第五章 霊的知識を深める
1、霊界について
「霊界とは意志想念の世界」
「(前略)霊界とは如何なる処であるか、之を一言にしていへば意志想念の世界である。(後略)」
(「幽霊はあるか」 昭和22年2月5日)
「(前略)霊界は全く想念の世界である以上、無から有を生じ、有が無になり変異極りないものである。(後略)」
(「霊界の不思議」昭和24年10月25日)
「霊的事象を知らない限り真の安心立命は得られない」
「(前略)そうして此霊的事象を信ずる事によって、如何に絶大なる幸福の原理を把握し得らるるかは余りにも明かである。故に如何なる信仰をなす場合に於ても、此霊的事象を深く知らない限り真の安心立命は得られない事である。(後略)」
(「霊界叢談序文」 昭和24年8月25日)
「霊界の構成と霊魂の籍」
「霊界の構成は曩に述べた如く、天国、中有、地獄の三階段が三分されて九段階となっており、一段は又二十に分れ、一段階二三ンが六十段となり、三六十八即ち総計百八十段となる。私は名づけて霊層界といふ。その上宇宙の主宰者たる主神が坐すのである。主神の主の字は一二三本の横線を縦の棒一本を通し、上にヽが載ってゐる事は面白いと思ふ。そうして人間と霊の関係を詳しく説明してみるが、人間の肉体そのままの形体である精霊があり、その中心に心があり、心の中心に魂があるといふ具合に、大中小の三段否三重となってゐるが、その魂こそ神から与えられたるもので、これが良心そのものである。此魂の故郷即ち本籍地ともいふべき根源が、右の百八十階段の何れかに属しており、之を名付けて私は幽魂といふ。此幽魂と人間の現魂とは霊線によって繋がれており、絶えず人間の思想行動は幽魂に伝達され、それが神に通じており、又神よりの命令は幽魂を経、霊線を通じて人間に伝達さるゝのである。
此例として人間が種々の企図計画をなし、目的を達成せんと努力するも事志と違ひ、思はぬ方向に赴いたり、意外な運命に突当ったりする場合熟々顧る時、何等か自分に対し見えざる支配者があって、自分を操ってゐるように想はれる事を大抵の人は経験するであらう。即ち此支配者なるものが右の幽魂から伝達さるゝ神の意志である。故に神意に反する場合何程努力すると雖も、努力すればする程逆効果になるものであるから、人間は常に自己の考えが神意に合致するや否やを深く省察しなければならない。
然し乍ら此場合私欲邪念があるとすれば、それは神意の伝達を妨害する事になるから、一時は良いように見えても、終には必ず失敗するものである。此理によって何等かの計画を立てる場合、よくよく自己を省み、その目的が善であるか、社会人類に役立つべきものなるや否やを深く検討しなければならない。茲で面白い事は、邪念の為神意に添はず為に失敗苦境に陥る場合、その苦難によって、邪念の原因である罪穢が滅減する事になるから、其為魂が磨かれる結果となり、今度は神意と合致するようになり、成功する事になる。世間よく一度失敗し其後成功する例がよくある事や、特に失敗の度数の多い程大成功者となる例があるが、右の理に由るのである。
以上の如くであるから霊層界のより上段に霊魂の籍をおく事が幸運者たり得る唯一の方法である。元来霊魂の位置は一定してはゐないもので常に昇降してゐる。何故かといふと軽い程上方に昇り、重い程下向するのであって、此軽重の原因は如何なる訳かといふと、人間の行為の善悪に因るもので、善事を行ひ徳行を重ねれば罪穢が減少するから軽くなり、悪事を行ひ罪を重ねれば罪穢が増すから重くなるといふ訳で、昔から罪の重荷とはよく言ったものである。故に善悪の心言行そのまゝが霊線によって神へ直通するのであるから、此理を知ったならどうしても善徳者にならざるを得ないのである。
前述の如く人間は神の命によって、運命は疎(オロ)か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。故に死とは神よりの命令解除である。それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なき為であるから、人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、長寿と幸福は得られる筈がないのである。
霊層界の上位へ行く程病貧争の如き苦はなく、溌剌たる健康と、饒(ユタ)かであり善美である衣食住を与えられ、歓喜の生活を営まれるから、そこにゐる幽魂の幸福は、霊線によって現界の人間に直通し幸福になるのである。その反対に霊層界の下位にある幽魂は、霊通によって其人間に反映し、常に地獄的生活に喘ぎつつ一生不幸に畢るのである。
世間よく家相方位などに関心を持つ者があるが、霊層界の上位に在る者は、移転や建築等をなす場合、自然良方位、良家相に移住する事になり、反対に霊層界の下位にある者は如何に努力すると雖も、悪方位悪家相に移住する事になるのである。又結婚の場合、良縁も悪縁も右と同様の理によるのであって、之は霊体一致の原則による以上、此絶対力は如何なる人間と雖も抗する事は不可能である。
茲で宿命と運命に就て一言するが、宿命とは生れ乍らに決定せるもので、それは霊層界の上中下三段の何れかの一段の圏内に限定され、それ以外に出づる事は不可能であるが、運命は右の宿命圏内の最上位に行くも最下位に行くも努力次第であるから、宿命の不変であるに対し、運命は或程度の自由を得られるのである。(後略)」
(「霊層界」昭和24年8月25日)
「霊界と人間の関係」
