第五章 霊的知識を深める

 

 1、霊界について

 

① 霊界(神界、幽界)の構成

 

「霊界の構成」

 

「(前略)霊界は天国、八衢、地獄の九段階になってをり、その段階の差別は何によるかといふと光と熱である。即ち最上段階は光と熱が最も強く、最低段階の地獄は、暗黒と無熱の世界であり、八衢はその中間で現界に相当する。現界に於ても幸福者と不幸者があるのは、天国と地獄に相応するのである。

最高天国即ち第一天国に於ては光と熱が強烈で、そこに住する天人は殆んど裸体同様である。仏像にある如来や菩薩が半裸体であるにみて想像し得らるるであらう。第二天国、第三天国と降るに従って、漸次光と熱が薄れるが、仮に地獄の霊を天国へ上げると雖も光明に眩惑され、熱の苦痛に堪へ得られずして元の地獄に戻るのである。恰度現界に於て、下賎の者を高位に昇らすと雖も反って苦痛であるのと同様である。

天国に於ける一段階に一主宰神あり、第一天国は太陽神である天照大御神であり、第二天国は月神である月読尊及神素盞嗚尊であり、第三天国は稚姫君尊(ワカヒメギミノミコト)である。又仏界は神界より一段低位で最高が第二天国に相応し、第一天国はない。第二天国は光明如来(観世音菩薩)第三天国は阿彌陀如来及び釈迦牟尼仏である。

そうして霊界に於てもそれぞれの団体がある。神道十三派、仏教五十六派等であり又何れもその分派が数多くあって、各々の団体には、主宰神、主宰仏及宗祖教祖がある。例へば大社教は大国主尊、御嶽教は国常立尊、天理教は十柱の神等であり、仏界に於ても真宗は阿彌陀如来、禅宗は達磨大師、天台は観世音菩薩等々で、又各宗の祖である弘法、親鸞、日蓮、伝教、法然等は各団体の指導者格である。此意味に於て生前何等かの信仰者は、死後霊界に入るや所属の団体に加盟するを以て、無信仰者よりも幾層倍幸福であるかしれない。それに引換へ無信仰者は、所属すべき団体がないから、現界に於ける浮浪人の如く大いに困惑するのである。昔から中有に迷ふといふ言葉があるが、之等の霊が中有界で迷ふといふ意味である。(後略)」                  

 

(「霊界の構成」昭和22年2月5日)

 

 

「3つの天国の役割」

 

「天国は曩に述べた如く上位の三段階になっており、第一天国、第二天国、第三天国がそれである。第一天国は最高の神々が在しまし、世界経綸の為絶えず経綸され給ふのである。第二天国は第一天国に於る神々の補佐として、それぞれの役目を分担され給ひ、第三天国に至っては多数の神々が与へられたる任務を遂行すべく活動を続けつつあるが、勿論全世界凡ゆる方面に渉っての活動であるからその行動は千差万別である。第三天国の神々は中有界から向上し神格を得たのであるから人間に最も近似しており、ヱンゼル(天使)ともいはるゝのである。(後略)」               

 

 (「天国と地獄」昭和24年8月25日)

  

「経にゆけば神界---仏界---現界」

 

「(神幽顕、幽玄界・想念界・言霊界、天国・八衢・地獄、此三段三段は何か関係が御座いますでせうか。)

 

経にゆけば神(界)、仏(界)、現(界)となり、仏界は幽界になり、地獄といふ事になる。一番上は幽玄界である。

中有界は極楽・地獄の間といふ事で、八衢には幽庁や冥官があるから幽冥界といふ。一番上が幽玄界である。仏教では六道の辻といって、極楽への道が三つ、地獄への道が三つある。神道では八衢といふ。

神道では天国は仏教の三段より一段上まであり、地獄は根底の国といって、又一つ余計にあるので、四つずつで八つになる訳である。

幽玄界、想念界、言霊界は緯になる。(後略)」 

 

             (昭和23年)

 

「檜のお宮は第一天国に相当する」

 

「(前略)天国は上に行く程奇麗になり立派になって行く。

第三天国の建物は色々の材料を混ぜて使っている。第二天国の建物は石造りになっている。第一天国は皆木で造られている。檜のお宮は第一天国に相当するのである。天理教等は第二天国である。最奥天国は金銀又は宝石を使用して至極壮麗なもので、大体黄金を主にしているのである。(後略)」 

