第六章 正神と邪神

 

5、龍神、狐霊、天狗、その他の動物霊について

 

② 稲荷・狐霊について

 

「(前略)稲荷さんの事をよく聞かれますが、之は知ってゐていい事ですからお話します。
  稲荷といふものは、最初は豊受明神といって五穀の神が、稲を日本中へ配られた。此時狐を使って、狐にそれを咥(クワ)えさせて日本中を配った。それで字によってみると、稲を荷ふといふ字です。又或説によると、飯成りといって飯をならせるといふ説もあります。又稲荷の画をみると、狐が稲を咥えて宙を飛んでる、その上に女神が乗ってゐる。之が豊受明神で、そういふ具合に稲を狐が配った。その稲を感謝の意味と、又配ってもらひたいといふ意味から、お百姓が田圃にお宮を建てて祭った。それが正しい意味であります。所が、世は邪神の世となって、狐を使って悪い働きをした。邪神の親玉として出たので、豊川稲荷などに荼枳尼(ダキニ)天神といふのを中途で祭ったが、あれは金毛九尾の狐で、以前は稲の意味ばかりであったが、今度は何でも利く利益があるやうになった。芸者や女郎が人をだまして金が余計入るとか、財産を潰す事などを願って、それを狐が引受ける事になって、全然本来の使命は没却され他の事になり、その為に正一位稲荷大明神と明と神とを入れ、鳥居とか食物を上げさし威張って、終には人間を下に見下すやうになった。之は人間が奉ってそうしたんで、稲荷の根本はそういふ意味なんであります。
  今東京でなど、百姓でない人が祭る事は全然違ってゐる。狐がどんな神通力があっても、四ツ足で人間より下のもので地べたを歩くものです。これに家の中で人間より上に祭るといふのは大変な間違ひで、霊界ではそこは地べたになるから人間のゐる所は地の下になる訳ですから、狐を祭れば災難や病人が絶えず、うまく行かぬ。之は卜者(ウラナイシャ)よりもよく当る。ですから、家の内には絶対祭ってはいけない。但し、祖先が畜生道に落ちて狐に生れて来る事がある。そういふ場合は祖先ですから、祭ってはいけないと、その宮を壊はすのはいけない。そういふ稲荷は、庭なり空地へ丁重にお祭りする。如何に祖先だと雖も天地の規則は枉げられぬ。四ツ足を座敷に祭るといふ事はいかん。丁重に祭ると稲荷も、喜び、益々その家を守ってくれる。たゞ人間より上の座敷に祭るといふ事はいけない。よく四ツ足の事ですから、稲荷が祟ったりなどするから、気を付けなければならないのであります。」                         (御講話 昭和10年8月11日)

 (伊勢の内宮及び外宮併祀の由来及びその意義について御伺ひ致します。)


内宮は天照大神、外宮は豊受明神を祀ってますが、天照大神は主食につき非常に関心を持たれ豊受明神に命じて全国に稲を配らせた。この時明神は狐を使って配らせた。稲を荷ぐと書いて稲荷(イナリ)と云ふのはその為で、その時の功により祀られたのです。だから稲荷は百姓が拝むべきで、今芸者や女郎などが拝むのは狐が堕落したのです。勿論普通の稲荷神社も豊受明神の御分霊が祀られたのですが、狐の方が強くて御分霊の力が弱くなり統制がつかなくなった。而も夜の世界で天照大神は御引退になって居られたので余計狐が強くなったのです。豊川稲荷なんか途中からダキニ天神を祀ったが、之は金毛九尾の狐ですよ。」  (御光話録 S23.10.8)

「 (豊川、伏見、王子、穴守の稲荷の御本体と豊受大神とは御同一ではないのでせうか。)


稲荷の本体は、豊川は豊受明神、伏見は豊川の本元である。王子、穴守は豊受明神ではないと思ふ。豊川も豊受明神を祀っても、それを占領して中心になり威張ってるのが沢山ある。豊川は途中でダキニ天神を祀った。之は金毛九尾で、どんな利益でも呉れるが、害も多いからいけない。本当の線に入っていない。
  豊受明神は立派な神で、主食を守護してる神である。日本中へ稲種を蒔く時、人間の手では及ばぬので狐にそれを命じた。それで祀ったのが稲荷で、稲を荷(カツ)ぐといふ。之が正しい意味である。稲荷は本職を逸脱して他へ働いた。使命としては稲へ対する守護が本当で、最初は農民が拝んだのである。」                    

