食と農

 

「食」について

 

1-1、健康保持は自然順応

 

「徹頭徹尾自然を尊ぶ」

 (前略)徹頭徹尾自然を尊ぶので、寝たければ寝、起き度ければ起き、歩き度ければ歩き、食べ度ければ喰べ、喰べ度なければ食欲の起る迄は、二日でも三日でも喰べないでいい。

熱が高ければ水枕位はいいとして、出来る丈、手当をしないのがいいのである。(後略)                          (「九、自然療法」医講  昭和10年)

 

「健康の真諦は自然順応」

 抑々、健康を説くに当って第一に心得るべき事は、健康の真諦は自然順応であり、自然尊重である事である。

それに就て先づ考ふべき事は、造物主即ち神が人間を造られた御目的は何であるかといふ事である。

吾等の解釈によれば、それは真善美の完き世界を造る事である。といっても斯んな途方もない説は容易に受入れ難いであらう。勿論、其様な理想世界は何万何十万何百万年かゝるかは分らない、としても世界はそれに向って一歩々々進歩向上しつつある厳然たる過去の事実を見れば否定も出来得ないであらう。そうして神は霊で人間は体であり、両々相俟って無限の進歩を遂げつつあるのが実相で、其担当者として人間があるのはいう迄もない。
 以上の如くである以上人間の責任たるや実に大なりというべきであると共に、此大事業を遂行する何よりの条件としては、人間の健康である。此意味に於て神は人間にはそれぞれの使命を与え、任務を遂行するに足るだけの健康を与えられてゐるのは当然である。何となればもし健康を害ふとしたら、神の御目的は達せられないからである。

先づ此道理を基本として深く考えるとしたら、健康こそ人間の本来であり、常態であらねばならない。

然るに不思議にも人間は病気に犯され易い。即ち異常体となるのである。とすれば此事の根本が明かに判り異常体を正常体に復活せしむる事こそ神の御目的に添ふ事になるのである。
 右の意味によって、人体の異常化を検討する時、何を発見するか。それは何よりも自然に反する為という事である。

故に此反自然の実態を把握し訂正し、常態に復元する事こそ真の医学であって、その復元の可能であるこそ、正しい医学のあり方である。 (後略)         (「健康の真理」自叢十  昭和25年4月20日)

 

「健康を保つには自然がいい」

(前略)私が「人間の健康には無理をした方が良い。

無理をしなければ丈夫にならない」という事を前から言つているのですが、之は健康の人に言つているので、病人に言つているのではないのです。

処が病人に対して「楽にしてはいけない。

無理をしても身体を動かさなければならない」と、斯ういう人が居るのです。これは大変な間違です。

結局根本は自然が良いのです。起きるのは大儀だ、寝て居たい。というのは寝ているのが良いのです。

自然なのですから寝て居る様にする。

それから身体に元気が出てもうじつとして居られない。寝て居られない。どうしても起きたい、歩きたい。

というのはもうそれで良いのですから、そうすれば良い。

飽迄(アクマデ)自然でなければならない。

ですから病人に対して言う事と健康な人に対して言う事とは逆な事が沢山あるのです。それを一緒にして了うのが一番困るので、飽迄自然です。(中略)
リンゴでも柿でも、神様は人間に食べさせる為に作つてあるのですから、リンゴがいけないとか柿がいけない何がいけないという事は大変な間違です。

リンゴというのは人間が食べる為に出来ているのです。つまり味というのが大変に必要なものなのです。

すから農業の方は自然農法と言いますが、医学の方でも健康に就いてはやはり自然が良いのです。

食物も自然、それから運動とか動作というものも自然です。

又熱があつたり風邪を引いて色んな事があつても、立派に仕事が出来る、それ程苦痛ではない、という人は仕事をしても良いです。私は随分風邪引とか熱があるとかしても、構わず仕事をしてます――それ程苦痛ではないから。

れはそれで良いです。そういう風に飽迄自然です。

それで、起きているのは嫌だ寝ている方が良い、というのは寝て良いのです。後略)             (御教え集13号  昭和27年8月25日)


    

 「人間生活も自然順応をモットーに・・・」

 凡そ真理とは、分り易くいえば相応の理であって、相応の理とは一切万事合理的で、釣合がとれ、何等破綻のない事をいうのである。

従って人間生活とすれば円満で自然順応をモットーとすべきである。

例えば衣食住にしても、衣は夏が来れば薄いものを着、冬が来れば綿入を着るようなものであり、食は穀物、野菜、獣鳥肉等々、其土地に生産された物を成可食うようにし、季節もそうだが其土地に多く生産されるものは多く食うようにし、中位は中位、少ない物は少なく食うようにすればいゝので、之が自然である。一例を挙げれば米麦の如きも甘い辛いの味がないが、年中食っても飽きない言うに言われぬ味がある。

だから斯ういう物は一番多く食えばいゝのである。

又強い味のもの例えば極く甘い物、塩辛い物、苦い酢っぱい辛いというような刺戟の強いものは、少なく食えばいゝので、之が完全な食餌法である。
 それを知らない人間は、何が栄養になり、何が薬になるとか、ヤレ鉄分を含んでいるから可いとか、蛋白がどうだとか言って、薄っぺらな机の上の学問で作り上げた理屈を信じて、好みもしないものを食ったり、食いたいものを我慢して食わなかったりするのを衛生に適うなどとしているのだから全く馬鹿気た話である。

ういう考え方こそ実は不衛生極まるもので困ったものである。(後略)                (「相応の理と其他の事」栄181号  昭和27年11月5日)