第三章 信仰の向上を図るために
2、幸福になるには
前項では、信者としてメシヤ様に繋がることが許された、我々の自覚、因縁使命の自覚について、学びましたが、どのように感じられたでしょうか?
この項では、使命を果たしつつ幸福を掴むための、拠り所となる大切な御教えを学んでいきましょう。
「人間は理想世界を造る役目で生まれたもの」
「(前略)本来人間というものは神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。(後略)」
(「御神意を覚れ」 昭和28年12月2日)
「健康こそ幸福の根本」
「(前略)幸福を希はぬ者は一人もあるまい。全く幸福こそ、人間の欲求としての最大のものであり、最後の目標でもあらう。そうして幸福の最大条件としては、何といっても病気の無い人間、病人の無い家庭之以外にないであらう事は余りに明白である。然し乍ら、今日迄の世界に於て、全く無病たり得る事は不可能であるばかりでなく、現在健康であっても、何時如何なる場合に何等かの病気が発生するかも知れないといふ不安は何人と雖も抱いてゐるのである。而も、偶々病気に罹るとして、それが容易に治癒すべきものであるか、或は、容易に治癒し難いものであるかといふ事も全然予測がつかないのであるから、実に不安此上もないのである。其様な理由によって、順調な境遇にある人も成功者になった人としても病気に対する不安がある為、真の幸福に浸り得られないといふのが事実である。(中略)
従而、国家が如何なる理想的政治を行ふも人間の病患を解決なし得ない限り、国民の真の幸福はあり得ないのである。洵に健康こそ幸福の根本であり、否幸福の全部であるといっても可いであらう。然るに今日迄、根本的に病患の解決をなし得る医術も方法も、全然無かった事である。
私は、大言壮語するのではない。私の創成した日本医術と健康法によれば、人間をして病患の不安から解放なし得る事は、既に述べた通りである。故に私は、私の医術を知る人にして初めて幸福人となり得るといふ事を断言するのである。何千年以来、人類が要望して熄(ヤ)まなかった所の“幸福への道”は、既に拓かれたのである。」
(「幸福への道」 昭和17年9月28日)
「信仰を徹底する以外、幸福者となる方法はない」
「(前略)悪が勝てば罪を犯し不幸を生み、善が勝てば幸福を生むのは、将に判然としているんだから訳はない様だが、人間はそれが判っていて、実行が出来ない、特に無信仰者程そうである、そこへゆくと信者はよく知っているから、悪に負ける事は極めて少ない、とは言うものの実は容易の業ではない、勿論悪をさせるのは副守護神であり、善をさせるのは正守護神であるが、それ以上絶対善の命令者が本守護神であるから、結局本守護神の威力を増すようにする事で、之が根本的悪を征服する力である、だから人間は此力を育てるように、常に心掛けるべきで、その唯一の方法が神様を拝み、信仰を徹底させる事である、之以外幸福者となる方法はないのである。」
(「自分の悪に勝て」栄109号 昭和26年6月20日)
「信仰の徹底が幸福になる近道」
「(前略)本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。
要するに、御利益を得たい為、無理に信じようとするのは、低級宗教であって、疑っても信じないでも、神様の方から御利益を下さる、之が高位の神様の證拠である。」
(「宗教即奇蹟」 昭和26年4月11日)
「霊衣を厚くするほど幸福になる」
「(前略)人間は霊衣を持っており、それが厚くなるほどいい。厚くする程仕合せになる。不仕合せの時など殆どなくなる。霊衣を厚くするには多くの人を幸福を受ける状態に導く。すると感謝する、すると光になってくるから霊衣が厚くなる。 (後略)」
(昭和23年)
「(前略)霊衣の厚薄は人間の運命に大関係がある。即ち霊衣の厚い人程幸福であり、薄い人程不幸である。又霊衣の厚い人は温か味があり、接する人に快感を与え多くの人を引つけるが、それは霊衣に包むからである。之に反し薄い人に接すると冷く感じ、不快、寂寞(セキボク)、長く居るを欲せざる事になる。此様な意味によって人は霊衣を厚くするよう努めるこそ、幸運の基である。(中略)
右の理を考うる時、人間は善徳を積み霊衣を厚くする事こそ、幸運者たり得る唯一の方法である。世間よく、自分は生れながら不運であると諦める人があるが、之等も右の理を知らないからで気の毒なものである。又本医術の治療士も霊衣の厚い者程治病成績が良い。又多くの患者を救う程、その治療士は多数者から感謝を受ける結果、霊衣は弥々厚く多々益々成績優秀となる訳で斯ういう人は私の弟子中に多数あるのである。」
