叶ふのでありますから、せめて病人だけはそうしたいものであります。然し勤務などの関係で時間の調節が出来ない人は、先づ分量で調節するより仕方がないでありませう。腹八分目といひますが、之も間違ひで、食べたいだけ食べて差支へないのであります。
私は、美味しくなければ決して食べない主義ですから、食物の不味いといふ事は全然ない。
そして食べたい時腹一ぱい食べ、腹の減る時はウンと減らすので、ウンと減らせば胃腸の中はカラカラになりますから、瓦斯発生機ともいふべき醗酵物は聊かもない。そこへ食物が入るから消化力の旺盛は素晴しい。此様に、食物を美味しく食べて、胃腸が健全になるといふ-結構な方法を知らない人は、私の行ってゐる事をお奨めするのであります。
胃病の最初の原因は酸酵物停滞がその重なるものであります。(後略) (「栄養食に就て」療講 昭和11年7月)
「食事の取り方、方法について」
(前略)食事の方法の不適正とは、近来、医学が唱へる食物の量と、食事の時間を規則正しくせよといふ事で、之が非常な誤りである。
何となれば人間は機械ではないのと、食物なるものは不同
であるからである。それはどういふ訳かといふと、食事と食事との間の時間中、運動をする事もあれば、運動をしない事もある。それによって食物の消化に差異が生ずるのは当然である。又、食事に於ても、其種類によって、消化に遅速あり、一時間で消化する物もあれば、三時間以上費す物もある。故に、規則正しくするに於ては、食事の時、空腹である事もあれば、未だ空腹にならない事もある。空腹ならば食欲旺盛で消化は良好であるが、未だ食欲が起らないのに、時間であるからといって無理に食物を摂れば悪いに定まってゐる。それは、前の食物が停滞して居る上に、新しく食物を入れる場合、前の食物は腐敗醗酵してゐるから、その毒素の為に、新しい食物の消化は、妨げられるのである。而もそれが又消化しきれない内に、又時間が来たといって仕方なし食ふといふ具合で、漸次消化不良となるのである。故に正しい食事の方法とは、前の食物が充分消化し尽してから食事をとるのである。そうして、前の食物が消化したか否かは、食欲といふいとも正確な指針があるから間違ひないのである。故に空腹即ち食欲があれば食ひ、なければ食はないといふやうにするのが本当である。従而、正しい食事法とは食ひたい時に食ひたいものを、食ひたい量だけ食ふ-といふ、言はば自然である。そうして食ひたいと思ふ物は、其時何等かの必要上、身体が要求してゐる為であるから、それを食へばいいのである。又量も同一の意味で、必要なだけ即ち食ひたいだけ食ふべきである。
又、食ひたくない物を薬になるとか、栄養になるとかいって我慢して食ふのも間違であると共に、食ひたい物を我慢して食はないのも不可である。又食欲があるのに喰べ過ぎるといって中止するのも不可であり、満腹して食欲がないのに、無理に詰込むのも勿論不可である。要は飽迄自然でなければならないのである。
然し、右の方法が良いからといって、境遇上、何人も行ふ訳にはゆかないので、食事時間の一定してゐる人は、其場合、量によって加減すればよい訳である。そうして食物は、空腹でさへあれば、如何なる物も美味であり美味であれば、栄養満点である。故に、右の如き食事法を実行すれば、消化不良など絶対あり得べき筈がないのである。(後略)
(「二、胃疾患」明医二 昭和17年9月28日)
(前略)食事の方法の不適正とは、近来、医学が唱へる食物の量と、食事の時間を規則正しくせよといふ事で、之が非常な誤りである。何となれば人間は機械ではないのと、食物なるものは不同であるからである。それはどういふ訳かといふと、食事と食事との間の時間中、運動をする事もあれば、運動をしない事もある。それによって食物の消化に差異が生ずるのは当然である。又、食物に於ても、其種類によって、消化に遅速あり、一時間で消化する物もあれば、三時間以上費す物もある。故に、規則正しくするに於ては、食事の時、空腹である事もあれば、未だ空腹にならない事もある。