食と農
B-7、連作について
「一つ種で一つ所へ栽培を続ける」
右に就て、明主様よりの御注意がありましたから左の通り御取次致します。
種は変えない方がいい、一つ種で続けると段々よくなる。何故なれば、肥毒が段々抜けるからである。又土質に合うとか合はないとかいうのは、間違っている。一つ種で一つ所へ栽培を続ければ、土質の方からそれに合うように、漸次変化するのである。何としても種にも、土にも、肥毒が沢山含まれているから、之を早く抜かなければならない。肥毒が抜けるだけは増収するのである。
次に、西瓜が出来が悪いというのは、恐らく種と、土とに肥毒があったに違いない。肥毒さえなくなれば如何なる野菜でも、量も、質も、必ずいい結果となるのである。
(「自然農法体験者座談会 読後のお言葉」栄102号 昭和26年5月2日)
「連作について」
(前略)それからもう一つ面白いのは、私は連作しろと言つてます。処が、或る処では連作はいけない。連作するなら七、八年経つてからやれ。其処は茄子の名産地で、七、八年経つてから、そこに植えると言うんですね。処が連作をやつたんです。すると、非常に良く穫れたんです。そんな訳で、あべこべあべこべをやつていた。私の方の説と言うのは、理窟に合つているんですからね。連作をすると、その土が作物に合う様になつていくんですからね。(後略)
(御教え集6号 昭和27年1月26日)
(前略)それから連作です。この農民の考え方が、土というものをどうも疎(オロ)そかにするのです。だからして連作が良いという事は、例えて言えば、茄子なら茄子で言うと、土というものは茄子が良く育つ様に変化して行くのです。ですから連作にすると、その物に対する土の働きがだんだん強くなって行くのです。だから連作がいいのです。そこで麦と混ぜると、土の性分は米が良く育つ様になりつつあるところに麦を入れると、今度は麦の方の性分に変って行きますから、それをチャンポンにやれば、土の性能は両方とも充分発達しないのです。発達しかけたものが、パッと変ってしまうのです。ですから連作もやはりそういう理窟なのです。連作するほど良くなるのです。こういう事は今までの考え方とあべこべです。今までは百姓は連作を非常に嫌いましたが、あれは肥料のためにああいう様になったのです。そういう訳で、私の書いたものを見て、そのとおりにやる事です。外の事を一寸でもしてはいけないのです。ところがどうも今までの習慣や言い伝えに捉われ勝ちなのです。だからよく書いてありますが“病気は浄霊でなおるが、なるほどそうだ。しかし作物の方は違う”という様に考えているのですが、これは同じ事なのです。(後略)
(御教え集19号 昭和28年2月7日)
(前略)今一つ世人の意外とする事がある。それは農業に於ては連作を不可としてゐるが、私は連作主義で好成績を挙げてゐる。而も年を経るに従ひ成績は漸次良くなる事である。之は奇蹟のようであるが、実は立派な理由がある。それは私の曰ふ土を生かし、土の力を強盛にする為には連作するほどその野菜に対し土はその野菜を育むべき適応性が自然に醸成さるゝからである。(後略)
(「無肥料栽培」自叢二 昭和24年7月1日)
(前略)以上によってみても判る如く、自然農法の根本は、土そのものを生かす事である。土を生かすという事は、土壌に人為肥料の如き不純物を用いず、どこ迄も清浄を保つのである。そうすれば土壌は邪魔物がないから、本来の性能を充分発揮し得る。而も面白い事には、農民は土を休ませるというが、之も間違っている。作物を作れば作る程土は良くなる。人間で言えば働けば働く程健康を増すのと同様で、休ませる程弱るのである。此点なども農民の解釈は逆であって、作物を連続して作る程養分が吸われるとなし、畑を休ませるが、何もかも実に間違っている。此誤りの為連作を不可とし、毎年場所を変えるが之なども論外であって、気の毒な程愚かである。
だから本農法に於ては連作を可とする。現に私が実行している例だあるが、今年作った玉蜀黍(トウモロコシ)の如きは連作七年に及んでおり、而は箱根強羅の小石混りの土で、恐らく不良土としては申分がない、にも拘はらず本年の出来栄えなどは素晴しいもので、実付きは行儀よく密集し、棒は普通より長く、甘味があって柔かく、美味満点である。然らば何故連作がよいかというと、土壌は作物の種類によって、其作物に適応すべき性能が自然に出来る。之も人間に譬えればよく判る。労働すれば筋肉が発達し、常に頭脳を使う作家の如きは頭脳が発達する。又人間が年中職業を変えたり、居所を転々すると成功しないのと同様の理で、今日迄如何に間違っていたかが判るであろう。
(後略)
(「土の偉力」自解 昭和26年1月15日)
(「堆肥の効果」革自 昭和28年5月5日類似)(「連作豊収」革自 昭和28年5月5日類似)
