第五章 霊的知識を深める
1、霊界について
④ 想念・言霊の世界
「幽玄界(神霊界)---霊界---想念界---言霊界の順」
「(前略)霊子時代であるが、それは先づ宗教が中心とならなければならない。茲で私は右の三時代を宗教的に解釈してみるが、先づ電気であるが、電気にも霊と体があって、体は電光で、電燈の光がそれであり、霊は無線として活用せられ、ラヂオもテレヴィジョンもそれであって、人間の声が何千里先まで音波となって到達するという事は、言霊界の力動に外ならないのである。
次に原子界であるが、此界の体は原子核破壊という発明によって発見されたが、霊は科学的には未知であり、宗教的に言えば想念界である。
次は霊子界であるが、此界の体は中位以下の諸神諸仏の霊が活動し給う存在であり、此界から発現したものが既成宗教で、宗教に種々の段階あるのは神霊仏霊に段階があるからである。
次は霊子界の霊界(私は幽玄界と名づける)である。此幽玄界こそ、最尊最貴の神々が御座(オワシ)まし枢要する経綸を行はせ給うのである。以上説く処の三段階の其上に坐すのが、独一真神即ち万能の神とも申し、大宇宙の主神で被在(アラセ)らるゝのである。此主神に対しては、之を表現し奉る言辞もなく、文字もなく、唯だ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根元であると申すより外はないのである。(後略)」
(「宗教と科学」 昭和24年1月25日)
「言霊界は想念界の一段下」
「(前略)言霊界と言うのは、霊界の浅い処ですね。深い処は想念界ですね。言葉が――形が現われるんですからね。形が現われる世界は、一段下るんですね。それで、一番高級の世界は、神霊界――神様の世界。(後略)」
(御教え集6号 昭和27年1月16日)
「想念界---言霊界---現象界の順」
「(「大三災小三災」の御論文の中に“想念界の次位である言霊界を曇らす”とありますが、次位というのはどういう意味でしょうか)
次の位です。
(最初想念界に浮かんだものが、言霊に発して、それから現象界に現われるという順序でございましょうか)
そうです。」
(御垂示録25号 昭和28年10月1日)
「想念―言霊―物といふ順序」
「(前略)言霊とは言葉の霊であり、人間に聞こえるのはその体である。その言葉の霊が働くのである。聖書には「太初(ハジメ)に言(コトバ)あり、万物之によって造らる」とあるが、言霊の働き方は偉大である。例えば家を造るとすると、想念によって想ふと想念界に出来る。次に土木屋、大工など呼んで指図する。
之は言葉でし、この言葉で出来る訳である。又材木なども買入れる。之は物質になる。即ち、想念―言霊―物といふ順序である。「傀儡師胸にかけたる人形箱仏出さうと鬼を出さうと」といふが、之は言葉の働きを言ったものである。和合するも喧嘩するのも言葉による。言葉の外に霊がある。善い言葉と悪い言葉は霊により違い、人により異る。
人の悪口を言ふと何となく感ずる。想念で思っても感ずる。之は言葉が霊界に記録されるからである。然し乍ら、行動に表はさなければ、そう大して罪ではない。想念の曇りは極く少ない。言霊界が曇ると台風や大雨、雷鳴、大風等で浄められる。(後略)」
(昭和24年7月15日)
「(前略)空間に――霊界中に言霊界といってもいい言霊が働く世界がある。も一つ奥に想念界がある。それが霊界へ響いて働きが起る。
霊線などは想念界の世界を活動している。例えば、家を作らうと思ふと、想念界で設計が出来て、出来る。言葉で大工を呼んで指図すると言霊界へ出来る。次に現象界へ出来る。(後略)」
(昭和23年)
「想念界とは想う世界」
「(想念界とは――)
想ふ世界、物質的行動に表はさぬ世界。言葉は下の方の霊界で、上の霊界は目だけで判る。現界のように諄々しくない。」