空腹ならば食欲旺盛で消化は良好であるが、未だ食欲が起らないのに、時間であるからといって無理に食物を摂れば悪いに定まってゐる。それは、前の食物が停滞して居る上に、新しく食物を入れる場合、前の食物は腐敗醗酵してゐるから、その毒素の為に、新しい食物の消化は、妨げられるのである。而もそれが又消化しきれない内に、又時間が来たといって仕方なし食ふといふ具合で、漸次消化不良となるのである。故に正しい食事の方法とは、前の食物が充分消化し尽してから食事をとるのである。そうして、前の食物が消化したか否かは、食欲といふいとも正確な指針があるから間違ひないのである。故に空腹即ち食欲があれば食ひ、なければ食はないといふやうにするのが本当である。従而、正しい食事法とは食ひたい時に食ひたいものを、食ひたい量だけ食ふ-といふ、言はば自然である。そうして食ひたいと思ふ物は、其時何等かの必要上、身体が要求してゐる為であるから、それを食へばいいのである。又量も同一の意味で、必要なだけ即ち食ひたいだけ食ふべきである。又食ひたくない物を薬になるとか、栄養になるとかいって我慢して食ふのも間違であると共に、食ひたい物を我慢して食はないのも不可である。又食欲があるのに喰べ過ぎるといって中止するのも不可であり、満腹して食欲がないのに、無理に詰込むのも勿論不可である。要は飽迄自然でなければならないのである。
然し、右の方法が良いからといって、境遇上、何人も行ふ訳にはゆかないので、食事時間の一定してゐる人は、其場合、量によって加減すればよい訳である。そうして食物は、空腹でさへあれば、如何なる物も美味であり美味であれば、栄養満点である。故に、右の如き食事法を実行すれば、消化不良など絶対あり得べき筈がないのである。(後略)
(「二、胃疾患」明医二 昭和18年10月5日)(「二、胃疾患」明医二 昭和17年9月28日)
「出来るだけ種々の食物を摂るのがいい」
人間を構成してゐる、凡ゆる物質は、幾百種に上るか判らない。主なる物としては血液、細胞、筋骨、毛髪、水分、石灰質等、其一つ一つの中に、幾種類も成分が含まれてあるのである。又各種の臓器、夫等が皆一秒の間も停止する事無く活動しつつある。そのエネルギーは何に依るかと言ふと、孰れも、食物から抽出されたる、霊素と体素とである故に、凡ゆる食物の成分には、人間の生活力に必要なる成分を、含有されてゐないものはないのである。故に、理想から言へば、出来得る丈種々の食物を摂るのがいいのである。何が薬だとか、何がいけないとか、人間が理屈を付けるのが、間違ってゐるので、此点からも、食べ度いと思ふ物を、種々食べるのが、一番いいのである。 (「十四、真の営養学」医講 昭和10年)
「どこ迄も自然、食事も同様」
医学では、安静を最も重要とされているが、之は前に述べた如く、大変な間違いである。ではどうするのが一番いいかというと、何よりも自然である。自然とは自分の身体を拘束する事なく無理のないよう気儘にする事である。例えば熱があって大儀な時は、寝ろという命令を身体がすると思い、寝ればいいのである。又寝たくない起きたいと思うのは、起きるべしと命令されたと思い、起きればいいのである。歩きたければ歩き、駈出したければ駈出し、大きな声で唄いたければ唄うがいい。というように何でも心の命ずるままにするのが本当である。気が向かない、心に満たない事は止す事である。要するにどこ迄も自然である。之が結核に限らず、如何なる病に対しても同じ事がいえる。