                               

(「善悪の真諦と光明世界の建設」昭和10年8月25日)

 

 

人間として最高位は第三天国の上段」

 

(私の主人は戦死致しましたが、昨年秋或人が私宅へ来た時その人に亡夫が見え、「私は今妻が励んでる信仰のおかげで人間として最高の地位にのぼる事が出来た」と申したそうですが、この最高の地位とは何でせうか。)

 

これは天国ですよ。天国でも一段、二段、三段に大別出来るんですが、この最高の地位は第三天国で、第三天国も三段に分れてゐるんで、その一番上に行ったんでせうね。

第二天国っていふのは神格のある人が行く所で、人間でも霊的因縁が高級の人でなければ行けないんです。第一天国は普通の人間は絶対に行けませんね。」

 

      (御光話録17号 昭和24年)

 

  

「仏界は第二天国に相応」

 

「(前略)霊界の天国に於ける構成とその集団的生活とである。それは大別して神界及び仏界であって、神界は天国であり、仏界は極楽浄土である。そうして仏界より神界の方が一段上位であるから、第一天国は神界のみで、仏界のそれは第二天国である。そうして第一天国の主宰神は日の大神天照皇大御神であり、第二天国の主宰神は月の大神素盞嗚尊であり、仏界のそれは観世音菩薩即ち光明如来である。(中略)

又、天国は三段階になってゐるが、その一段が亦上・中・下三段に分かれてゐる。故に第二天国でいへば、上位に観世音、中位が阿彌陀如来、下位が釈迦如来が主宰座(マシマ)すのである。其他の諸善天人等何れもそれぞれの階級に応じて住し給ふのは勿論である。又弘法大師は、第三天国の上位であらう。(後略)」

 

                          (「霊界の構成」昭和18年10月23日)

 

  

「第二天国の最高位に紫微宮がある」

 

「(前略)極楽浄土は仏語であって仏界の中に形成されて居るが、極楽に於る最高は神界に於ける第二天国に相応し、仏説による都卒天がそれである。其所に紫微宮があり、七堂伽藍があり、多宝塔が聳え立ち、百花爛漫として咲き乱れ、馥郁たる香気漂ひ、迦陵頻伽(カリョウビンガ)は空に舞ひ、その中に大きな池があって二六時中蓮の葉が泛んでおり、緑毛の亀は遊嬉し、その大きさは人間が二人乗れる位で、それに乗った霊の意欲のまゝ、自動的に何処へでも行けるのであって、何ともいえぬたのしさだといふ事である。又大伽藍があってその中に多数の仏教信者が居り、勿論皆剃髪で常に詩歌、管絃、舞踊、絵画、彫刻、書道、碁、将棋、等現界に於けると同様の娯楽に耽ってをり、時折説教があって之が何よりのたのしみといふ事である。

その説教者は各宗の開祖、例えば法然、親鸞、蓮如、伝教、空海、道元、達磨、日蓮等である。そうして右高僧等は時々紫微宮に上り、釈尊に面会され深遠なる教法を受け種々の指示を与えらるゝのである。紫微宮のある所は光明眩く、極楽浄土に救はれた霊と雖も仰ぎ見るに堪えないそうである。(後略)」              

                                           

(「天国と地獄」昭和24年8月25日)

 

  

「紫微宮とは最高の御宮」

 

「紫微は仏語であって、一番いい、最高の場所の事。

仏界の一番立派な都を都率天といい、七堂伽藍や多宝仏塔など、立派な建物が沢山建っている。そこの最高の御宮を紫微宮といい、観音様など一流の仏がおられる。

観音様の事を紫微の主といふ。七堂伽藍、之は都率天にある伽藍で、奈良の法隆寺などは此七堂伽藍を写したものである。又祇園精舎ともいふが、祇園精舎は印度にある。多宝仏塔、特別の形式の建築、日本にもある。都率天は第一天国の仏語になる。第一天国は神様の方では未だ出来ていなかったんで、本当はこれから出来るのである。

仏界でも、本当には都率天は出来ていなかった。紫微の主は主神であり、五六七大御神はやはり紫微の主である。」 

(年代不詳)

 

「紫微宮という天国にお宮があるのでその名がある。美しい都会があり、宮のある所を都率天という。実相世界は、これから出来る。真如がすんでから実相となる。仏の実相真如は逆である。実相とは法の華の実で、今、その実を備えつつある。」          