「(前略)霊界なるものは人間に対し如何なる関係ありやといふに、それは現界に於て、神よりの受命者として人各々の業務を遂行するに於て、意識せると意識せざるとに係はらず、霊体に汚穢が堆積する。それと共に肉体も病気、老衰等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体を捨てて霊界に復帰する。即ち帰幽である。昔から霊の抜けた体を称してナキガラといふ事や肉体をカラダといふのもそういふ意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、大多数は汚穢の浄化作用が始まる。汚穢の量によって霊界生活に於ての高下と浄化時限の長短があるのは勿論で、早きは数年数十年、遅きは数百年数千年に及ぶものさへある。そうして或程度浄化されたものは、神の受命により再生するのである。右の普通の順序であるが、人により順序通りゆかぬ場合がある。それは生に対する執着であって、死に際会し生の執着が強いものは、霊界の浄化が不充分であり乍ら再生する場合もある。斯ういふ人は不幸の運命を辿るのである。何となれば浄化不充分の為、前生に於ける罪穢が相当残存してをりそれの浄化が発生するからである。此理によって世間よく善人にして不幸な人があるが、斯かる人は前生に於て罪を累ね、死に際会し飜然と悔悟し、人間は未来永劫悪は為すまじと固く決心し、その想念が霊魂に滲み着いてをり、浄化不充分のまま再生するを以て、悪を嫌ひ善を行ふに係はらず不幸の境遇を辿るのである。然し乍ら斯ういふ人も或期間不幸が続き、罪穢が払拭されるに於て一躍幸福者となる例も亦尠くないのである。亦斯ういふ人がある。自分の妻以外の女は知らないといふ品行方正を誇りとするのや、妻帯を欲せず、独身同様に終るものもあるが、之等の人は前世に於て、婦人関係によって不幸の原因を作り、死に際会し女性に対する一種の恐怖心を抱き、その想念が霊魂に滲み着いてゐる為である。(中略)」
(「生と死」天 昭和22年2月5日)
「人間の運命の其根本は霊界にある」
「(前略)以前記いた事があるが、人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態が其儘霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命の其根本は霊界にあるのである。そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になってをり、之を分ければ大別して三段階になっている。其内の一段が六十階、それが三分され二十段づつになって、合計百八十一階級である。そうして一は主神であるから、主神以外は如何なる神様でも、百八十の中のどれかの段階に居られるのである。右は経を曰ったものであるが、今度は緯を曰ってみると、緯の広がりの一つ一つの段が、地獄から天国迄それぞれ異っているから、仮に現在自分の霊とすると、下の六十段の其又下の二十段に居る場合は、最低地獄に相応するから、之以上ない程の苦悩に満ちた世界で、之が体に映って苦境のドン底にある訳である。又其上の二十段に上ると幾分楽になり、其又上の二十段はもっとよくなるというように、夫々の段階一段々々其苦楽の異うのは勿論である。それで右の如き下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。即ち中有界、八衢であるから、現界に相応するので、其又中から上の六十段へ入ると、此処は天国であるから天人の地位となり、歓喜悦楽の境遇となるのである。(中略)」
(「浄霊と幸福」地34号 昭和27年3月25日)
「(前略)其人の居る(霊界の)段階其まま通りが運命となるのだから、一段でも上に行くよう心掛けるべきで、上になる程益々苦しい忌わしい事がなくなり、幸福は増すのである。つまり浄化すべき苦痛の必要がなくなるからである。だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのは之が神の天則であって霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、茲に浄霊の大いなる意義があるのである。」
(「浄霊と幸福」地34号 昭和27年3月25日)
「霊界は光と熱による差別がある」
「そうして天国、八衢、地獄を通じて最も顕著なる事は光と熱による差別である。即ち天国は光と熱の世界であり、地獄は暗黒と無熱の世界であって、八衢はその中間であるから丁度現界と同位である。故に最高天国即ち第一天国に於ては光と熱が強烈で、そこに住する天人は殆んど裸体同様であり、仏画にある如来や菩薩が半裸体であるに察(ミ)ても想像し得らるるであらう。又第二天国、第三天国と下るに従って漸次光と熱が薄くなるのは勿論である。従而、仮に地獄の霊を天国へ昇らすと雖も、光明に眩惑され熱の苦痛に耐え得られずして元の地獄へ還るのである。(後略)」
(「霊界の構成」昭和18年10月23日)
「無信仰者は死後、霊界の中有に迷う」
「(前略)霊界に於ても神道十三派や仏教五十数派等それぞれの団体がある。例へていへば、大社教は大国主尊を主宰神とし、御嶽教は国常立尊、天理教は伊弉冊尊等の如くであり、仏界に於ても、真宗は阿彌陀如来、禅宗は達磨大師、法華宗は日蓮上人といふやうに、それぞれの団体がある。故に、生前何等かの信仰者は、死後霊界に往くや、各々の団体に所属するから、無信仰者よりも幾層倍幸福であるかは自明の理である。然るに無信仰者に於ては、所属すべき団体がないから、現界に於ける浮浪人の如く大いに困惑するのである。昔から中有に迷ふといふ言葉があるが、之は無所属の霊が中有界に迷ふといふ事である。
