第五章 霊的知識を深める

 

 1、霊界について

 

③ 霊線について

 

「霊線の重要性」

「霊線、という言葉は今日迄あまり使われないようである。というのは霊線というものゝ重要性を未だ知らなかった為で、空気より稀薄な目に見えざるものであったからである。処が人事百般、此霊線による影響こそは軽視すべからざるものがあり、人間にあっては幸不幸の原因ともなり、大にしては歴史にまで及ぶものである。故に人間は此霊線の意義を知らなくてはならないのである。(中略)
  茲に一個の人間がある。先づ読者自身と思ってもいい。その自分は、自分に繋ってゐる霊線なるものが、何本か、何百本か、何万本か、測り知れない程あるものである。霊線には太い細いがあり、長い短いがあり、正もあり邪もあって、それが絶えず或程度の影響、変化を人間に与えてゐる。故に人間は霊線によって生存を保ってゐるといっても過言ではない。その中で夫婦が繋っている霊線が最も太く、親子はそれに次ぎ、兄弟、伯父、甥、従兄弟、友人知己等順々に細くなってゐる。昔から縁(エニシ)の糸とか、縁(エニシ)が結ばれるとかいうのは、此事を言ったものであろう。そうして霊線は常に太くなったり細くなったり変化してをり、夫婦仲睦じい時は太く光があり、争う時は或程度細くもなり、光をも失うのである。親子兄弟其他も同様であるが、之以外霊線が新しく作られる事がある。それは新しく出来た知人友人、特に恋愛等の場合であって、恋愛が高潮に達するや無制限に太くなり、両方の霊線が激しく交流する。それが一種微妙な快感を与え合うと共に、一種の悲哀感、寂寥感をも反映し合ふのである。終には霊線は極度に強力化し、到底別離し能わざるに到るのは右の理に由るので、斯ういう場合第三者が如何に説得しても何等効果がないばかりか、反って熱度を増すようになるのは誰も知る通りである。相愛は恰度電気の陰陽が接触して電力を起すようなもので、其場合電線の役目をするのが霊線である。(中略)然し乍ら他人の霊線は打切る事が出来るが、血族は打切る事が出来ない。次に親子の霊線には注意すべき事がある。それは絶えず親は子を憶い、子は親を憶うので、双方反映し合っているから、子供の性質は霊線を通じて親の性質を受入れる事になるので、親が子を良くせんとする場合、先づ親自身の心を良くしなければならない。世間よく親が道に外れた事をし乍ら子に意見をしても、余り効果が無いのは其為である。然し斯ういう例もよくある。それはあんな立派な親であり乍ら、息子はどうしてあんなに不良であるのかといって不思議がるが、この親は功利的善人で、外面は善く見えるが魂は曇ってゐる為で、それが子に反映するからである。次に兄弟で一方が善人で一方が悪人の場合がある。之はどういう訳かというと、前生の関係と、親の罪の原因とがある。(中略)
  次に親の不正な心が兄弟の一方に反映して悪人となり、親の良心が反映して善人となる事もある。又斯ういう例もよくある。親が不正の富を積んで、資産家になった場合、祖霊はその不正の富を蕩尽しなければ一家の繁栄は覚束ないから、その手段として子の一人を道楽者にして、金銭を湯水の如く使わせ、終に無財産にまでするのである。斯の場合道楽息子に選ばれた者は、実は一家を救うべく立派な役をしている訳で、それを知らない人間は親の財産を潰した怪しからぬ奴と見做すが、寧ろ気の毒な訳である。
  霊線は人間に於ては生きてゐる親近者のみではない。死後霊界に於ける霊とも通じてをり、正神に連結してゐる霊線もあり、邪神に連結してゐるそれもある。正神は善を勧め、邪神は悪を勧める事は勿論で、人間は常に正邪何れかに操られてゐるのである。そうして霊界に於て或程度浄化されたるものが守護霊に選抜され、霊線を通じて人間の守護をする、即ち危難の薄(セマ)れる現界人に対し、危険信号を伝えて救おうとする。此例として汽車などに乗車せんとする場合、時間が間に合わなかったり、故障があったりして乗り損ね、次の汽車に乗る、すると乗り損ねた汽車が事故に遭い、多数の死傷者が出る等の事があるが、之等は守護霊の活動に因るのである。守護霊は現界人の運命を前知し、種々の方法を以て知らせようとする。
  霊線は人間の階級に従って数の多少がある。数の多い人、例えば一家の主人なれば家族、使用人、親戚、知人。会社の社長ならば社員全部、公人ならば村長、町長、区長、市長、知事、総理大臣、大統領--国王等、何れも其主管区域や、支配下に属する人民との霊線の繋りがあり、高位になる程多数となる訳である。此意味に於て、各首脳者たるべき者の人格が高潔でなければならない。主脳者の魂が濁ってゐれば、それが多数に反映し多数者の思想は悪化するといふ訳であるから、一国の総理大臣などは智慧證覚に富むと共に、至誠事に当るべき大人格者でなくてはならないのである。然るに国民の思想は悪化し、道義は頽れ、犯罪者続出するが如きは、為政者の責任となる訳である。特に教育者の如きは、自己の人格が霊線を通じて学徒に反映する事を知ったなら、常に自己の霊魂を磨き、師表として恥しからぬ人とならなければならないのである。
  特に宗教家であるが、一宗の教祖、管長、教師等に至っては、多数の信徒から生神様の如く讃仰される以上、その霊魂の反映力は著しいものであるから、大いに心すべきである。然るにその高き地位を利用して面白からぬ行動のあった場合、信徒全般に反映し、終には其宗教は崩壊の止むなきに立到るので、此様な例は人の知る処である。
  霊線は人間計りではない、神仏からも人間に通じさせ給うのである。但だ人間と異る処は神仏からの霊線は光であり、人間の霊線は上魂の人で薄光位であり、大抵は光のない灰白線の如きもので、悪人になる程黒色を帯びるのである。世間よく友人を選ぶ場合善人を望むが、夫は善に交われば善となり、悪に交れば悪になるという訳で、全く霊線の反映によるからである。後略)」                                      