                                                                            (講話集補 年代不詳)

「 (その土地に限って精神病が多いのは如何なる因縁によるものでしょうか。)


精神病は殆ど狐で、狐にも団体がある。 大きいのは何千万も何億もある。親玉は金毛九尾で、日本の狐は皆その眷族である。眷族の多い集団の土地には精神病が多い。伏見など割にいい。稲荷では、総取締りである。」          (講話集補S23・11・22)

「(前略)又注意すべき事は稲荷を祀る場合である。元来稲荷大明神と雖も本体は狐霊であるから、人間よりも位が低いのである。従而、室内に祀る場合、人間の位置の方が低くなるから面白くない。その理由は本来狐は地面の上に棲息する動物であるから、狐の居るべき所は、霊界に於ては地面に相応するので、人間がそれより下に居る場合地獄に相応する訳である。故に実際上室内に狐霊を祀ってある家は、不幸や災厄が断えないものである。故に、稲荷を祀る場合、室外即ち庭又は空地に定むべきである。
  又、稲荷には二種の区別がある。一は古くから伝はってゐる祖先以来祀ってある稲荷で、それは祖先が狐霊となって子孫を守護しつつあるものであるから、身分相応の社を作り、鄭重(テイチョウ)に祀るべきで、毎月日を定め、一日だけ祭典を行はなければならないのである。それは祖霊を慰め敬ふ子孫の義務であると共に、その御守護に対し感謝の誠の表はれであるからである。
  又一は、自分が伏見、豊川、羽田、王子、笠間等、有名な稲荷神社からお礼を戴き祀るのであるが、之は任意に処置しても差支へないのである。然しその場合御酒御饌を饌供し、今日までの御守護の謝礼を言ひ、元の御座(ミクラ)へ御帰還を願ふといふ事を言葉によって述べれば可いので、それによって稲荷の霊は帰去するのである。」                (明医三「神憑り」 S18.10.23)