(「霊波と霊衣」昭和22年2月5日)
「(前略)何故に霊衣の厚薄があるかといふ事から解説してみるが、人間は如何なる者と雖も社会の一員とし、社会生活を営んでゐる以上、断えず何事かを想ひ、又何事かを行ひつゝあるのは今更いふ迄もないが、それ等の想念行為を、今善悪の計量器で量るとすれば、人により善悪孰れかが多いか少ないかは当然である。即ち霊衣の厚薄は善悪の量によって、そのまゝ表はれるものである。然らば、それはどういふ意味かといふと、内的と外的との二方面があって、内的は自己が善事を行ふ時善を行ったといふ満足感と、自己賞讃の想念は光を発生するので、霊体に光が増すのである。その反対に悪を思ひ悪を行ふ時は気が尤める。即ち自己叱責の想念によって、霊体に曇が増量するのである。又外的は、他人に対し善事を行った時、其人の感謝の想念は光となって霊線を伝はり、此方(コチラ)へ放射して来るので此方の霊体に光が加入し、増量するのである。その反対に怨み、憎み、嫉み等の想念は曇となって来るから曇が増量するのである。此理によって人間は善徳を行ひ、多くの人から感謝を受くべきであり、決して人を苦しめ、憎悪の念を抱かしむべき事は避けなければならないのである。(後略)」
(「霊波と霊衣」昭和18年10月23日)
「浄まった霊体ほど再生して幸福者となる」
「人間の再生には非常に遅速のあるものである。そうしてその再生の遅速は如何なる理由に由るかといふに、それは其人の意志に由るのである。例へば、死に際し現世に執着をもった者ほど早く再生するのであるが、然し、之は結果が良くないのである。何となれば、霊界なるものは、最も厳正に浄化作用の行はれるものであるから、霊界に長く居れば居るほど浄化され、霊体は浄まるのである。浄まった霊体ほど再生して幸福者となるのである。此理によって早く再生する場合は、汚濁が残存してゐるから、再生の後現世に於て浄化作用が行はれなければならないからである。勿論現世の浄化作用とは、病気、貧乏、災ひ等の痛苦であるから不幸な運命を辿るといふ訳である。故に、生れ乍らにして幸不幸があるといふ事は右の理に由る事が多いのである。故に、決して幸不幸は偶然ではなく、必然である事を知らなければならない。(後略)」
(「再生」昭和18年10月23日)
「現世の幸不幸は、幽体の階級によって定まる」
「(前略)如何なる人間と雖も、自己が計画し企図する事が、常に実際に於て意の如くならない事の多いのは誰もが経験する所であらう。従而予想外な運命や、意外な結果に逢着するといふ事は、実は現世の人間の予想や思念は、幽体の運命に左右されなければならない法則であるからである。又自分自身に対し、眼に見へない或大きな力が常に支配しつつあるやうな感想が大抵の人は有るものである。この支配者とは即ち幽界に於ける支配者即ち神であって、健康、富裕、平和の世界であり、之に反し、下方にゆく程、病気、貧困、争闘等の絶間ない醜悪世界である。その中間帯である八衢が丁度現界に相応してゐるから、現世は健富 和の幸福、病貧争の不幸と入り混ってゐる事は、誰もが知る所である。
右の理によって、現世に於ける幸不幸は、幽体の住する界層の階級によって定まるものである。従而、人間が人為的に如何に幸福を求め、実現しようと努力しても意の如くならないのは、右の理に由るからである。然し、現世に於て斯ういふ例もある。
それは富裕者であり乍ら足るを知らず、吝嗇なる事貧困者と異ならない人があるが、之等は人為的に苦心努力の結果、一時的富裕者となったまでで実は幽体は下層にあるから、斯様な人が死後霊界に往くや、幽体相応の貧困者となるので大いに後悔するものである。故に、幸福者たらんとするには、幽体を上層に住する事より外に道はないのである。(後略)」
(「霊層界と人間」 昭和18年10月23日)
「幸福になるには幽魂を向上さす」
「(前略)人間が真の幸福者たらんとするには、先づ霊層界に於ける幽魂をして向上せしめなくてはならない。然らばその方法如何といふに、それは霊体を浄める一事である。本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。即ち浄魂は軽きを以て上昇し、曇魂は重きを以て下降する。故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。それは相当の時間と犠牲を払はねばならないが、茲に一挙にして、霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。即ち本医術の講習を受ける事である。