食物も同様で、食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食う。之が最もいいのである。薬は勿論不可ないが、食物としても薬だからとか、滋養になるとかいって、欲しくないものを我慢して食ったり、欲しいものを我慢して食わなかったりするのも間違っている。人体に必要なものは食べたい意欲が起ると共に、食べたくないものは食べるなという訳である。そうして結核に特に悪いのは動物性蛋白である。少しは差支えないが、成可野菜を多く摂る方がよい。処が今日の医学は、栄養は魚鳥獣肉に多いとして奨めるが、之が大変な誤りで、必ず衰弱を増すのである。本来栄養とは植物性に多くある。考えてもみるがいい、動物性のもののみを食っていれば、敗血症などが起って必ず病気になり、生命に拘わる事さえもある。それに反し菜食はいくらしても健康にこそなれ、病気には決して罹らないばかりか、長寿者となるに見ても明かである。之に就て私の体験をかいてみるが、私は若い頃結核で死の宣告を受けた時、それ迄動物性食餌を多量に摂っていたのを、或動機で其非を覚り、菜食にしてみた処、それからメキメキ恢復に向ったので医学の間違っている事を知り、薬も廃めて了い、三カ月間絶対菜食を続けた処、それで病気はスッカリ治り、病気以前よりも健康体となったのである。其後他の病気はしたが結核のケの字もなく、六十八歳の今日に到るも矍鑠(カクシャク)として壮者を凌ぐものがある。もし其時それに気が付かなかったとしたら、無論彼世へ旅立っていたに違いないと、今でも思う度にゾッとするのである。
今一つは喀血の場合である。之こそ菜食が最もいい。以前斯ういう患者があった、肉食をすると其翌日必ず喀血するが、菜食をするとすぐ止まるという、実にハッキリしていた。之でみても菜食のよい事は間違いないのである。(後略)
(「自然を尊重せよ」結革 昭和26年8月15日)
「好きなものを食べるのが一番」
(前略)元来、食物なるものは神が人間を生存さす為に造られてあるものですから、その土地で採れた魚菜を食ふ事によって、自然に栄養に適してゐるのであります。
又、種々な種類の食物があるのは、種々な物が人体に必要だからであります。之は国家社会の機構と同じ事で、一の国家社会が形成される場合、政治家も経済家も富豪も貧民も、官吏も商人も職人も芸術家も、それぞれ必要があって、職人にも大工も左官も帽子屋も織物屋も下駄屋も悉く必要であるやうに、一切は必要によって生存し必要によって滅亡するのであります。ちょうど人体を構成してゐる成分も、又、凡有る食物もそれと同じであります。ヴィタミンABCだの、含水炭素所ではない。将来幾十幾百の栄養原素が発見されるか判らないが、最後は嗜好する種々の物を食へばそれで良いといふ、単純な結論に帰納する-と想ふのであります。然し、食欲を増進させる為-調理法の進歩は希って歇まないのであります。それですから、凡有る食物は皆必要があるからで、「其時食べたい物を食ふ」といふのが原則で、食べたいといふ意欲は、其時身体の栄養にそれが必要だからであります。「良薬口に苦し」などと謂ふのは大変な誤りで、美味しい物ほど薬になるのが本当であります。
それだのに何が薬だから食へとかいって、不味いのに我慢して食ふのは間違っております。 (「栄養食に就て」療講 昭和11年7月)
「味の薄いものを多く食べる」
(前略)どういふ物を余計食ひ、どういふ物を少く食ふのが良いかといふと、甘い辛いのない物を余計食ふのが原則であります。それで米や水の如きものを一番余計に食ふやうに自然になってゐるので、中位の味は中位に食ひ、酸い物、辛い物、甘い物等の極端な味の物は少く食ふのが本当であります。
病人などによく刺戟性の辛い物を禁じますが、吾々の解釈は異ってゐる。必要がある為に辛い物を神様が造られてあるのであります。香味、辛味は非常に食欲を増進させる効果があるので、病人と雖も少し宛食ふのが本当であります。
又何が薬だとか、何が滋養が多いなどいふのも間違ってゐるので、如何なる食物と雖も悉く人間に必要の為に造られてある。それを不味いのに我慢して食ふのも間違ってゐるし、食べたいのに食べないのも間違っております。
又、滋養剤などもあまり感心出来ないのです。何となれば、食物は精製する程滋養が薄くなる。それは霊気が発散するからであります。霊気を試験管で測定出来る迄に未だ科学が発達してゐないのであります。(後略) (「栄養食に就て」療講
昭和11年7月)
「時期に多く収れるものを食べる」
(前略)次に、食物に就ての概念を知ってをく必要がある。それ
