第五章 霊的知識を深める
1、霊界について
② 守護神(本守護神、正守護神、副守護神)
「本守護神、正守護神、副守護神について」
「如何なる人間と雖も正守護神、又は守護霊なるものが霊界に在って附随し、常に守護してゐる事である。そうして人は神の子であり、神の宮であるといはれるが、既説の如くそれは神から受命された即ち神の分霊を有してゐるからで、之が本守護神であり、後天的に憑依せる動物霊が副守護神であるが、動物霊とは狐、狸、犬、猫、馬、牛、猿、鼬(イタチ)等の獣類、若しくは種々の龍神、天狗、凡ゆる鳥類等が重なるものである。大抵は一人一種であるが、稀には二三種以上の事もある。
斯ういふ事に就ては現代人は到底信じ難く嘲笑する位であらうが、私が幾多の経験によって動かすべからざる実体を把握し得たのであるから、否定は不可能である。
そうして曩に説いた如く、本守護神は善性であり、良心であり、副守護神はその反対で悪であり、邪念である。仏教に於ては良心を菩醍心又は仏心といひ、邪念を煩悩といふ。そうして本副両守護神の外初めに書いた如き正守護神がある。之は祖先の霊であって人が生れるや、それを守護すべく祖霊中の誰かが選抜されるのである。此場合普通は人霊であるが、同化霊である龍神、狐、天狗等もある。私と雖も副守護神は烏天狗で、正守護神は龍神である。
よく人間が危険に遭遇した場合、奇蹟的に助かったり、又暗示を与へられたり、夢知らせや虫が知らせる等の事があるが、皆正守護神の活動によるのである。又芸術家が創作の場合や発明家が熱中する時一種のインスピレーションを受けるが、之等も勿論正守護神の暗示である。其他人間の正しい希望が実現したり、信仰によって御利益を得る場合、神が正守護神を通じて行はれるのである。昔から至誠天に通ずるとか、真心が神に通ずるとかいふのは、神が正守護神を通じて其人に恩恵を垂れるのである。」
(「守護神」昭和22年2月5日)
「副守護神の働き」
「(前略)精神的な癖って言ひますがね、之は副守護神がやるんですよ。副守護神ってのはイタヅラ好きでね、からかふ事なんかとても好きなんですよ。たとへばね、このお茶を飲むとしますね、飲んでから「それには毒が入ってるんだ」って言はれてごらんなさい。きっとおなかゞ痛くなりますよ。(笑声)よく「神経だ」って言ひますがね、それが副守護神の働きなんですよ。おなかを痛くする事なんて訳ないんです。それに人間が信じてると、とてもやりいゝんですよ。信じてると直ぐに痛くする事も出来るんです。……」
(御光話録19号 昭和25年4月28日)
「副守護神を制禦、制限する事」
「(前略)正神の方に八百万の神ある如く、邪神の方にも八百万ある。そうして正神は善を行はんとするに対し、邪神は悪を行はんとし常に相対峙してゐる。丁度人間が心中に於て良心と邪念が対抗し闘争してゐるやうなものである。元来人間には先天的神から与へられたる霊魂-之を本守護神といひ、後天的憑依せる霊魂-之を副守護神といふ。そうして本守護神には常に正神界から霊線を通じて良心が伝流され、又副守護神には邪神界から霊線によって、邪念を伝流して来る。(中略)本守護神は良心的本質によって善を行ふに反し、副守護神は悪に属するもの、即ち体欲の本質を発揮するからである。体欲とは所有欲、優越欲、独占欲、名誉欲、贅沢欲等々の物欲である。彼のニィチェは之を本能欲といった。従而此本能欲が或限界を越ゆる時罪悪を構成する。故に此制禦こそ人間社会の秩序と安寧(アンネイ)を保ち得る条件である。此理によって本能欲が人間の活動を発生させ、良心がそれを制限する事によって人間の幸福と栄えがある、社会の進歩があるのである。(後略)」
(「兇党界」 昭和22年2月5日)
「副霊の制御には光」
「(前略)人間誰しも副守護神、即ち動物霊は生れながらに憑いている事は、私が教えている通りであるが、之も人間の生存上止む事を得ないので、それは体欲が必要だから神は許されているのである。処が悪人となると新しく動物霊が憑る場合と、元から居る右の副守護神が動物の本性を表わす場合との両方がある。ではどうして其様になるかというと、つまり其人の霊に曇りが生じ、其曇りが濃厚になるに従ってそれ相応の動物霊が憑く事になり、憑くと前述の如く、人間の本霊の方が負けて了うから、彼の思い通りになって了い、活躍するのであるから、悪人とは即ち霊の曇りが原因であって、其霊の曇り通りに血液も濁るから、何れの日か猛烈な浄化作用が必ず起るのである。其場合曇りの程度の苦痛が生れる。それが不時の災難や、病気其他の不幸の原因となるのである。(中略)