本医術受講者が異口同音に言ふ事は、精神的には先づ人生観が一変する。智慧證覚が豊かになって、事物の真相をよく把握し得らる。前途に光明を認め、不安は解消する。楽観的になり、初めて真の安心感を得た。又物質的には不思議に財物が集り、不自由が無くなる。不幸が減り幸福の面が多くなり、実に不思議である。全く救はれた。有難いといふ感謝の声は日々無数に私の耳や眼に入るのである。」
(「霊層界」 昭和22年2月5日)
「(前略)人間は常に善徳を積み、罪穢を軽減し霊層界のより上位に吾が幽魂を住せしむべきで、それによる以外幸福者たり得る道は決してない事を知るべきである。」
(「霊層界」昭和24年8月25日)
「他人を幸福にする事が、幸福になる絶対条件」
「如何なる人間と雖も幸福を冀はぬ者はあるまい。幸福こそ実に人間最初にして最後の目標であるからである。幸福を獲んが為の学問であり修養であり努力であるに拘はらず、満足に掴み得る者は果して幾人あるであらうか。大部分は幸福を獲得せんと思ひ続けつつ反って不幸の境遇にあり、解決の喜びを遂げらるる事なくして不帰の客となるといふのが一般人の現実である。然らば幸福を得るといふ事はそんなに難しいものであらうか、私は否と言ひ度いのである。
抑々幸福とは、病気貧乏闘争、此三大問題の解決が基本である事は誰も知る処であるが言ふは易く実現は難く大抵は諦めるの余儀なきに至るのである。一切は原因があって結果がある。勿論幸福とても同様であるとすればその原因を先づ知る事こそ問題解決の出発点であらねばならない。
従而その原因に不明である以上、何程努力しても実現の可能性はないに決ってゐる。然らばその原因とは何か、それを私は述べてみよう。昔から言ふ処の善因善果、悪因悪果とは実に千古を貫く真理である。此理を知って他人を幸福にする為に努力する事こそ、自分自身を幸福にする絶対的条件であらねばならない。処が世の中には他人の不幸を顧みずして自分だけが幸福にならうとする人間があまりにも多い事である。一方不幸の種を播きつつ幸福の実を得ようとするのであるから、全く愚かな話である。恰度水を押すと手前の方へ流れ、引くと先へ流れるのと同様である。(後略)」
(「幸福」 昭和23年12月1日)
「幸福の掴めない原因は、自分の心にある」
「(前略)神様に御気に入られるといふ事は一体どうすればよいか。之が一番肝腎である。先づ神様の御気に入られるには神様の御嫌ひな事はやらない事で、その反対に神様の御気に入る事を一生懸命やるようにする事である。之は誰でも常識で考えても判るように神様のお嫌ひな事といえば道に外れる事で、即ち嘘を吐く事、他人を苦しめる事、社会に迷惑をかける事などである。処が今日の人は他人はどうなっても自分さえよければよいと思ひ、それを行動に表はすのがあまりにも多い事である。之が一番いけない。これでは神様のお気に入る筈がない。
之に就て自分は今神様のお気に入られてゐるか、或は嫌はれてゐるかといふ事を知らなければならない。それならどうして判断するかといふ事であるが、これを知る方法は実に簡単で、何等の手間ひまも要らない。すぐ判る。それを書いてみよう。
自分はどうも思うようにゆかない。物質に困る、仕事が発展しない、人の信用が薄い、人があまり寄って来ない、健康も面白くない、之ほど一生懸命にやってゐるのにどういふ訳だ か判らないといふ人がよくあるが、之こそ神様の御気に入らないからである。神様の御気にさえ入れば仕事は面白いように運び、うるさい程人が寄って来る。物質は使ひ切れない程入って来るといふ訳で、世の中がとても面白くなるといふ訳である。
之でほぼ判ったと思ふが、斯ういうような幸福者となる事こそ初めて信仰というものの価値があるのである。故に折角信仰をしながら幸福がもし掴めないとしたら、必ず自分の心に原因が潜んでゐる事を覚るべきである。」
(「神に愛される」 昭和24年5月25日)
「常に感謝する人は幸福者になる」
「感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ、何となれば感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずるからだ、此理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ、大本教のお筆先に曰く「喜べは喜び事が来るぞよ」とは正に至言である。」