「連作は良い」
(前略)それから連作が良いというのもそうなんです。よく、昔から連作がいけないというのは滑稽ですよ。一番連作をするのは水田ですよ。毎年稲を作つている。処が畑の方は、茄子はいけないとか、何がいけないとか言つて、品種を変えていきますがね。処が、稲や――米は昔から連作してます。いけないものなら変えていかなければならない。そういう処に気がつかないんですね。そういう訳で、稲の品種を心配する必要はないという事丈知つていれば良いですね。(後略)
(御教え集9号 昭和27年4月27日)
「連作により土の性能が増す」
それから自然栽培をやる人で、まだ徹底しないところがあります。それは土を生かすという事です。今まで金肥、人肥で土の力を殺していたというのを、今度は反対に土を生かすようにするという場合に、連作が非常によいのです。それはどういうわけかというと、土自体が植物なら植物を育てるような一つの性能をだんだん発揮して行くのです。それで農村では連作を嫌って年々畑を変える事をよいとしてますが、そういう事を言うとちょっとおかしいと思う事は、米くらい連作しているものはありません。先祖代々昔からやってますが、若し連作がいけないものなら年々悪くなるはずです。尤も今は肥料で悪くしていますが。とに角肥料をやるために土が変質してしまうのです。そのために連作が悪いように、土が一種の片端になったようなものです。だから二毛作で米と麦を半々にやる事をよいとしていたのを、私が二毛作はいけないという事を言って一毛作にして非常に成績がよいという報告がありますが、そういうようで無肥料にして連作をすれば、土は幾らでもその作物に対する性能が増して行くのです。
だから実際言うと米にしてもだんだん増えていって、今の三倍くらいになります。最近来たお蔭話で、その人は七年目ですが、最初一、二年というものはやはりどうしても無肥料が信じられないで、何か他の肥料も時々混ぜたようです。それが分って、三年目くらいから本当に全然無肥料にしたのですから、とに角正味五年目くらいでしょう。それで去年は反当十俵幾らというのです。それで他の近所の収穫は五俵幾らというのですから、丁度倍は穫れたわけです。そういうようなわけで倍くらいは何でもありません。私は五割増産としましたが、本当は倍と書きたかったのです。しかしあんまり穫れ過ぎるように書くと、かえって本当にしないのです。何か常識外れのように思われますから、割引して五割としたのです。それで農村の人はなかなか肥料迷信にかかってますから、本当に全然無肥料に切り替えるのはなかなか難かしいのです。というのは土が連作によって今言うようにその作物に合うような力が出るという事を本当に知らないからです。そこでそれをよく知るように今話もし、又書くつもりです。この連作により土の性能が増すという事をよく心得てもらいたいと思います。
(御教え集24号 昭和28年7月7日)
「土を生かすには連作すること」
(前略)それから土を生かすという事について、こういう事を考えなければなりません。それは連作をしなければならないのです。よく連作がいけないと言っているが、おかしいのです。昔から一番連作をしたのは稲です。それで連作はいけないと言いながら一番肝腎な米だけは連作をやってますが、これには気がつかないのですから滑稽(コツケイ)なくらいです。その場合に、連作をすると土の方にその作物に適当するような力が出るのです。丁度人間の仕事と同じで、一つ仕事をやっていると熟練して来ます。商人だと年々御贔屓(ゴヒイキ)が増えて来て、商売のコツも覚えて来るというようになります。土も同じです。豆なら豆を育てるような性能が出て来るのです。そういうようで、連作をするほど良くなるのです。今まで連作を嫌ったのは、肥料の害を受けている土だから連作はいけないと言っているのです。これが一番分りいいのは、薬です。特に胃の薬ほど分りますが、一つ薬をのんでいると効かなくなります。そこで薬を変えると一時効くのです。というのはその成分に対して体の方が、つまり抵抗力と言うか、慣れてしまうので効かなくなるのです。(中略)そういうようで、作物に対する肥料というのも同じです。そこで土の力を増すようにすれば、いい意味のそういった働きが出るのです。
(御教え集26号 昭和28年9月25日)
「連作による土の変化」