(昭和25年3月28日)
「言霊の根本義」
「(前略)言霊の根本義からかいてみるが、言霊は勿論人間の音声と舌、唇、顎の活動によって構成発射するものであるが、それを発する根本は言葉によって表現せんとする想念であることはいうまでもない。想念は意欲の表われである。解りやすくいえば人間が何等かの意欲が起るその意欲を言葉に表わすべく想念が活動する。勿論想念の活動には正邪善悪、成不成等の判断力も活動する。これを総合したのが智慧である。それ等を具体化したものが言霊であって、言霊を具体化したものが行動である。この理によって、想念、言霊、行為の三段階と思えば間違いはない。
右の如くであるとして想念は幽玄界に属し言霊は言霊界に属し、行為は現象界に属するのである。言わば、言霊は幽と物との中間である。念と行との媒介者といってもいい。これによってみても言霊なるものは如何に重要性があるか判るのである。(中略)
悪の言霊は罪を構成し、善の言霊は、徳を構成する以上、人間は善の言霊を使うべく努力すべきである。善の言霊とは、勿論誠が根本であり、誠は神からであるから、どうしても神を認めなければならない。とすれば、信仰者でなければ、真の誠は発揮出来ないから、言霊と雖も善的力が現われるはずがないのである。」
(「言霊について」昭和25年)
「想念と言霊、行為が災害の原因」
「(前略)風水の原因は天地間の浄化作用であって、何故浄化作用が発生するかというと、霊界における曇り即ち眼に見えざる汚濁が堆積するのである、それを風力によって吹き払い、雨水によって洗滌される、それが為の暴風雨である、然らば右の如き曇りとは如何なるもので如何にして堆積するかを解説してみるが、それは人間の想念と言霊によるのである、即ち想念の悪に属するものとして不平、憎み、呪い、嫉み、個人的怒り、偽り、復讐心、執着等が、霊界を曇らせるのである。
次に言葉であるが、気候が悪いとか悪天候とか米の不作とかいうような自然に対する不平や、人に対する非難攻撃、怒号罵声、秘密欺瞞、咎め、愚痴等、凡て悪から発するものは想念界の次位である言霊界を曇らすのである、それ等種々の曇りの堆積の量がある程度を超ゆる時一種の毒素が発生し、人間生活に支障を来すことになるので、その自然浄化が発生する、それが天地の法則である、前述の如く霊界の曇りは人間の健康にも影響すると共に草木特に農作物にも悪影響を与える結果凶作の原因ともなり、害虫の発生も旺盛になるのである、故に今日日本各地に於る松や杉を枯死させる害虫の発生も此理によるのであるから、人間が大いに向上しない限り、之を防ぐ事は難しいのである、言い換えれば日本人自身の過が、自分の国の松や杉を枯死さしているという訳であるから、人間の想念と言霊は大いに慎しまなければならないのである。(後略)」
(「大三災と小三災」 昭和24年8月13日)
「昔から颱風や、暴風、洪水等はすべて天災と言い不可避の現象として諦めていた事は誰も知る処であるが、吾等から言えば実は天災ではなく人災である。(中略)
抑々、低気圧とは何かというと、それは地上の空間即ち吾等が言う処の霊界の清掃作用である。何となれば霊界と雖も常に汚濁が堆積する。恰度物質的にいえば町や個人の家屋に塵埃が溜るようなものである。ただ霊界は眼に見えない為、汚濁の堆積が人間には判らないだけで、今日迄気が付き得なかったのである。(中略)
霊界に汚濁が堆積する以上、その清掃作用が自然に発生するのは当然である。即ち風で吹き払い。水で洗うのでそれが低気圧である。全く現実界の清掃作用と何等異る所はない。故に此汚濁の根源を突止める事こそ絶対解決の鍵である。然らば一体汚濁とは何であるかというと、それは人間の想念と言葉と行為によって作られる曇りである。即ち人間の悪の心、言、行が眼に見えない霊界に影響する、その結果、霊界に曇りが発生するのである。此理によって今日大暴風が頻繁に襲来するという事は、如何に人心が悪化し、悪言悪行為が多いかが判るのである。