(「人間は想念次第」 昭和24年9月3日)
「幸福の秘訣は、他人を幸福にする事」
「幸福の秘訣などというと、何か特別の魔法でも使ふように想ふかも知れないが、決してそうではない、(中略)その方法はといへば常に吾々のいう、他人を幸福にする事で、ただ此一事だけである、処がそれには最もいい方法がある、その方法を私は長い間実行していて、素晴しい好結果を挙げているので、それを教えたい為に此文をかいたのである。
右を先づ簡単にいえば、出来るだけ善事を行うのである、始終間さえあれば何か善い事をしようと心掛けるのである、例えば人を喜ばせよう、世の中の為になら妻は夫を気持よく働かせるようにし、夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする、親は子を愛するのは当然だが、叡智を働かせて子供の将来を思い、封建的でなく、子供は親に快く心服し、愉快に勉強させるようにする、其他日常凡ての場合相手に希望をもたせるようにし、上役に対しても下役に対しても愛と親切とを旨とし出来る限り誠を尽すのである、政治家は自分の事を棚上げにして国民の幸福を第一とし凡て模範を示すようにする、勿論、一般人も一生懸命善事を行う事につとめ智慧を揮ひ、努力するのである、斯様に善事を多くした人程幸福者になる事は受合である。
(中略)処がだ、現在としての現実はどうであろうか、凡そ右と反対で、悪事を一生懸命しようとする人間が滔々たる有様で、嘘をつき人を誤魔化し、己のみうまい事をしようとして日も之足らずの有様である、実に悪人の社会といっても過言ではない、これでは幸福などは千里の先へ行きっきりで帰る筈はない。其上困った事には、斯ういう地獄世界を当然な社会状態と決めてしまって、改革などは夢にも思わないのである、而も吾々が斯ういう地獄世界を天国化すべく活動するのを妨害する奴さえある、之こそ自分から好んで不幸者となり、最低地獄へ落ちるようなものである、斯ういう人間を吾等からみる時、最も憐むべき愚人以外の何物でもないと共に吾等は之等の人間の救われん事を常に神に祈願しているのである。」
(「幸福の秘訣」 昭和24年10月1日)
「人間幸福を得たければ、人を喜ばせ、善を行う事」
「(前略)人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。然し之とても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、之こそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間は之を信じ、之に従うより外はない。右の通り曇りの浄化作用が病気其他の災いの因としたら、人間幸福を得たければ悪を廃め、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。」
(「毒素の解剖」昭和27年12月1日)
「(前略)多くの善根を施し、多数者から感謝感激の想念を受くるとすれば、その想念は光となって、その人を囲繞するから、いよいよ有徳者となり、悪霊邪神もその光に恐れて近づき得ない以上、大いなる幸福者となるのである。」
(「霊界の不思議」昭和24年10月25日)
「幸福者たらしめる一つの要素」
「(前略)私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、殆んど道楽のようになっている。私は常に如何にしたらみんなが幸福になるかということを念(おも)っている。之に就て斯ういう事がある。私は朝起きると先づ家族の者の御機嫌はどうかという事に関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。此点は世間と反対だ。世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかに就て、何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で、罵詈怒号(バリドゴウ)のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりする事が何よりも辛いのである。又一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこ迄も平和的、幸福的で執着を嫌う。之が私の本性である。