(「霊線に就て」 昭和24年1月25日)

   

「幽魂は現魂に、神の命を伝達する」

「(前略)神の意図とは何ぞやといへば、此地上をして理想世界、言ひ換へれば地上天国を建設する事である、(中略)
  神の意図によって断えず人間に命令を下しつつある。それは如何なる手段によるかといふに、霊層界に於ては人間一人々々の種が存在する。此種を私は名づけて幽魂といふ。此幽魂に先づ命が下るのである。然るに幽魂は人間霊体の中府に在る現魂に向ひ霊線を通じて神の命を伝達するのである。然し乍ら一般人間が神の命を直感し得る事は至難であって、或程度浄化されたる霊体の保有者にして可能である。それは大多数の人間は多量の曇りに遮られ、感知出来ないばかりか、其曇りを利用する邪神によっても妨害されるからである。(後略)」  

 

(「霊層界」 昭和22年2月5日)
 

 

「一挙一動は全世界に響くので、軽率な行動は出来ない」

「(前略)正神は此世界に善を行はんとするに対し、邪神は悪を行はんとし、常に相対峙してゐるのである。丁度人間の中心に於て本守護神と副守護神と闘争してゐるやうなものである。故に正神界からは霊線によって人間の本守護神に正気を送流しつつあるに対し、邪神界に於ても人間の副守護神に対し、霊線によって悪気を送流してゐるのである。此理によって一人の人間と雖も、世界的に繋がりがあり、その一挙一動は全世界に響くものである以上、軽率な行動は出来ないのである。(後略)」         

                                                                           

 (「兇党界」 昭和18年10月23日)

  

「入信し神に向い祈れば、神と霊線が繋がる」

「(前略)先ず何よりも信仰に入り、神に向い拝み祈れば、神と人間とが霊線によって繋がれる以上、霊線を通じて神の光は魂に注入され、魂の光が増すに従って副守は萎縮し、人間を自由にする力が弱るのである。(後略)」   

 

 (「犯罪をなくすには」 昭和26年7月25日)

  

「御祈願するのは、霊線を通じてお蔭を頂く事」

「(前略)遠方の人で病苦に悩んでいる場合、よく電報などで御守護を頼んでくるが、それだけでお蔭を貰う人も沢山ある。それは私の耳に入るや、一瞬にして光の一部が分裂して其人に繋がる。之によって霊線を通じてお蔭を頂くのである。(後略)」

                            

(「私の光」 昭和27年5月25日)

  

「霊線によって浄める事が一番」

「入信して徳を積む。すると家族も霊線によって浄まる。○○子も霊線によって浄めてゆく。そうすると入信したくなる。或程度浄めなければ信仰心は起らぬ。それには此方が浄まる事で、そして霊線によって浄める事が一番効果がある。霊線を伝わって曇りがとれる。一人判った人が出来ればいい。」                    

(「私の光」 昭和24年11月7日)

「(前略)一家の者は皆霊線で繋つているので、祖母さんがお守を戴かなくとも或程度の御霊徳はある、此理によつて一家の中一人が浄まると霊線を通じて順次他の者も浄まるのである。(後略)」       

 (光4号 昭和24年4月8日)

「(前略)一家の中で一人が浄霊を受けると、霊線を通じてその関係者も浄まってゆくものである。」                                  

 

(年代不詳)

「(前略)これはみんなよく知っているでしょうが、そういうようなわけで、運が良くなるという事は、どうしても霊的地位が上に行くという事なのです。だからして“どうも思うようにゆかない、困る事が多い”という事は、結局自分の霊界の地位が低いからです。例えてみれば“自分は信仰に入って有難い、よく分るが、どうも親父の奴は分らない”又“娘も伜もこれに反対してしようがない、どうしたらよいだろう”というように考えている人は随分あります。それは自分の霊層界の地位が低いからです。若し自分が高ければ、自分の家族の者は霊線が繋がってますから、自分の霊が高上すれば、その繋がっている枝でも幹でも、自分の地位の方に引張り上げられるわけです。私が何時も言う“分らなかったらウッチャラかしておけ、急(アセ)って早く信仰に入れようという考えはいけない”という事はそういう事です。ですからそういう事は全然考えないで神様に御任せして、自分だけが一人でも多くの人を助けて、神様の御役に立つというようにすれば、自分の霊が上って行きますから、そうすると他の者も自然につり上げられるから、黙っていても分るというわけです。結局において、根本の根本というものは自分の魂の居所にあるのです。ただし魂だけが上に行っても、自分の霊や或いは肉体が伴なわないという事は、そこにまだ汚れがあるからで、それの浄化が起こるわけです。しかしそういう場合には浄化が早く済むわけです。そういう事が分ると、別に迷う事や苦しむ事はないわけです。しかしそこまで覚れるという事がなかなか大変なのです。この覚りは本当の真理です。今までいろいろな宗教などで説いた事よりずっと上ですから、その点などがよく分ると、いろいろな、宗教、思想、哲学というものまで分ります。」 

 

                (御教え集30号  昭和29年1月27日)