                                                         (年代不詳)

 

  

「浄土は第二天国の中段」

 

「(前略)極楽の下に浄土があって、そこは阿彌陀如来が主宰されてゐるが、常に釈迦如来と親しく交流し、仏界の経綸に就て語り合ふのである。又観世音菩薩は紫微宮に大光明如来となって主座を占められ、地上天国建設の為釈迦阿彌陀の両如来補佐の下に、現在非常な活動をされ給ひつつあるのである。然し乍ら救世の必要上最近迄菩薩に降り、阿彌陀如来に首座を譲り給ふたのである。

そうして近き将来仏界の消滅と共に新しく形成さるゝ神界準備の為、各如来、菩薩、諸天、尊者、大士、上人、龍神、白狐、天狗等々漸次神格に上らせ給ひつゝ活動を続け、頗る多忙を極められつゝあるのが現状である。(後略)」 

 

(「天国と地獄」昭和24年8月25日)

 

  

「神界は第三天国がやっと出来ている位のもの」

 

「(前略)仏界は追々となくなり、仏が神界へお帰りになる。是により仏滅となる。八段地獄ということを日蓮上人は言ったが、九段地獄が本当である。是でやはりみろくである。

神界は霊界にも現界にも有るが、天国の方は只今の社会ではない位のものである。今のところでは第三天国がやっと出来ている位のものである。それに引換へ地獄は立派すぎる程良く出来ているのは余り感心出来ぬ事である。(中略)

仏界は追々となくなり、神界ばかりと成るのであるが、是は仏が神界へ御帰りになるからである。是を以て仏滅となるのである。お引揚げになるとは仏が日本へ帰られる事である。仏界では毎日何をしているかと言うと、毎日色々なお説教など聞いているのであって弘法信者は弘法の霊界へ集り、日蓮信者は日蓮の霊界へ集って行くから、是等の僧達のお説教を聞いているのである。今の神界は現界とは少しも関係はないのである。

(後略)」                  

(「神幽現三界の実相」昭和10年8月15日)

 

 

「今度初めて最高天国が出来る」

 

「(前略)それから、今迄は第三天国位しかなかったんですが、今度初めて最高天国が出来るんです。その反対に最低地獄といふものもなくなって来るんです。まあ、キリスト教でいふ「煉獄(レンゴク)」、仏教でいふ「無間地獄(ムケンヂゴク)」、神道の「根底(ネゾコ)の国(クニ)」といったものはなくなって来るんです。(後略)」            

                                            

 (御光話録17号 昭和25年1月)

 

「(前略)神界は最近活動状態に入り、諸神諸霊は多忙を極めてゐる。言ふ迄もなく之は昼間の世界が近づいた為である。何となれば神は昼の世界を主宰し、仏は夜の世界を主宰してゐたからである。(後略)」

 

            (「霊界の構成」昭和22年2月5日)

 

「(前略)神界は今日迄約三千年間、仏教の存在する期間は甚だ微々たる存在であった。何となれば神々は殆んど仏と化現され、そうでないのは殆んど龍神となって時を待ってをられたのである。又神々は仏界を背景として救の業に励しみ給ふたので其期間が夜の時代であって昼の時代に転換すると同時に神界は復活するといふ訳である。(後略)」 

 

 (「天国と地獄」昭和24年8月25日)

 

  

「八衢の明るさは現界と同様位」

 

「(前略)地獄界は下へ行く程暗く冷いのである。神は熱と光であるからそれに遠ざかる。それだけ暗く冷たくなるのである。八衢の明るさは現界と同様位であって、第三天国は現界の三倍、第二天国は五倍、第一天国は七倍位である。最奥天国は光の世界である。(後略)」

 

        (「人の生死の状態」昭和10年8月15日)

 

  

「地獄界の状態(1)」

 

「(前略)地獄界とその状態を書いてみよう。霊界は、八衢即ち中有界を中心とし上方に向って天国が三段階、下方に向って地獄が三段階になってゐるのであるが下方へ行く程光と熱に遠ざかり、最下段の地獄は、神道にては根底の国と謂ひ、仏教にては極寒地獄と謂ひ、全くの無明暗黒界であって氷結境である。何物も見へず聞えぬ凍結状態で、其所へ落ちた霊は何年、何十年、何百年も続くのであるから、実に悲惨とも何とも形容が出来ない程である。私はそこにゐた事のある霊から、聞いたのであるから誤りはないと思ふのである。彼のダンテの神曲の地獄篇にも、この氷結地獄の事が記(カ)いてあるが、真実であらう。