以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって、私は、「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない。」と常に言うのである。
私の最大目標である地上天国とは、此私の心が共通し拡大される事と思っている。」
(「私というもの」 昭和25年1月30日)
「幸福は、健康の二字に尽きる」
「(前略)如何なる人間と雖ど幸福を冀はぬ者は一人もあるまい。凡ゆる幸福条件が具備されたとしても、ひとり健康を得ないとしたら、その幸福は零以外の何物でもない。キリストは曰った。「人、全世界を贏(モウ)くとも、己が生命を損せば何の益あらん。又その生命の代に何を与えんや」とは宜なる哉である。実に健康程貴重なものはあるまい。人生幸福の全部は、健康の二字に尽きるといってもよかろう。」
(「救世主」 昭和25年11月20日)
「幸福になるには霊を浄め軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべき」
「(前略)人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのは之が神の天則であって霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、茲に浄霊の大いなる意義があるのである。」
(「浄霊と幸福」 昭和27年3月25日)
「調和と不調和を知ることが幸福になる秘訣」
「(前略)抑々此大宇宙の一切は悉く調和していて、寸毫も不調和はないのである。従って人間の眼に不調和に見えるのは表面だけの事である。何となれば不調和とは人間が作ったものであって、其原因は反自然の結果である。即ち大自然からいえば、反自然によって不調和が出来るのが真の調和であり、之が厳正公平な真理である。此意味に於て人間が天地の律法に遵(シタガ)いさえすれば万事調和がとれ順調に進むのである。
右の如く不調和を作るから不調和が生れ、調和を作るから調和が生れるのが自然の大調和であるとしたら、人間は之を深く知る事で、之に依て幸福者となるのである。(後略)」
(「調和の理論」 昭和27年10月1日)
「不幸の原因は薬剤と罪の行為」
「今の世の中を地獄その儘といっても、否といふ人は一人もあるまい。何処を見ても不幸不運な人ばかりで、此人こそ本当に幸福に恵まれてゐると思うやうな人は、薬にしたくもないのが娑婆の姿である。そのやうな世の中が続いた為、人間は之が常態と心得、諦めて了ったのである。彼の釈尊が曰はれた生病老死の四苦にしても、どうにもならない人間の宿命とされ、此悟りが仏教の真髄とさへなってゐたのである。処が之は甚だ間違いであるから、之を打破るべしと曰うのが我救世教の本領である。というのは本教によれば人間の如何なる不幸でも容易に解決されるから、宿命などと諦める必要はないのである。といったら余りに意外な説に唖然とするであらうが、何よりも事実が雄弁に物語ってゐる。何人と雖も一度本教に入るや、忽ちにして病難を始め凡ゆる苦悩は火で焼き、水で流す如く解決されるからで、勿論不幸も幸福に転化するのである。(中略)
いつもいう通り人間は見える肉体と見えざる霊体との両面から成立ってをり、肉体は現界に属し、霊体は霊界に属してゐるのである。処が此霊界なるものは特殊の人を除いて、大部分の人は今日まで全然分らなかった。何しろ目に見えず、手にも掴めない以上無理はないが、それというのも科学万能主義になりきってゐるからである。というのは科学が進歩さへすれば、幸福は増進すると思ってゐるからである。処が実は進歩すればする程、逆に幸福とは遠ざかり、地獄社会となるのである。つまり根本は霊の有無即ち唯心か唯物かである。その証拠として若し霊が無いとしたらどうなるかというと、科学と雖も行詰って進めないのは、今日迄の有能な科学者の殆んどが一致した考へ方である。(中略)