然し乍ら右の曇りを消滅させる方法があるかというに、それは至極容易である。即ち右の反対の方法をとればいいのである。言う迄もなく人心が善化し善の言行である。即ち悪によって曇らせられたる霊界を、善によって晴らすのである。此場合善は光となって曇りを解消する。例えばキリスト教に於ての讃美歌の合唱も、仏教に於る読経も、神道の祝詞も何れも善言讃詞であるから、霊界清掃に幾分かは役立つのである。故にもし右の如き善言讃詞がないとしたら、今よりも一層大きな低気圧が発生する訳である。(後略)」
(「低気圧は人災なり」 昭和25年1月30日)
「願い事は言葉に出すべき」
「言葉に表はす方がよい。祈りは想念でも或程度まで通ずるが、言葉に表はした方が強く行く。
想念の働く世界と言霊の働く世界と別々にある。又行為の世界もある。御馳走などでも想っただけではもの足らぬ。」
(昭和24年7月15日)
「願事は、祈りは想念でも或程度までは通ずるが、やはり言葉表はした方がよい。
今度の本、「信仰雑話」に悉しく書いてあるが、想念の働く世界と言霊の働く世界と別にあって、言葉に表はした方が強く響くものである。
すべて想っただけではもの足らぬもので、御馳走してくれると思ってもらふよりは、行為の世界に表はしてくれた方が有難い。」
(昭和23年)
「(祈念は言葉に出した方がよいとの御教えにつきまして再び御伺い申し上げます。)
言霊に出した方がよいが、人のいる時は聞えないようにする。」
(昭和24年1月28日)
「善の言霊は人間良心の本源である魂にまで透徹する」
「(前略)霊界に於ては、大言霊界、即ち七十五声の言霊が鳴り響いているからである。しかし、これは霊界に充実している無声の声であって、人間の耳には感じないのである。しかし、この大言霊に対して、人間が発する言霊は大いに影響する。勿論、正なる言霊は霊界の汚濁を軽減させるが、これと反対に、悪の言霊は汚濁を増すのである。これは何故かといえば、七十五声の言霊の配列の順序によるので、その基は善悪如何である。即ち、善の言霊とは美辞麗句であって、美辞麗句とは、一つ一つの単語の綴り方が、真善美に適っているからである。これは何よりも人間の耳へも快く響くもので、何故快く響くかというと、人間良心の本源である魂にまで透徹するからである。しかるに、悪の言霊は、魂には透徹しないので、それを包んでいる心の範囲にまでしか達しないのである。(後略)」
(「言霊の偉力」 昭和25年)
「悪の言霊は、副守護神に快く響く」
「(前略)私が常に言うところの副守護神、即ち動物霊は、心の範囲内に限定して憑依している以上、心の曇りが濃度であるほど副守護神の能力は強化される。しかしこれが曲者で、常に良心たる魂の光を遮蔽しているから悪を好む人間となるのである。ところが、悪の言霊は副守護神には快く響くので、これは事実がよく証明している。良い話を好むのは前述の如く魂に快く響くからであり、悪の言霊を好むのは副守護神が喜んで、快く響くのである。例えば、悪人共が悪事を語り合っているのを、仮に吾々が聴くとすれば、堪えられない程の不快であるに拘わらず、悪人は快感を催すのである。(後略)」
(「言霊の偉力」 昭和25年)
「心魂が意思想念を湧起する」
「(前略)凡ゆる動物は、霊と体から成立ってをり、此両者の密接不離の結合によって生命があるのである。此霊を支配するに意思想念があり、意思想念を湧起するのが心魂(シンコン)である。(後略)」
(「西洋医学の大誤謬(一)」昭和11年1月25日)