斯うみてくると、悪人になる原因は吾々から見ると霊の曇りで、立派な病人なのである。勿論大悪人程、浄化も猛烈であり、大苦痛が起り、大病人となるのは言う迄もない。処が霊に曇りが生ずるという事は、本守護神に力、即ち光が足りないからで、それを免れるには宗教によらなくてはならないという訳になる。従って信仰に入り、常に神に向っていれば、霊線を通じて神の光が魂に注入され、光が増えるから曇りが減るので、その為動物霊は苦しみ、居候の方は早速逃げ出すが、元からいる副守護神は縮んで了い、悪は出来なくなるのである。
此理によってみても、神に手を合わさない人は、何時如何なる時、何かの動機に触れて悪人になるかも分らない危険があるのだから、無信仰者は危険人物といってもいいので、現代社会は此危険人物が多いかは、右によっても分るであろう。全く社会悪が一向減らないのも右の理に因るのである。従って現在如何に善人であっても無信仰者である限り、真の善人ではなく、言わば悪人の素質を有っている善人に過ぎないので、無信仰者には絶対気は赦せないのである。昔から人を見たら泥棒と思えというのは、無信仰者を指したものであろう。(後略)」
(「悪人は病人なり」昭和26年11月21日)
「神様に反対するのは、みんな副守護神」
「(前略)神様の根本の目的は、神仙郷の霊界――之が特別に霊界が光つている訳です。そこで普通の人が美術館を観に来るとすると浄められるのです。浄められるという事は、神様に反対する色んな霊や何かはみんな副守護神ですから、その先生の力が強いから其人が神様を信じない様に思わせるのです。その副守護神の先生を弱らせるのです。それが一番なのです。弱らせるには、光の中に入ると弱りますから、そこで信仰の話を聞かせたら解る訳です。ですから信仰に反対する人をよくみると、解らないわけではない――解つていて解らない。腹の底は解つている。で、どうも好かない、面白くない――というよりか、何んとなくそういう気分がするのです。理窟は解つているのです。確かに御蔭や何かを見せられるのですから信じなければならない。信じていても入る気がしないというのは、副守護神が邪魔しているのです。それを弱らせなければならない。それには聖地の土を踏ませるのです。そうすると副守護神の先生が弱りますから、神様の方に入るという事になる。処で副守護神の先生がのさばつているのは偉い人達に多いのです。処が偉い人達が解るという事が一番肝腎なのです。ですから偉い人達がどうしても来なければならない様な方法をとる。という事が美術館になる訳です。(後略)」
(御教え集12号 昭和27年7月5日)
「本守護神は神様との取次者---信仰に入ると正守護神は力が出る」
「(正守護神は体の外に何時も居られて、中に入る場合もあるのでしようか)
そうです。外で働く場合もある。何かに衝突するでしよう。ああ言う時は、パツと止めるんです。場合によつては体をこつち(衝突しない別の処)へやる。何時か、堀内さんはそんな事ありましたね。あれは正守護神がやるんです。信仰に入つて居ると正守護神は力が出るんです。信仰に入つていない正守護神は力が出ないんです。
正守護神が色々指図する。そうすると副守護神が邪魔するんです。併し信仰に入ると、正守護神が副守護神を負かして了うから、ちやんとなる。
(本守護神は――)
本守護神は神様との取次者です。始終取次いでいるんです。本守護神が正守護神に伝えるんです。神様と人間との取次をするんです。処が、正守護神に力が出ないから、そこで副守護神の方に負けちやうんです。
それで副守護神は善悪無差別に、善もなく悪もないからね。何となれば、悪の方が主体だからね。あとは野となれ山となれ――でやるから、犯罪を犯す。馬鹿々々しい嘘を吐いたり、失敗するのが分つている様な事をしたりね。失敗すると副守護神は喜こぶ。どうだい、見やがれ、とね。副守護神にそれだけの力があると言う事は、その人に曇りがあるからです。曇りが副守護神の力になる。罪を犯したりすると、それだけは曇りになる。副守護神がそれだけの苦しみを与える事になり、苦しむとそれだけは曇りが取れる。取れるときれいになるから、副守護神が働けなくなる。副守護神は曇りを取ると言う役目ですね。(中略)
(三つの守護神は体の何処に居りますので御座いますか)
本守護神は魂にです。腹の真中――中腑ですね。丁度体の真中です。正守護神は体に入つたり出たりしている。定めては働きが出来ない。副守護神は方々廻つてますが、大体は下腹に居て、始終上つたり下がつたりしている。頭に来ると精神病ですね。
(よく、ここ(前頭部)を浄霊せよと言う御言葉がありますが――)
副守護神も、ここ(前頭部)をやられると困る。ここで考えるから、ここは成だけ清めなければならないからね。
(本守護神を浄めると言う訳では――)
そうではない。本守護神は浄いものだからね。それを囲んでいるのがいけない。」
(御垂示録2号 昭和26年9月8日)
「救いの力を与えられた正守護神が救う」
