第五章 霊的知識を深める
これまで我々にとって大切な、数多くのメシヤ様のお言葉を学んできましたが、この章では、さらに重要な目に見えない霊界及び霊的事象について学んでいきたいと思います。
この章の学びを通して、霊主体従の法則や霊体一致の法則をさらに深く学ぶと共に、子孫と先祖、我々と祖霊との関係を明確にした上で、真向かう姿勢を見つめ直し、それを日々の生活の中に活かした、信仰者らしい生活態度、霊主体従の生活を送っていただきたいと思います。
「霊の実在を知らなければ空虚な人間でしかない」
「(前略)当時私は事業に相当成功し得意の絶頂にあったが、悪い部下の為大失敗し、其上先妻の不幸に遇ひ、破産もし、数回の差押へをも受ける等、惨澹たる運命は私を奈落の底に墜して了った。其結果大抵のものの行くべき所へ私も行ったのである。それは宗教である。私も型の如く神道や仏教方面に救ひを求めざるを得なくなった。それが畢に神仏の実在、霊界の存在、死後の生活等、霊的方面の知識を得るに到って、以前の自分を省み、其愚を嗤ふやうになったのである。其様な訳で、目覚めてからの人生観は百八十度の転換をなし、人は神仏の加護を受ける事と、「霊の実在を知らなければ空虚な人間でしかない」事を悟ったのである。又道徳を説くに当っても「霊の実在を認識させなければ無益の説法でしかない」事も知り得たのである。此意味に於て読者よ、順次説く所の霊的事象に対し活眼を開かれん事を望む次第である。」
(「神仏はあるか」 昭和22年2月5日)
「霊的事象を深く知らない限り真の安心立命を得られない」
「(前略)私は、霊的文化の飛躍によって、人類に対しー大覚醒を促がさんとするのである。とはいえもともと霊的事象は人間の五感に触れないものであるから、この実在を把握せしめんとするには非常な困難が伴なうのである。しかしながら、無のものを有とするのではなく、有のものを有とする以上、目的を達し得ないはずはないと確信するのである。
そうしてこの霊的事象を信ずることによって、いかに絶大なる幸福の原理を把握し得らるるかはあまりにも明らかである。ゆえにいかなる信仰をなす場合においても、この霊的事象を深く知らない限り真の安心立命は得られないことである。(後略)」
(「霊界叢談序文」 昭和24年8月25日)
「本教の主宰神は主神」
「(前略)特に本教独特の浄霊法であるが、この方法による病気治しの成果は、到底信ずることは出来ない素晴しさであるのは、一度本教に触れれば直ちに分るのである。成程今日まで信仰的病気治しの行り方は色々あるにはあるが、それは神仏の間接的御利益と自力との二つであるばかりか、神仏といえども二流以下の資格であるから、ある程度以上の力は発揮出来なかったのである。ところが本教の主宰神は主神である以上、揮われる力は絶対力である。何よりもすべての宗教が病院を作っているに拘らず、本教のみは作っていないにみてわかるであろう。(後略)」
(「一人が百人」 昭和28年1月21日)
]「礼拝する御神格が高い程、人間の霊魂はより向上する」
「(前略)抑々人間が、信仰的信念を以て拝む場合、其本体即ち、的である処のものは、飽迄も崇高なる神格と、正しい第一義的の神霊でなくてはならないのである。それは、如何なる意味かと言ふと、崇敬し、拝跪すべき御神霊は、人間よりも、霊的段階の最上位の御神格程良いのである。何となれば、常に礼拝する御神格が高ければ高い丈、人間の霊魂はより向上すべきものなのである。
此理に由って、鰯の頭を拝めば、鰯の頭以下の霊格に墜ち、狐狸を拝めば、四ツ足以下に墜ちるのは当然である。故に斯ういふ低級信仰を続けるに於ては、不知不識、其人の心性は四ツ足以下に下劣となり、利己的となるものである。其結果、善に属する事よりも、悪に属する行為をし勝ちになり、それが又、罪を構成するから、其罪に由って何時かは不幸を招き、悲惨な境遇となるのである。故に熱心な信仰をしながら、不幸や病気、災難などに、次々悩まされるといふ訳は、其信仰の的たる神霊が、実は、低位の神か又は邪神系統に属する神なのであるから、其点を充分注意しなければ、反って信仰すればする程、不幸な境遇に陥るのである。
真に正しい、高位の神仏を信仰、礼拝するに於ては、月日を経るに従ひ、病人は無くなり、物質は豊かになり、一家円満にして、自然に栄えてゆくものである。然し、斯ういふ信仰は洵に少いので、世の中を見渡しても、殆んど見当らない位である。
大抵の信仰は、如何程信仰しても、不幸が消えないので止むを得ず、不幸は神の試練だとか、罪障消滅の為だとか、種々苦しい言訳を作り、果は不幸を楽しむのが、真の信仰に徹底した人の如に謂ふ様になったので、実に間違ひも甚しいのである。(後略)」
(「鰯の頭も信心とは 大いなる誤りである」 昭和10年)
「今までの神様はみんな枝の神様」
「(前略)神様に対する観念、見方というものを本当に知らないのです。という事は、昔からの宗教で神様を見る神霊観というか、その本当のものが出来てないからです。そこで神様の方も今までの神様はみんな枝の神様ですから、神様の考え方もまだ本当のところに行っていないのです。だから今までの神様というと、大抵天狗とか狐とか龍神が多いです。ですから本当言うと、神社が百あると、本当の神様は十も難かしいでしょう。あとはみんな邪神系です。邪神系でなくても、邪神のために神様が瞞まされているのです。そういう神様も沢山あります。そこで本当に縋れるという神様は幾らもありません。それでむしろボロボロになった神社で、あんまり構われないような神社に、よく本当の神様が居ります。(後略)」
(御教え集23号 昭和28年6月27日)
「正神と雖も、神格の高下によって光の強弱がある」
「(前略)神仏と雖も正邪があり、正神からの霊線は光であるから、常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、邪神は光処か一種の悪気を受ける事になるから、思想は悪化し不幸の人間となるのである。故に信仰する場合、神仏の正邪を判別する事が肝要である。又正神と雖も、神格の高下によって光の強弱がある。そうして高位の神仏程その信徒に奇蹟の多いのは、霊線の光が強いからである。(後略)」
(「霊線に就て」 昭和24年1月25日)