は、魚でも、野菜でも、多く収れるものは、多く食ふべきもの
で、少なく採れるものは、少く食ふのがいいのである。
例へば、夏季、茄子は非常に多く生る。又枝豆は、夏季だけのものである。故に、茄子と枝豆を、夏季は出来るだけ多く食ふのが健康上いいのである。茄子を食ふと、痰が沢山出るといふのは、体内の汚物を、排除する作用があるからである。又、秋は、柿を出来る丈食ふべきである。柿は冷えるといふが、冷えるのではなく、洗滌をする力があるので、それが尿の多量排泄となるからである。此理に由って、特に秋の秋刀魚(サンマ)、松茸、冬の密柑、餅等などもよく、春の菜類、筍等もいいのである。(後略) (「食餌の方法と原理」医書
昭和11年4月13日)
「食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食う」
医学特に結核患者に対しては、安静を最も重要とされてゐるが、之は前にも述べた如く大変な間違ひである。ではどうするのが一番いいかといふと、何よりも自然である。自然とは自分の身体を拘束する事なく、無理のないやう気儘にする事である。例へば熱があって大儀な時は、寝ろといふ命令を身体がすると思ひ、寝ればいいのである。又寝たくない起きたいと思うのは、起きてゐてもいいと命令されたと思ひ、起きればいいのである。歩きたければ歩き、駈出したければ駈出し、大きな声で唄ひたければ唄ひ、仕事がしたければするといふやうに、何でも心の命ずるままにするのが本当である。気が向かない心に満たない事は止す事である。要するにどこ迄も自然である。
之が結核に限らず、如何なる病に対しても同じ事がいえる。
食物も同様で、食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食う。之が最もいいのである。薬は勿論不可ないが、食物としても薬だからとか、滋養になるとかいって、欲しくないものを我慢して食ったり、欲しいものを我慢して食はなかったりするのも間違ってゐる。人体に必要なものは食べたい意欲が起ると共に食べたくないものは食べるなといふ訳である。(後略)
(「科学篇 自然を尊重せよ」文創 昭和27年)
「美味しくして食べるのが一番」
「粗食が消化器を強くするという建前から、生野菜を食べるという事は如何なものでございましょうか」
生野菜より漬けた物の方がよいでしょう。私は生野菜はいやです。生胡瓜などを食べるのはキリギリスのようです。医学の方で生野菜の方がよいと言うのがありますが、それは間違ってます。それは煮るとか漬けた方が美味しく食べられます。
生野菜を好きならよいですが、美味しくもないのに、衛生によいというのは馬鹿気てます。美味しくして食べるのが一番よいです。 (御垂示録22号 昭和28年7月1日)
「栄養の根本は、好きなものを食うこと」
【問】食糧と健康について、明主様は御朝食後甘藷を、御就寝前にお茶漬かおしるこをお召上りの由承りましたが、之にはどの様な効果がありませうか、又病人が野菜を多食致します時どういふ野菜が一番よろしいでせうか。
【答】之は、栄養が多過ぎるのを調節する為である。今の人は栄養過量の為病気になる人の方がズツト多い。副食物の中、野菜は霊気が強く肉や魚は、体的栄養である。果物がいけないのは下痢してゐる時だけである。栄養の根本は、好きなものを食うのが一番よいのである。野菜は日本人には日本の野菜がよい。 (地上天国16号 妙智之光 昭和25年8月15日)
「偏食結構」
(前略)偏食をいけない様に思いますが、決してそんな事はないですよ。偏食は結構ですよ。医学の方でいけない様に言うんですが、本当言うと偏食が健康に良いんですよ。一番、偏食でいいのは鳥ですね。カナリヤなんか稗(ヒエ)許り食べている。
偏食と言うのは、体が要求するんですからね。要求するのは、必要だから要求するんです。結構だから、偏食は大いにやりなさい。人間は偏食するのが健康になるんです。(後略)
(御教え集7号 昭和27年2月15日)