「日本の霊界に於ては、狐霊の活躍が最も甚だしいやうである。狐霊は好んで宗教を利用し、又は宗教に利用される事を好むものである。特に○○宗の行者などは殆んど狐霊を使ってゐる。狐霊なしではやってゆけまい。そうして病気治し、当てもの等は、狐霊の得意とする所である。然し病気治しは或種の病気に限るので、勿論憑依霊を狐霊が追出し、又は鎮圧する為治るのである。然し、彼等は病気の治ったが最後、決して手を引かないものである。即ち治った御利益を利用し、漸次深みへ誘ひ、退引(ノッピキ)ならぬやうにするものである。故に、最初行者が狐霊を使ったのであるが、遂には狐霊が行者や患者を利用し、種々の欲望を遂げるのである。其様になった最後の窮極は、大方は精神病者たらしめるのである。
  元来狐霊は、精神病者たらしむ事を最も悦びとするものである。何となれば、万物の霊長たる人間を、自由自在に踊らせられるからである。狐霊にとってはこれ以上面白い事はないであらう。そうして狐霊が何故に○○宗に密接な関係があるかといふと、○○経の経文を聞く時は、狐霊の通力が増すのだそうである。このやうに狐霊は常に通力を増す事に努力して居るもので、人間を踊らせる場合、通力の強い程効果があるからである。
  よく行者輩が、病気其他人事に関する事をよく当てるが、それは如何なる訳かといふと先づ行者の前へ相手が座るとする。行者の命に応じて、常に行者の命によって働く狐霊は直ちに相手に憑依し、相手の頭脳中に侵入するので、通力によって相手の意念や考慮してゐる事を探知し、直ちに行者の霊中に入り報告するのである。そこで行者は「貴方は斯々の事があったでせう。」とか「斯々の事を想ってゐるでせう。」などといはれるので、生神様の如く信じてしまふものである。
  又、斯ういふ事もある。それは行者が相手に向って「何時頃、貴方には斯ういふ出来事があるから、気をつけなければいけない」などと云ふ。すると其言の如き事が出現するのでその的中に喫驚して了ふ。畢に帰依者となるのである。それはどういふ訳かといふと、最初予言する時に、狐霊一匹を相手に憑依させておくから、狐霊はその予言通りの事を行ふのである。此方法で成功し、生神様の如く信じられ、相当の繁昌をしてゐる行者に○○○市の○○といふ有名な婦人がある。
狐霊には、稲荷の狐と野狐との二種類がある。前者は稲荷大明神と崇められ、その眷属も頗る多数で、狐霊界の王者ともいふべきもので、その眷属と雖も人間にすれば立派な官吏、会社員、農工商等に従事してゐる公民である。然るに右に引換へ後者の野狐は失業者であり、浮浪人であるから、常に食物や住居に困り、狐霊の社会でも下賎扱ひされてゐるので、早く稲荷に祀られるか又は眷属になる事を熱望してゐるものである。そうして人間に対し害悪を与へるのは野狐に多い事は勿論である。然し乍ら、稲荷の狐でも良狐は稀であって、その殆んどは不良行為を好んで行ふものであるが、只だ野狐よりも不良性は少ないのである。そうして狐の中でも老狐ほど通力が強く、有名な稲荷神社の本尊は大抵数千年を経た老狐である。
  但だ狐霊の中にも特殊な老狐がある、それは人霊と同化した狐霊で、曩に説いた如き子孫の守護を主眼としてゐるものであるが、之等の中から選抜されて産土神の従神となり神命のまにまに活動してゐる狐霊もあるが、之等は全部白狐である。
  茲で、稲荷の由来に就て簡単に説示してみるが、その昔畏多くも天照皇大御神が豊葦原瑞穂国を、豊穣の土地となさしめ給はんが為豊受明神に命じて、四方の国原に稲を間配らせ給ふたのであった。豊受明神はその命を畏み多くの狐に命じ稲種を各地に蒔かせ給ふた。従而、稲荷とは稲を荷ぐといふ意味であり、又飯を成らせるから飯成といふ説もある。その功によって各地に神として祀られ、それぞれの土地の百姓の感謝礼拝の的となったのである。之が稲荷の始まりであり、本来であるが、何時の時代よりか世の乱れと共に稲荷の信仰も紊れ、農事以外の事にまで祈願の目的が及んだのである。終には商人が商売繁昌や金儲けを願ひ、果は花柳界の人達が情事に関する事や、一般人が私利利欲の為の祈願をするやうになり、それに対し、稲荷明神の方でも、善悪無差別的に御利益を与へるといふ風になって今日に及んだのである。」         (明医三「狐霊」S18.10.23)

「日本の各地に祀られてゐる社に稲荷位多いものはあるまい。従而、稲荷の由来を知りおく事も無駄ではあるまい。
  太初の時代、人口が漸次増加するに従ひ、主食の増量が必要となったので、天照大御神は五穀生産の担任者として豊受明神に命じ給ひ、全国的に稲種を頒布されたのである。其際、今日と違ひ交通不便の為、豊受明神は狐に命じ給ふたのである。稲荷の文字は稲を荷ぐといふ意味である。一説には稲荷とは言霊学上飯成といって、飯種を成らせるといふが之はあまり首肯出来ない。以上の意味によって最初農民は狐の労に謝すると共に、豊作を願ふ願望から、稲荷大明神と崇め奉ったのである。よく女神が狐に乗り狐が稲を咬えてゐる稲荷神社の御札は、それを表はしたものである。
  処が、時代を経るに従ひ、商売繁昌や種々の祈願の的となり、遂には花柳界の人々までも御利益を与えるようになったのは全く稲荷自体の本分を無視する事になったのである。故に稲荷に対しては豊作以外の祈願はすべきではないので、反って一種の罪を構成する事になるのであるから慎しむべきである。」              

                                            (「稲荷の意味」光19号  S24.7.23)