処が私は神示によって之を知った以上、絶対間違いはないので、之を詳しく説明してみよう。抑々霊界なるものは地上の空間にあり、天国界、中有界、地獄界というやうに上中下の三段階百八十段に分れてゐる。それが霊主体従の経の法則によって、霊界に起った事象そのまま現界に移写される。人間でいへば霊が体に移写するのである。そうして人間の霊体は右の段階の何れかに属してをり、夫々の籍があって籍の地位通りの運命となる。即ち地獄界に籍があれば不幸となり、天国に近づくに従い幸福者となるのであるから、出来るだけ籍を上段に昇らせる事である。地獄とは勿論病気、貧乏、争いはじめ、凡ゆる苦悩が渦巻いてゐる以上、その通りになるので、私は之等を救うべく一人々々を天国に引上げてゐるのである。では何故地獄に堕ちるかというと、それは霊を曇らせるからである。では曇りとは何かというと、之には二種類あって、一は薬剤、二は罪の行為である。即ち薬剤は血液を濁すから、霊体一致の緯の法則によって曇るのである。又二の罪とは恨み、憎み、妬み等々で人間の法則と神の律法とを犯すからである。処が之を知らない人間は、苦悩から免れやうとして人為的物質的手段にのみ頼るので、全然見当違いであるから、何程骨を折っても無効果であるのは当然である。
而も此理を知らすべき機関が宗教であり乍ら、宗教家もそれを充分弁へないばかりか、事実を以て示す力もないのである。処が喜ぶべし、その絶対解決法が生まれたので、それが我救世教であるから、茲に人類待望の幸福世界、即ち地上天国実現の運びとなったのである。」
(「地獄と天国」年代不詳)
「不幸の原因は薬」
「(前略)人間の不幸、不仕合せというものの原因は何かと言うと、薬なのです。ですから薬が無くなれば人間は幸福になります。幸福になれば世界はよくなるからミロクの世になるのです。ですから薬を無くすればミロクの世は出来ると思えば間違いありません。それほど薬というものは恐ろしいものです。(後略)」
(御教え集18号 昭和28年1月6日)
「病気以外一切の苦悩を薬が作る」
「(前略)それから、丁度薬のついでですから言いますが、薬が不幸を生むという事も知らなければならないのです。薬を飲むと血が濁るという事はみんな知ってますが、そうすると霊が曇る。霊が曇ると霊界の地位が低い所になりますから、どうしても地獄になるわけです。だから今の世の中が悪い世の中で、幸福な人は殆んどないです。それからそれへと不幸ですが、不幸だという事は霊的に霊界における階級が低くなるから、そこで嫌な苦しみや災難が来るわけです。その因というのは薬ですから、要するに薬が人類の不幸を作っているわけです。薬によって病気を作るどころではなく、病気以外一切の苦悩を薬が作るわけですから、薬というものは実に恐ろしいのです。そこで人類から薬というものをどうしても無くしなければ良い世界というのは出来るわけがないのです。(後略)」
(御教え集32号 昭和29年3月6日)
「困る事が多いという事は、霊界の地位が低い」
「(前略)運が良くなるという事は、どうしても霊的地位が上に行くという事なのです。だからして“どうも思うようにゆかない、困る事が多い”という事は、結局自分の霊界の地位が低いからです。(後略)」
(御教え集30号 昭和29年1月27日)
「霊的地位が上るという事が一番」
問:「貧の御浄化という場合に、曇がある為に抜けられないという状態でございますが、御用を励まさせて戴きますと、その為に……」
答:「それは霊界の地位によるのです。貧乏しているのは、貧乏をする地位にいるのです。ここの層は貧乏の人の霊界です。そこにいるという事は、それだけのものがあるからです。そうして上に上って、ここは貧乏が大分楽な世界になるのです。ここ(更に上層)に行くと、もう豊な人の世界です。そういう様なもので霊界の地位の問題です。だからどうしても仕様がないのです。それで地位を上らなければならないのです。地位を上げるには浄まらなければならないのです。その為には自分が苦しむとか、人を助けるその手柄その働きによって早く上にあがって行くという事です。だからこの辺に行けば物質に恵まれ、良い事の世界なのです。又ここまでには時期が行ってないから、この辺(一寸下層)までは行けるのです。結局霊的状態、霊的地位が上るという事が一番です。」
問:「よく明主様が頭が悪いという事を仰言いますが」
答:「それもそうです。丁度山と思えば良い。ここよりもここ(少し上)に行けば良く見えます。頭が悪いという事は、ここ(下層)に居れば一寸しか見えないからです。ここ(最上部)に行けば何でも見えるから、頭が良いというわけです。」
(御垂示録16号 昭和27年12月1日)
「無信仰者に幸福は絶対ない」