(前略)それで去年十八俵とった伊野という人は、今年は勿論そのくらいか、それ以上はとれましょうが、その人の話では反二十五俵までにはしてみせると言っているそうです。無論そのくらいはとれます。というのは今までこういう事を知らなかったのです。つまり連作というものの効果です。ところが今までの農民は連作はいけないと言っていたのです。という事は、肥毒のために連作をするとだんだん弱ってゆくのです。そこで耕作を変えると、変えただけは、肥毒の一つの悪循環と言いますか、それが減るのです。これは薬でよく分ります。一つ薬をのんでいると、だんだん効かなくなります。それで薬を変えると一時効くというような意味と同じです。だから連作でなく耕作すると、丁度田や畑が変りますから、丁度薬を変えたようなものですから、それで一時よいわけです。そういう意味で、つまり肥毒のない清浄な土で稲なら稲を作ると、土の方で稲に適するような成分がわいて来るのです。それは実際神秘な話です。そこで年々土自体に特種な性能ができ、その性能がだんだん発達してゆくのです。ですから素晴しく良い土になってゆくのです。という事は素晴しく肥(コヤシ)が効いた土になるのです。肥と言っても今までの肥とは違って、良い意味のもので、つまり神様の作った肥で、それが増えてゆくのです。ですから沢山とれるに決まってます。そういった肥毒のない清浄な土が連作によってだんだん沃(コ)えた土になるのです。それですから今反五俵として、これが反十俵になり二十俵になり三十俵になります。そうなると分蘖が非常に多くなります。それで最も多くなると稲に枝が出て来るのです。だから一本の稲に千粒ぐらい成るようになります。五百粒ぐらいは何でもありません。ですから十俵になり二十俵になるのは当り前です。その方法でゆくと日本は今に米が余って始末に困ってしまうようになります。それこそ今度は輸出の方に苦労しなければならなくなります。そうなると農村天国になります。それで救世教によって病気が無くなったら、農村に病貧争絶無の世界が出来てしまいます。神様の方は実にドンドン地上天国を造りつつあるのです。人間もそれに合わしてやってゆくと、案外早くできるわけです。(後略)
(御教え集27号 昭和28年10月16日)
「連作がいい理由」
(前略)もう一つはこういう事があります。土というものは変化するのです。という事は、米なら米、豆なら豆と、一つ作物を連作すると、それに対する土の性能が発達するのです。だからその作物を育てる性能がだんだん強くなって来るわけです。丁度人間と同じ事で、新しい土にやると、土そのものがつまり素人なのです。ところがいろんな物をだんだん作ると、土にそれを育てる力が出て来るわけです。職工なら熟練工になるわけです。これを分りやすく言うと、年々土の養分が増えてゆくわけです。だから今平年作は六千三百万石ですが、一年か二年たつと五割増産になるでしょう。それから五、六年過ぎると十割増産になり、もっと過ぎてゆくと二十割、三十割というようになってゆきます。それは嘘のような話ですが、神様は土も稲もチャンとそういうふうに作られているのです。というのは人間は何処までも増えますから、人間の増え方が無限だから、そうすると人間が食う米もやはり無限なのです。そういう結構なように神様が造られたのに、人間がとんでもない事にしたのです。それは丁度人間が薬をのんでだんだん病人を増やしているという事と同じです。(後略)
(御教え集27号 昭和28年10月17日)
「自然農法は一種類に限る・・・連作が最もいい」
【お伺】畑作に於て甘藷の裏作に麦(陸稲も同じ)を栽培するのが定石となつて居りますが、之に準じて実験致しました処、自然農法の成績は余りよくなく、特に麦は悪いのであります。甘藷、麦に限らず一毛作にするのが自然でありましようか。麦収穫後畑は何も作らずあけておいた方がよろしいのでございましようか。お伺い申し上げます。
【御垂示】自然農法は、一種類に限るのであるから、連作が最もいいのである。土は無肥料によると、土自体は自由自在に力の発揮が出来るから、一種類に対して、それを生育させる力が益々加わる。処が外の種類を混ぜると、土は新規蒔直しになるから、どちらも成績が悪くなるのは当然である。之で判つたであろう。
(地上天国32号 教えの光 昭和27年1月25日)
「連作すれば米も分蘖する---肥毒があるうちは駄目」
「水稲一年目で、副穂が出て、三年目になると殆んど出なくなります。土地の肥毒が取れるに従つて、益々良くなる程、副穂が出ると思つて居りましたが、効果は反対で――」
今迄、副穂では実らなかつたんですか。
「多い方で三十粒で御座います。一旦出なくなり、それから先は分りません」