「「日本人と精神病」の項目に述べた如く、前頭内の貧霊は必ず不眠症の原因となる事は勿論で、それは右側延髄部附近に固結があり、それが血管を圧迫するからである。又狐霊が憑依する場合、前頭部を狙ふのは曩に述べた通りで、前頭内は人体を自由に支配出来得る中心機能があるからである。それを憑霊はよく知ってゐるからそこへ憑依し、自由自在に人間を操るのである。狐霊はこの人間を自由にするといふ事に非常な興味をもつばかりか、狐霊の数は日本だけでも何千万あるか判らない程で、彼等にも団体があり、その首領があり眷族も無数にある。その大きな団体としては伏見、豊川以前あった羽田、王子、笠間等で、其他中小団体は全国到る処にあり個人の家でも祀ってある事は衆知の通りである。狐霊界には稲荷の眷族と野狐との二種がある。勿論野狐は人間界の無宿者と同様であるから、彼等は稲荷に祀られたい欲求を以て常に活動してゐる。狐の中にも産土神の家来となってゐる良質のものもあるが、大部分は不良狐となってゐる。そうして狐霊は人を精神病にしたり、人に罪悪を起させる事を非常に好むもので、最も悪質なのは殺人又は自殺等を行はしむる奴さえあって、その手腕によって仲間から重んぜられ、巾が利くといふ事は、人間界で与太者やヤクザと同様である。狐霊の悪い奴になると数十人の殺人を犯した事を得々といふ事さへある。
  狐霊の性格は一寸人間では想像もつかない点がある。といふのは彼等は実に饒舌家で、一分の休みもなく喋舌り続けるのである。精神病者が間断なく自問自答してゐる事があるが、之は狐霊との問答で、患者の耳に断えず聴えるのである。医学では之を幻聴といふが之と同じく霊が見えるのである。よく患者が空間を見詰めて恐怖したり、泣いたり笑ったりする事があり、医学は之を幻覚といふが、之は霊界に実在するいろいろの霊や、霊の動きが見えるのである。其場合時によっては患者に狐霊が憑依し、その霊視力を利用し狐霊の仲間が霊界に在って化装するのであるから、万物の霊長たる人間も、狐霊の意のままに飜弄される訳で、実に情ない話である。(中略)
  右の外、狐霊の憑依例は、多数あるが、右の五例だけで、凡その認識はつくであらう。そうしてよく狐霊が言ふには、法華経の読経を聞くのが一番好きだといふ。何故かと聞くと、神通力が増すからだとの事である。それに引き反へ天津祝詞を聞くのは一番嫌だといふ。それは苦しいからだといふが、之は誤りではない。何故なれば、日蓮宗の行者は狐を使ふものであり天津祝詞を聞くと狐霊は苦しみ萎縮するからである。」  (「狐霊に就て」S24.9.25)

     