「之から運命に就てかいてみるが、茲で知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。然し之は全然違うのでそれをかいてみるが、宿命とは生れ乍らに決ったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、此点を知らなくてはならないのである。誰でもそうだが、いくらあゝしたい、斯うなりたいと思っても、仲々思うようにゆかないのが、前記の如く人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。従って人間は自分の有って生れた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、実は之が仲々難しいので、寧ろ不可能といってもいゝ位である。
此限度が分らない為、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。(中略)
それに就ては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。凡ての悩み苦しみの因は悉く浄化作用である。
例えば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。此様に普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或程度魂が浄まれば、浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。之が真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。
処が前記のように苦しまないで魂が浄まる其方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。併し信仰にも色色あるから、立派な力のある信仰でなくては、真の幸福は得られない。そこへゆくと我メシヤ教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。」
(「運命は自由に作られる」 昭和27年10月25日)
「幸運者になるには善の種を蒔く」
「人間は昔から好いにつけ悪いにつけ、どうも運命だから仕方がないと、諦めたがる癖があり、運命というものは不可抗力なものと決めているのは、誰も知る通りである。処が私は運命は誰でも、自由自在に変えられるという事を教えようと思う。というのは元来運命は人間が作るように出来ているもので、此真相が分ったなら、此の世の中は悲観処か大いに楽観していいのである。
言う迄もなく精神病者でない限り、どんな人でも不幸な運命にはなりたくない、何とかして幸運を掴みたいと思うのは当り前な話で、其為血の汗を絞り、命を的にして迄も一生懸命になっているのは、人間通有の欲望であるにも拘わらず、本当に幸運を掴み得る人は、果して幾人あるであろうか、先づ百人に一人も難しいといってよかろう。(中略)
では幸運者となるにはどうすればいいかと言うと、分り切った話であるが、善の種を蒔けばいいので、昔からいう善因善果、悪因悪果の言葉通りであるから、悪の種とは人を苦しめ、損害を与え自分さえよければ人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人を喜ばせ、他人に利益を与える利他愛観念である。としたら甚だ簡単のようだが、それが仲々難しいので、人世は厄介なものである。
ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守り得られる心を作る事で、そうなれば嫌でも実行するからである。それには勿論信仰より外ないが、茲で注意すべきは単に信仰といっても色々あるから、充分選択しなくてはならないのは言う迄もない。
処で自画自讃ではないが、我メシヤ教こそ其条件に最も合致している信仰であるから、不幸に苦しんでいる人は、一日も早く入信される事を御勧めする次第である。」
(「運命は自由に作れる」栄145号 昭和27年2月27日)
「信仰的脅迫は邪教」
「信仰の自由は、新憲法制度以来そうなったので、之に就ては論ずる必要はないが、私の言わんとする処は、信仰それ自体の自由である。というのは世界中大中小幾多の宗教があるが、例外なく自分の宗教は最高であり、他の宗教は必ず劣るとしているのは誰も知る処であろう。
という訳で他の宗教へ触れる事を極力戒めている。他教は邪教であるとか、コチラの神様のお尤めが恐いとか、二心あっては救われないとかいうのである。それが宗教によっては随分厳しいのがある。万一転向でもすると、大きな災いが来る、大病に罹る、命が失くなる、中には一家死に絶えるというような、縮み上るような事を曰って喰止めようとする布教師もある。之こそ邪教の常套手段であって、勿論此様な事は常識的に見ても、馬鹿々々しいが、本人自身は案外信じて、中々決心がつき兼る。処が斯ういう信仰は新しい出来星の宗教のみではない。相当古い立派な宗教でも、それに似たような事が往々あるのだから不可解である。(中略)