又、霊界を知らず、死後の世界を信じない者は、一度霊界に往くや安住するを得ず、そうかといって現界人に戻る事も出来ず中有に迷ふのである。(後略)」
(「霊界の構成」昭和18年10月23日)
「霊界に行くや、想念通りの境遇に堕ちる」
「(前略)斯ういふ事も知っておかなければならない。それは現世に於て富者でありながら非常に吝嗇な人がよくあるが、其様な人は巨万な富を有するに関はらず想念は常に不足勝であって、より以上の金銭を得んと心中堪えず焦慮してをるから、その想念も生活も、貧者と異ならないが故に、外面は富者であっても、霊体は貧者であるから、斯ういふ人は死後霊界に行くや、想念通りの貧困者となり、窮乏な境遇に堕ちるのである。それに引換へ現世に於て中流以下の生活者であっても、心中常に足るを知って満足し、日々感謝の生活を送り、余力あれば社会の為人の為善根を施すといふやうな人は、霊界に行くや富者となって、幸福な境遇になるのである。
然るに、一般世人は、現世のみを知って霊界を知らず、飽迄現世のみを対象として生活を立てるのであるから、如何に愚かであり不幸であるかを知るべきである。従而、霊界の事象を知り、之を信ずる人にして初めて永遠の幸福を得らるるのである。
此意味に於て人は生命のある限り、善を行ひ徳を積み、死後の準備をなしおくべきである。
(「霊界の構成」昭和18年10月23日)
「霊界の地位は善悪の因果律による」
「(前略)運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、一段階が六十段で、それが又二十段宛に分れ、総計百八十段になっている。勿論下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。そうして一般人の殆んどは中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。即ち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。然も現界と異って霊界は至公至平にして、些かの依怙(エコ)もないから悪人には都合が悪いが、この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。
勿論地獄界は嫉妬、怨恨、嫉(ソネ)み、憎み、貧窮等仏教でいう貪瞋癡が渦巻いており、下段に降る程濃厚となり、最下段は根底の国、又は暗黒無明極寒地獄、煉獄とも曰われている。といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、人間の運不運は、霊界の地位如何によるのである。勿論その因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。事実悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記の如く霊界に於ける籍が地獄にあるからである。
それに引替え現在如何に不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、いつかは幸運者となるのは、厳として冒すべからざる神律である。従ってこの理を諭えるのが宗教本来の使命であるに拘らず、今日まで甚だ徹底しなかったのは経典と説教を主とし、肝腎な実力即ち奇蹟が伴なわなかったからである。
処が愈々時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、本教を機関として驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄を覚ますのであるから、如何なる人と雖も信ぜざるを得ないであろう。」
(「霊と体」昭和28年9月10日)
「霊界と現界との関係」
「(前略)吾々の住んでゐる地球の上には、霊界空気界物質界の三段階によって構成されてゐる。そうして之は亦二段に分ける事も出来る。即ち空気の水素と地球の土素とは物質であり、霊即ち火素は全然非物質であるからである。即ち霊と物質とを区別すれば、霊界と現界とになる。
そうして霊界と現界との関係を説くに当って先づ知らなければならない事は、凡ゆる事象は霊界に先に起り、其儘が現界に移写されるといふ事である。恰度映画に於けるフィルムが霊界であり、銀幕が限界であるのと同様でそれが天地の厳然たる法則である。
丁度人間が手足を動かすといふ事は、眼に見へぬ心が先に動きその命によって手足が動くので決して手足が先に動いて後に心が動くのではない。之と同じく霊界は心であって現界は手足であるやうなものである。(後略)」
(「世界の大転換」 昭和18年10月23日)
「最高神とは主神に外ならない」
「(前略)単に神と言っても、実は上中下の階級があり、千差万別の役目がある。神道にては八百万あるというが、全く其通りで、今日迄神といえば、キリスト教的一神教と、神道的多神教のどちらかであった。併し両方共偏った見方で、実は独一真神が分霊して多神となるのであるから、一神にして多神であるというのが本当である。之は私が永年の神霊界研究によって得たる結論であって、此考え方も今日迄あるにはあったがそれ以上は説け得ないようであった。そうして今日迄最高神として崇められて来た神と雖も、実は二流以下の神であって、最高神は遙か雲の彼方に座し、只人類は遠くから礼拝していたに過ぎなかったのである。では最高神とは何ぞやというと、主神に外ならないのである。エホバ、ロゴス、ジュース、天帝、無極、再臨のキリスト、メシヤ等の御名によって、各民族各国家の人民が称え来った神である。(後略)」
(「本教の誕生」 昭和25年11月20日)