そうして最上段は軽苦であって、多くは地獄の刑罰が済んで、八衢へ行く一歩手前ともいふべき所である。従而、そこにゐる霊は地獄界に於ける労作の如きものをさせられるのである。例へていへば、各家の神棚、仏壇等に饌供した食物を運び、其他通信・伝達等が重なる仕事である。(中略)

次に、中段地獄は、昔から唱ふる如き種々の刑罰苦がある。即ち針の山、血の池地獄、蜂室地獄、蛇地獄、蟻地獄、焦熱地獄、修羅道、色欲道、餓鬼道等々ある。そうして針の山は、読んで字の如く、無数の針の上を歩くのであるから、其痛さは察するに余りある。血の池地獄は、姙娠や出産によって死んだ霊が、必ず一度は行く処であって、以前私が扱った霊媒に、血の池地獄の霊が憑った事がある。其時の話によれば、自分は約三十年来血の池地獄に漬ってゐるが、そこは全くの血の池で、首まで漬ってをり、その池に多くの虫がゐて、それが始終顔へ這上ってくるので、その無気味さは堪らないとの事である。蜂室地獄は、私の知人で其当時有名な美容師の弟子である若い婦人に親しくしてゐた芸者の死霊が、右の弟子に憑ったのである。其時、或審神者に向って霊の訴へた話は、蜂室地獄の苦しみであった。それは人間一人入る位の箱の中に入れられ、無数の蜂がゐて身体中所嫌はず刺すので、実に名状すべからざる苦痛であるといふのである。

焦熱地獄は、文字通りの地獄であって、三原山の如き噴火口へ飛び込むとか、火事で焼死するとかいふ者が行く処である。(中略)

色欲道は、勿論不純なる男女関係の結果堕ちる地獄である。その程度によってそれぞれの差別が生ずるのである。それはどういふ訳かといふと、例へていへば情死の如きは男女の霊と霊が、密着して離れないのである。それは彼世までも離れないといふ想念によるのであるが、それが為、霊界に於て行動に不便であり、苦痛でもあるから非常に後悔するのである。抱合心中はそのまゝの姿であるから一見それが暴露され、羞恥に堪へないのである。又別々の場所で心中をしたものは背中合せに密着するのである。偶々新聞の記事などにある生れた双児の身体の一部が密着して放れないといふのがあるが、勿論之等は心中者の再生である。又世間でいふ逆様事、即ち親子、兄弟等の不純関係の霊は、上下反対に密着するのである。それは一方が真直であれば、一方が逆様といふやうな訳であるから、是等の不便と苦痛と羞恥は実に甚だしいものがある。又姦通の霊は、非常に残虐な刑罰に遇ふのである。以上の如くであるから、世間よく愛人同志が情死の場合、死んで天国で楽しく暮すなどといふ事は、あまりにも甚だしい違ひである事を知るべきである。之によってみても、霊界なるものは至公至平にして一点の狂ひもない所であるから、此事を知って現世に生存中は、不正不義の行為は飽迄慎しみ過誤に陥る事なきやう戒心すべきである。(後略)」           

 

(「霊界の構成」昭和18年10月23日)

 

  

「地獄界の状態(2)」

 

「(前略)地獄界であるが。之は天国とは凡そ反対で光と熱がなく下位に往く程暗黒無明の度を増すのである。地獄は昔から言はれる如く種々雑多な苦悩の世界で、私はその概略を解説してみよう。

先づ重なる種類を挙げれば針の山、血の池地獄、餓鬼道、畜生道、修羅道、色欲道、焦熱地獄、蛇地獄、蟻地獄、蜂室地獄等々である。

針の山は読んで字の如く無数の針が林立してゐる山を越えるので、その痛苦は非常なものである。此罪は生前大きな土地や山林を独占し、他人に利用させない為である。

血の池地獄は流産や難産等出産に関する原因によって死んだ霊で、此種の霊を数多く私は救ったが、それは頗る簡単で祝詞を三回奉誦し、幽世の大神様に御願する事によって即時血の池から脱出し救はれるので、大いに喜ぶのである。血の池地獄の状態を霊に聞いてみると斯うである。その名の如く広々とした血の池に首の付根まで何年も漬ってゐる。その池の水面ではない血の面に無数の蛆が浮いており、その蛆が絶えず顔面に這上ってくる。払っても祓っても這上ってくるので、その苦しみは我慢が出来ないといふ事である。此原因は生前無信仰者にして、その心と行に悪の方が多かった為である。