右の如くであるから、私は宗教に就ての自由を言いたいのである。それは信者の意志を制約して、教団の都合を図る事で、之こそ以ての外である。而も其手段として用いるのが言葉の脅迫であるから、茲に至っては最早赦すべからざる信仰的脅迫である。其一例として私は斯ういう事を聞かされた事がある。自分は随分長い間熱心に信仰して来たが、年中病人は絶えず、貧乏の苦しみからも脱けられないので、段々信仰が嫌になったので脱けようとすると、其布教師は恐ろしい事をいうので、どうしていいか分らないで迷っているといって相談をかけられたので、私はそういう宗教は無論邪教だから、一日も早く止めなさいと曰ってやった。然し斯ういう宗教も世間仲々多いようである。(中略)
処で一番困るのは、自分の信じている宗教が最高のものと思い込んで、熱烈な信仰を捧げている人の多い事である。併し之は本当にそう思っているのだから、精神では救われているから御本人だけは満足しているが、それは本当ではない。何故なれば物質面も救われ、霊体揃えて天国的生活者にならなければ、真の幸福ではないからである。
処が其事を知らない盲信者が多いとみえて、一生懸命信仰をしながら、不幸から解放されない人も随分多いようである。右に就て今一つ注意したい事がある。それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、其宗教より以上の宗教があるかも知れないとの懸念の為であろう。というのは其宗教に弱点があるからで、大いに注意すべきである。
そうして自画自讃で言い辛いが、我メシヤ教に限って其点実に自由である。之は信者はよく知っているが、他のどんな宗教にでも大いに触れるべしと云っている。勿論研究も結構で、それだけ見聞が拡まるからである。其結果もしメシヤ教以上のものがあったとしたら、いつ転向しても差支えない。決して罪とはならないからで、本当の神様なら其人が救われ、幸福になりさへすればそれでいゝのである。」
(「自由なる信仰」昭和27年10月8日)
「本当の幸福が得られる主神の経綸、その役目がメシヤ教」
「(前略)私が前に歌で“神や仏を救わなければならない”という事を始終言いましたが、そういった救われる時期がいよいよ来たのです。やはり神様仏様が元ですから、神様仏様が救われなければ、人間は救われないのです。つまり今までの神様や仏様というのは本当の事を知らなかったために間違った教えや事を説いたわけです。(中略)そのために幾ら研究しても本当の事が分らないからして、覚りを開けなかったわけです。又そのために、人間が本当の事を知らなかったのです。つまり文明というものが間違って、それで人間が苦しみ抜いて来たわけです。
例えば医学にしろ、全然間違った事をやっていたという事など、そのために人間が病気で苦しんだり、早死にしたりするという事なども、元は本当の事が分らなかったためです。という事は、本当の事が分ってはいけなかった主神の経綸なのですから、それでよかったわけです。
それをもう本当に分らせて本当の文明を作らなければならないという時期が来たという事も、やはり主神の経綸なのですから、やはりそれでよかったのです。これからの人類、人間は、本当の幸福というものを得られるわけです。その役目が救世教です。
ですから“来たるべきものが来た”というわけです。今までの間違った世の中が続いてはいけない経綸からそうなったのです。だからそれがどうこうという事は人間には分らないのです。今丁度、何時も言うとおり、夜の世界が昼間になる、その分れ目なのですから、実に重大な時期であると共に、その役目に選ばれたる救世教の人達は、まず大変な仕合せなわけです。人類始まって以来ない幸福と言ってもよいわけです。そういうようなわけで、著(イチヂル)しい霊界の変り方が最近非常にはっきりして来たわけです。(後略)」
(御教え集32号 昭和29年3月24日)
幸福になるには、ということで多くの御教えを抜粋して学んできましたが、ポイントとなるところはご理解いただけたでしょうか?
はっきり掴めないとしたら、繰り返し繰り返し拝読して、自分のものにしていただきたいと思います。
そして、理解できた人は、次の項へ進んで、心を新たにして拝読していただきたいと思います。