第四章 浄化作用と再浄化

 浄化作用の原因についてメシヤ様は三つの原因をあげておられます。一つ目は悪の心言行から霊体に曇りが生まれ、それが肉体に移写してさまざまな病気や災難にあう、そのことによって浄化される場合です。二つ目は、薬剤や注射、食品添加物をはじめとする、人間の体に入れてはならない異物、それが体内の各所に集溜し、それが原因となって浄化が起こる場合です。
 また生きている人間は、それぞれの先祖と霊線を通じて深いつながりを持っています。先祖は日々霊界で、生前に犯した罪の清算がなされており、その先祖から霊線を通じて絶えずその霊悪阻が子孫に流れてきていますので、それが曇りとなり、さらに浄化となって現れます、これが三つ目の原因です。
 ここではそのことについて、詳しく学びたいと思います。

「霊主体従が万有の法則」

「(前略) 人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それが又体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯の作用であり、後者は霊主体従の経の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭すれば病気は治るに決っている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字の如く霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。従ってこれ以外の療法は悉く非医術である事を知るべきである。以上が病原と治療との根本原理であって、一言にしていえば病気とは外部に現われた症状であり、病原は内部にある曇りである以上、この解消こそ真の治病法である。処がその理を知らないが為医学は現われた症状さえ除けばいいとしているので、仮令効果があってもそれは一時的で、必ず再発するのは医師も常に経験している筈である。(後略)」   

(「浄霊は科学療法なり」栄243号  昭和29年1月13日)

   

「曇りの原因は二種類ある」

「(前略)人霊に溜った汚穢即ち曇りであるが、之は透明体である人霊に、不透明体の部分が発生する。そうして此原因には二種類ある。一は霊自体に発生する曇りと、二は体から移写される曇りである。先づ前者から説いてみるが、人霊の内奥は求心的三重になっている。之を中心から逆に遠心的に説いてみれば、中心は所謂魂である。魂とは人間が此世に生れる場合、最初男性を通じて女性の腹へ宿るのである。処が魂を包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であるから、魂の如何は其儘心を通じて霊に反映すると共に、霊の如何は心を通じて魂に反映する。此様に魂と心と霊とは相互関係で三位一体である。勿論如何なる人間と雖も、生きている間善も行えば悪も行う。その場合善よりも悪が多ければ、差引多いだけが罪となり、それが魂へ反映して曇りとなる。為に心が曇り、霊が曇るという順序である。すると浄化作用発生によって曇りの排除が行われる。其過程として一旦曇りの容積は縮小され、濃度化し、体内の何れかの局所に集結する。面白い事には罪によって固結場所が異う。例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸というように相応するのである。
  次に後者を解いてみるが、之は前者は反対で、体から霊に映るので、其場合最初血液に濁りが生じ、其通り霊が曇る。元来人体は霊の物質化したものが血液であり、其反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊体は一致している。従而、濃度化した曇りが体に映ると濁血となり、それが一層濃度化したものが固結であり、此固結が溶解され液体となって、身体各所から排除されようとする。其苦痛が病気である。
  そうして体からの移写とは、勿論濁血のそれである。然らば何故濁血が出来るかというと、此原因こそ実に意外である。というのは医療の王座を占めている薬剤そのものである。即ち薬とは全部毒であるから、薬を体内に入れるだけは濁血が作られるという訳で、何よりも事実がよく證明している。それは病気が医療を受け乍ら、長引いたり、悪化したり、余病が発るというのは其為で、別に不思議はないのである。
  そうして体にある濁血が、霊へ映って曇りとなり、之が病原となるとしたら、実は病気を治す方法自体が、病気を作る方法という事になる。処が万有の法則は霊が主で、体が従であるから、病気は霊の曇りを解消しない限り、全治しないのは当然である。処が我医術は此原理の応用であるから、霊を浄める事によって、病気は根本的に治る。それで浄霊というのである。(中略)」 

                 (「霊主体従」結革  昭和26年8月15日)

  

「凡ての苦しみは浄化」

「(前略)凡ての苦しみは浄化です。それで霊の曇が除れるのです。そこで今迄の宗教での難行苦行というのが、その方法なのです。というのは、普通世間で苦しむのは、止むを得ずなるのです。苦しみの方がぶつかって来るのです。処が難行苦行というのは、自分で一生懸命苦しむのです。それでも魂が磨けるのです。(中略)
そこで人間は、その曇を出来る丈除ると、健康になるばかりでなくやつぱり頭が良くなります。そこで頭を良くするのに、つまり曇り除るのに難行苦行をしなくても除れるというのは恐らくメシヤ教丈だろうと思います。之はつまり天国的宗教、昼間の宗教だから、明るいから早く曇が除れ、魂が磨けるから智慧正覚が得られるというわけです。(後略)」
                          

(御教え集15号  昭和27年10月6日)
  

「病気は大いに歓迎する」

「(前略)吾々の方では病を大いに歓迎してゐる。例えばお陰様でやっと風邪を引きました。先日は酷い下痢と嘔吐があって、それから迚も躰の工合が好くなりましたとか、やっと熱が出たからもう大丈夫だと、仕事に取掛るといふやうな有様を見たら腰を抜かすであらう。之こそ病の根本が分ってゐる為と、必ず治るといふ自信があるからで、此境地こそ文字通りの安心立命を得た幸福者である。故に此世界から薬剤全部を海へ投げ棄てるとしたら、その時を限りとして病は漸次此世界から消滅するのは、断言して憚らないのである。(後略)」
                            

(「病気を治す方法」昭和28年)

 

「病気とは、長寿を保つ為の神の最大なる恩恵」

「(前略)病気とは、造物主が人間に与へた最大な恩恵であって、人間は病気に罹るが為に健康を保持し、長寿を保ち得るのであって、此真諦が判れば、神に感謝せずにはおれないのである。(後略)」                      

 

(「病気とは何ぞや」昭和14年)