先のは、有肥の副穂で、今度は無肥になる。未だ出ないけれども、いずれは出るだろうと言うんですね。それは出るでしよう。本当になるんだからね。つまり。今迄中毒にかかつているからぼんやりする。それが本当になるから、出るでしよう。今度出ると、三十粒やそこらじやない。ずつと多くなる。本当に肥毒が無くなつてから出るのは本当のものだからね。何しろ、肥毒がなくなれば、非常に沢山出来るんだからね。野菜でも、こんなに沢山出来る様になるかと思う位に出来ます――土の活力と言うのはね。肥毒の抜けた土で、何度も作つていくと、年々作物を良くする様な力が出ていく。それは五年以上でなければならないが、そうなれば今の倍位は何でもない。だから、連作でなければいけない。連作だと、そう言うのは段々良く育つて来る。土の力を出すと言う事はそう言う事なんです。一つ物を作ると言うのは、段々土地の力が出て来る。力が旺盛になつて来る。
「最近出て、段々出なくなりますのは――」
それは、今迄の中毒が段々取れて来る。酒飲んで威張つている奴が、禁酒するとぼんやりになるでしよう。飲まないで元気になるのは、之は本当だ。
「有肥では全然出ません。」
ああそうですか。すると一寸違うな。それは、肥料のかけ方に因るな。丁度、こう言う理窟になる。肺病になるが、浄霊すると一時良くなるでしよう。それから暫く立つと、良くなつて喜んでいると、再浄化が起る。その理窟です。肥毒でひどい目に遭わせて穫るから、一時良くなるが芯から良くなるのではないから、肥毒の害丈は現われる。そう解釈するのが本当ですね。
「初めての年は、肥毒の為に苗の伸びが遅く、八月過ぎから急に伸びるので、分蘖が間に合わないので、出ると言う事を言つて居りますが――」
それも理窟だね。それは良い。今の枝と言うのは分蘖ですよ。結局分蘖ですよ。下から分蘖するのを、肥毒がある為に出なかつたのが、下は育つちやつて間に合わないので、上に出る。ありそうな事ですね。
(御垂示録5号 昭和26年12月8日)
「連作について・・・二毛作はいけない」
それから土について前にも言いましたが、強く言ってないので、今度栄光にも出そうと思ってますが、土に対して連作という事が大変な意味があるのです。米なら米を毎年作っていると、土そのものに米がよく育つような性能が自然にできて来るのです。だから麦との二毛作はいけないという事はそのためです。折角土が米を育てるような性能になったところに麦をやると、ガラッと変って来る。そうすると今度は麦を育てる分子になる。というわけで、二毛作はいけないのです。これは分り易く言うと、人間が仕事をするにも、一つ仕事をやっていると職工なら熟練工になるわけです。毎年同じ土で一つ物を作っていると、つまり熟練工になるわけです。時間がかからずに良い物が出来るというわけです。新しい土というのは素人というわけです。そこで毎年やっていると土が熟練して来て、その性能が増して来るのです。ところが折角熟練工になった土を、たまたま肥料をやったりしては元の木阿彌にしてしまうわけです。(後略)
(御教え集26号 昭和28年9月16日)
「客土と連作について」
それから土の事ですが、さっき藤枝さんから聞いたのですが、中京で花物を作っている所で、非常に成績が良いところは毎年客土をするのだそうです。ところが客土というのは、つまり肥毒のない純粋の土だからよいわけです。しかしそういう面倒くさい事をするという事は、やっぱり肥料をやっているから客土の必要があるので、肥料をやらなければその土自体が客土と同じ事なので、そういう点が徹底してないので、やっぱり肥料迷信が取り切れないのです。ところが客土をしただけでは本当から言うとまだ足りないのです。その土自体が活動を起こすという事を知らないのです。この事は私はざっとは書いてありますが、充分に書いてないから、まだ本当に分るところまでゆかないかも知れませんが、ある作物を作ると、毎年連作をする事によって土自体にその作物を作る力、その作物に適当した力が発生するのです。そこで一つ所に一つ物を作っていればだんだん増えるのです。ところが今までの農家は、畑の物は連作はいけないと言って始終変えてゆきますが、これは全然あべこべなのです。連作がいけないというのなら、一体稲はどうしたものかと言いたいです。稲は連作をやってます。連作がいけないものなら、稲はいけなくなるはずです。それなのに畑は連作はいけないと言っているのです。茄子はいけないと言ってますが、茄子などは連作にすると、とてもよく出来ます。実際迷信というものは恐ろしいものです。そういう訳で、土が変化して作物に対して適当した養分が生まれて来るのです。ですから客土は悪い事はないが本当から言うと足りないのです。その理窟が分らないのです。それで百姓が客土をする理由というのは、一つ土で作っていると土の養分を吸ってしまうから客土するというのですが、それは養分が抜けるのではなくて、肥料を入れるから駄目になるというので客土するというわけで、それに気がつかないのです。そういうようで土の能力を発揮させると、稲なども倍くらいは何でもありません。
(御教え集24号 昭和28年7月6日)