「精神病は狐霊はじめとする邪霊が原因」

「此病気の原因は、最初は不眠症からであります。不眠症は先づ精神病の一歩手前と言ってもいいのであります。
  従而、後頭部の水膿溜結を溶解すれば眠れる様になりますから、眠れさへすれば精神病は治ってゆくので、吾々の方では精神病は必ず全治するのであります。
  不眠症から精神病へ進む順序を述べてみませう。
  不眠の原因である後部頸髄部の水膿溜結が脳への送血を妨げるので、脳の中枢が貧血するのであります。其貧血へ邪霊が憑依するのが、その原因であるのと、
  今一つの憑依でなく、患者自身の腹中に常に潜在して居た邪霊が、頭脳の貧血に乗じ上昇して頭脳中枢を占領するのであります。
  元来人間の精霊は、平常は或程度の濃度を保ってゐる。その程度とは、普通人の健康状態の血液の密度と同一であります。
  然るに何等かの原因によって、血液が減少した場合、其如く精霊も稀薄になるので、其霊の稀薄に乗ずれば、他の霊即ち邪霊が憑依し得らるるのであります。一種の補給的意味ともなります。
  此例として、産後に不眠症や精神病が起り易く、又、月経時にヒステリーが起り易く、又、山に行って断食等を行ふ場合天狗等が憑依するのは、皆貧血に因る精霊の稀薄に乗ぜらるるのであります。
  右の如き体的原因以外、精神的衝動を受けるに於て、弥々不眠症に拍車をかけられるのであります。それは貧血が一層甚しくなるのでそれ丈邪霊の力が増す事になります。
  邪霊が憑依するや、凡ゆる事象を連続的に無制限に想はせる。それは彼等の本能であります。そうして邪霊の思念が終に発展して、行動に迄及ぶので、それが常軌を逸しさせる種々の狂態であります。
  医学上でいふ幻聴とは、霊のいふ事が聞えるのであり、幻覚といふのは種々の霊が見えるのであります。
  そうして邪霊といふのは殆んど狐の霊で、稀には狸の霊もあり、尚稀には両方の場合もあります。
  精神病者が自問自答するのは頭脳の中枢に蟠居してゐる狐霊と外部に居る狐霊との問答であるが、此場合本人の記憶を利用する事が多いのであります。
  又空間をみつめて驚いたり泣いたり笑ったりするのは霊が見えるからであります。
  要するに精神病なるものは、人間が狐霊に踊らされるのであります。
  本療法によれば、半ケ年乃至二ケ年位で完全に治癒するのであります。(中略)
  そうして狐は「本体」を暴露されると、騙す興味が無くなるのであります。よく狂人が、誰も居ないのに喋舌ったり、何もないのに吃驚して逃げる事などがありますが、それは其人の霊を占領し、他の狐霊と呼応して騙すのであります。人間の霊を段々占領すると、顔までが狐の如(ヨウ)になって来る事もあります。人間を巧く騙す程、狐の社会では名誉になるのであります。
  狐には、稲荷と野狐との二種あって、稲荷は祀られた狐であり、野狐は謂はばルンペンであります。此野狐は絶えず祀られ度くて策動してゐるのであります。
  日蓮宗の行者は、行を積むと狐が見える様になり、狐と交通する事が出来る。そうして野狐を招んでは、あの病気をお前が治したら稲荷に祀ってやると言ふと、狐は祀ってもらひたさに一生懸命に治すのですから、病気が治ると必ず祀らされるのであります。
  野狐でも稲荷でも非常に沢山居て騙すのが巧い程出世をするんであります。
  狐にも種々名前がある。日蓮宗の行者などはよく名前を付けます。
  眷族といふものも沢山居る。穴守稲荷などは何万と居る。之は多く花柳界を専門にやってをります。旦那を招ぶとか色男を招ぶなど巧いものであります。
  狐の偉い奴程騙すのが巧妙であります。
  東京では穴守と王子、関西では伏見などでありますが、穴守の方は花柳界へ、王子の方は一般的の方面に活動して居ります。豊川あたりの狐は生活に困らないので、割合悪い事は少い。豊川の狐は金儲けが専門であるから、豊川稲荷の信者は、金は儲かるが-病気や外の不幸が多いのは事実であります。
  又南無妙法蓮華経を聞く程神通力が増すのだと、狐からよく聞いた事がありますが、御題目を唱へると狐が沢山集って来るのは事実であります。
  それらの為に、日蓮宗にはどうしても狐憑きが多く犯人が多いのであります。
  又狸は始末がわるく治りがわるい。之は一見して違ふので、狸の方はとぼけた滑稽味があり、超越してゐる所があり、非常に笑ひたがるのであります。
  狐は人間の頭脳を占領して踊らし面白がってゐるだけであります。又人間の生命を奪る事が好きで、実に簡単に自殺させる。そして、一人でも余計に殺せば名誉になり、仲間から偉いとされるのであります。人間一人殺す位は訳ない事で、汽車往生や三原山へ飛込ませたりするのも多くはそれであります。
  又人間の思って居る事を容易に知るので、行者などがよく物を言ひ宛てますが、あれは行者に使はれてる狐が先方へ憑るのです。すると狐は速くに其人の気持や記憶が判るのです。それを今度は行者に憑って知らせる。行者は其通り言ふから的(アタ)るといふ訳なんであります。ですから過去は判るけれども未来は全然判らぬ。行者など随分物を当てるくせに下らない生活をしてゐるのは、未来が判らぬからであります。
  よく手を上げたり、首を振ったり、異常な恰好するのは殆んど狐霊又は鳥霊の憑依であります。そして「吾こそは八幡大菩薩だ」の、「何々大明神」とか、奮ったのになると「天之御中主大神」だの「天照大神」など言ひますが、あれらは皆、狐、天狗等が好い加減な事を言って騙すのであります。本人は自分で自分を買被り、自分が天照大神だの、天之御中主大神だのと思込んで了ふので実に危険であるから、神憑りは行らない方がいいのであります。
  五、六年前私は某精神病院へ行った事がありますが、其所の医師の話に「病院では全然治らぬ。一旦は治った様でも、家へ帰るとまた起るのです」との事でした。
  本療法は霊的療法でありますから、段々狐霊が畏縮する。そうして狐霊は平常腹部の中央に小さくなって居ります。よく治療してゐると臍の辺にムクムクして脈打つものがありますが、それが狐霊であります。
  蛇の霊は、長くなったり短くなったりして移動するのが特徴であります。
  又、ヒステリーは、精神に衝撃を受けた瞬間精霊が畏縮する。其間隙に乗じて腹部に潜居してゐた狐霊が俄然上昇し、頭脳を占有して人間を踊らすのであります。其場合-玉の様なものが腹から昇ってゆくのを意識する婦人がよくありますが、それであります。頭脳は人間全体の縮図の如なものですから、頭脳の中心を占領すれば身体全部を支配出来るのであります。
  暫くして、本人が平静に還るに従って狐霊は再び元の腹部へ戻るので、意識がはっきりしてくるのであります。
  前述の様な訳でありますから、精神病とは連続的ヒステリーであり、ヒステリーとは、一時的精神病とも言へるのであります。
  女ばかりではなく、男で狐が憑いてる人があります。そういふ人は顔も狐に似てをるものです。
  治療をすれば、血が頭へ充実して来るから霊力が増進し、反対に狐霊は畏縮するので、眠れるやうになり、意識がはっきりしてくるといふ順序であります。
  狐霊を解剖してみると種々あって、稲荷と野狐と言っても、其中に人間が狐になったのと本来の狐と両方あります。人間の霊が畜生道に墜ち、狐になってる場合も相当あります。
  然し、人間に憑依する場合、其人の霊統に因縁が必ずあるもので、全然無関係では憑依出来ないものあります。(後略)」                   (「精神病」S11.7)