「(前略)正守護神は無信仰の人にも、どんな人にも附添っているものであるが、普通は力が弱い為思うように救えない。危機に際し敏速な活動や邪霊の迫害等に負けるからである。処が本教信者となるや、正守護神も神様の光に浴す事となるから強化され、咄嗟の場合自由無碍の働きが出来るのである。この理によって神様が直接救うのではない。救いの力を与えられた正守護神が救うのである。」
(「正守護神の活動」昭和28年7月22日)
「(前略)それから極く危急の場合には、正守護神が神様にお願いする訳です。そこで神様が力を貸して下さるんです。危急の場合なんですが、それが奇蹟と言うんです。奇蹟は正守護神がつくるんですね。大きい奇蹟は神様から力を借りるんです。(後略)」
(御教え集2号 昭和26年9月5日)
「その人が良い事をするのは正守護神が蔭で手伝う」
「それで“いろんな不思議な事があって命が助かる”という事は、正守護神がやるのです。正守護神でも、信仰と霊的因縁によって力の強いのと弱いのがあります。それから又正守護神は一人々々人間を護っているが、その人間が徳を施し良いことを沢山すると、その恵みが正守護神にも授けられます。その人が良い事をするのは正守護神が蔭で手伝うからですから、正守護神もそれだけ御神徳を受けるわけです。そうすると力を増すから、力が増すと、思う様に助ける事ができるのです。ですから奇蹟も沢山現われるという事になります。だからこれは正守護神がやるのです。ところが中には、正守護神で神格を得ているのがあります。神格というのは、神様の位を貰った正守護神なのです。そういうのはすばらしい力があります。それから又その人の系統によって、祖先が古くから産土神様に祀られている人は、その産土神様の力を分けてくれますから、そこでその人の働きも大きくなれば、又奇蹟も大きくなります。だからその関係が分れば、奇蹟というのは不思議ではありません。ただ目に見えないから奇蹟だと思うのです。きわどいところで、死ぬと思ったものが助かるという事がありますが、それは正守護神がやっているのですから、別に不思議はありません。」
(御教え集19号 昭和28年2月15日)
「副守護神に負けないために信仰が必要」
「(前略) 人間と四ツ足とは一緒ぢゃないですよ。却って反対ですね。獣は副守護神で、人間は神様の方ですから逆になる訳です。こういふ事をするのは動物霊で、狐や狸や猫ですが、そういった動物霊に負けるんですよ。つまり本守護神が副守護神に負けるんです。副守護神が勝てば屹度罪を作りますからね。罪悪ですからこんな事は絶対にやっちゃいけないんです。本守護神が副守護神に負けるのは、本守護神が弱いからなんです。ぢゃ、何故弱いのかって言へば、その人に罪が多くて曇ってるからですよ。曇りが多いとどうしても副守護神が強く働くんです。前の世の罪もあるし、祖先の罪もあるしね。その上にこんな事をすると余計に曇ってしまふんです。こんなのは一遍に破綻が来ますからね。こわいもんですよ、実際。
宗教の必要はこれなんですよ。宗教ってものは信仰によって光を頂いて罪を消すんですからね。だから、こんな風な事の反対をすることが必要なんですよ。それが信仰なんです。(後略)」
(御光話録12号 昭和24年6月3日)
「気が進まない事は正守護神が止めている事がある」
「 (人間の正守護神は霊界に於て守護するので御座居ませうか、それとも人間に憑依するのでございませうか。後者の場合は霊界は留守になるのでございませうか。)
正守護神は人間につかず傍に居るのが普通で、一時離れる時は代理を置くのである。人間に憑依する事もあるにはあるが、そう云う場合は大概部下の動物霊を憑けるのが普通で、一般的に狐霊が多い。狐霊は正守護神の命令で憑って口を利く時に、命令通りの事でなく自分の個性を出して勝手な事をしゃべる事があるから注意せねばならぬ。又、夢知らせは正守護神がするのだが、正守護神によりてその夢の上手、下手がある。又、或る事を為すに気が進まぬのは正守護神が止めている事があるから、気の進まぬ時は中止するなり考へ直す方がよい。
信仰に入る時に正守護神が盛んに働いている。即ち、祖霊が子孫を入信さすべく正守護神に頼み、また命令すると、正守護神はその人が入信せねばならぬ様な事情をつくるのである。」
(実生会ニュース 昭和24年3月1日)
「人を救ふだけの力が出来ると祖霊が働き効果があがる」
「(前略)その人に大勢の人を救ふだけの資格がないと、いくら焦っても神様は仕事を与えられぬ。その人相当の力が出て来ると、祖霊が神様の御許しを得、又は御命を受けて働く。そこで効果があるのである。結局は自分である。自分の力をつける事である。
開けぬ時は御本をよく読み、霊を向上さす事である。決して相手が悪いのでない。(後略)」
(昭和24年6月27日)