餓鬼道はその名の如く飢餓状態で、常に食欲を満そうと焦燥してゐる。それ故露店や店先に並んでゐる食物の霊を食はうとするが、之は盗み食ひになり、一種の罪を犯す事になるので止むなく人間に憑依したり、犬猫等に憑依し食欲を満そうとする。よく病人で驚く程食欲の旺盛なのがあるが、之は右に述べた如き餓鬼の霊が憑依したのである。又犬猫に憑依した霊は漸次畜生道に堕ちる。其場合人間の霊の方が段々融け込んでゆく。恰度良貨が悪貨に駆逐されるように、終に畜生の霊と同化して了ふのである。此意味に於て昔から川施餓鬼などを行ふが之は水死霊を供養する為で、水死霊は無縁が多いから供養者がなく、餓鬼道へ堕ちるので、餓鬼霊に食物を与へ有難い経文を聞かせるので大きな供養となるのである。

餓鬼道に堕ちる原因は自己のみが贅沢をし他の者の飢餓など顧慮しなかった罪や、食物を粗末にした等が原因であるから、人間は一粒の米と雖も決して粗末にしてはならないのである。米といふ字は八十八とかくが、之は八十八回手数がかかるといふ意味で、それを考えれば決して粗末には出来ないのである。私も食後茶を呑む時茶碗の底に一粒も残さないように心掛けてゐる。彼のキリスト教徒が食事の際合掌黙礼するが、之は実によい習慣である。勿論食物に感謝の意味で、人間は食物の恩恵を忘れてはならないのである。

畜生道は勿論人霊が畜生になるので、それは如何なる訳かといふと生前その想念や行為が人間放れがし、畜生と同様の行為をするからである。例えば人を騙す職業即ち醜業婦の如きは狐となり、妾の如き怠惰にして美衣美食に耽り男子に媚び、安易の生活を送るから猫となり、人の秘密を嗅ぎ出し悪事の材料にする強請の如きものや、戦争に関するスパイ行為等、自己の利欲の為他人の秘密を嗅ぎ出す人間は犬になるのである。然し探偵の如き世の為に悪を防止する職業の者は別である。

そうして世の中には吝嗇一点張りで金を蓄める事のみ専念する人があるが、之は鼠になるのである。活動を厭ひ常にブラブラ遊んでゐる生活苦のない人などは牛や豚になるので、昔から子供が食後直ちに寝ると牛になると親が窘(タシナ)めるが、之は一理ある。

又気性が荒く乱暴者で人に恐れられる、ヤクザ、破落戸(ゴロツキ)等の輩は虎や狼になる。唯温和しいだけで役に立たない者は兎となり、執着の強い者は蛇となり、自己の為のみに汗して働く者は馬となり、青年であって活気がなく老人の如く碌な活動もしない者は羊となり、奸智に長けた狡猾な奴は猿となり、情事を好み女でさえあれば矢鱈に手を付けたがる奴は鶏となり、向ふ見ずの猪突主義で反省のない者は猪となり、又横着で途呆けたがり人をくったような奴は狸や貉(ムジナ)となるのである。

然し以上の如く一旦畜生道に堕ちても、修業の結果再生するのである。人間が畜生道に堕ち再び人間に生れ又畜生道に堕ちるというやうに繰返しつつある事を仏教では輪廻転生といふがそれに就て心得なければならない事がある。例えば牛馬などが人間からみると非常な虐待を受けつつ働いてゐるが、この苦行によって罪穢が払拭され、再生の喜びを得るのである。

今一つ面白い事は牛馬は虐待される事に一種の快感を催すので、特に鞭で打たれたがるのである。右の如く人間と同様の眼で畜生を見るといふ事は実は的外れの事が多いのである。其他盗賊の防止をする番犬、鼠をとる猫、肉や乳や卵を提供する牛や羊、豚、鶏等も人間に対し重要な役目を果すのであるからそれによって罪穢は消滅するのである。 (後略)」

             (「天国と地獄」昭和24年8月25日)