「 (その土地に限って精神病が多いのは如何なる因縁によるものでしょうか。)


精神病は殆ど狐で、狐にも団体がある。大きいのは何千万も何億もある。親玉は金毛九尾で、日本の狐は皆その眷族である。眷族の多い集団の土地には精神病が多い。伏見など割にいい。稲荷では、総取締りである。」                (講話集補 S23・11・22)

           

「狐が一番面白がるのは、殺人」

「(前略)それから狐が一番面白がるのは、人を殺すのが面白い。だから、人を殺そうとする。一寸でも油断すると首をくゝらしたり、外に引つ張り出して水に飛び込ましたり、汽車や自動車に轢かせ様としたりする。殺すと仲間で幅がきゝます。だから、狐で自慢する奴は、俺は今迄に何十人殺した、と言う。先に聞いたのによると、一番多い奴は四十何人ですね。その時考えましたね。人間なんてなんと、情ないかとね。訳なく殺せるんですからね。そう言う場合に、神様を信仰していると、正守護神や神様に邪魔されて出来ない。信仰してないと、そう言う御守護がないんです。だから狐のやり放題です。自殺するのは殆んどそうです。

(後略)」                          (御教え集3号 S26.10.21)
     

 

「狐霊は、薬で悪くして命を取ることを知っている」

「(前略)それでこれは難かしい理窟ではなく、薬で血を濁しますから、血が濁れば霊が曇りますから、霊が曇れば副守護神の力が増すからして、副守護神という奴は悪い事をするのが本来ですから、それで悪い事をさせるというわけです。難かしい事はないので、簡単に分ります。面白い事は、私が前に浄霊していた時に狐などが出て来てこういう事を言うのです。「せっかくオレが医者にかけて、これだけに悪くしたのに、横から出て来てとうとう助けてしまった。随分薬をのまして、やっとこれまでに悪くして、もう一息で命を取るまでになったのを、横から出て来て助けた」と怒るのです。ですから彼等は薬で悪くして結局命を取るという事をよく知っているのです。それは人間はとてもかないません。むしろ人間以上です。私はむしろ狐から薬毒を教えられたくらいです。自分自身でも分りましたが、医学を狐が利用しているという事が分ったわけです。そうしてみると狐がその人間を殺そうとする場合にはやはり彼等恨みの霊というものが、何か仇を討つという場合に、狐がその人の副守護神に命令されたり、又はそこの祖先が稲荷を信仰したとか、又その人が稲荷を信仰したいという意思を知って、その狐が相手に働きかけるのです。そうするとその場合に医者にかけるのです。できるだけいい医者にかかって、できるだけいい薬をのむのです。むしろかえって大きな病院やいい薬を、という事に狐は働くのです。その方が悪くするには効果的なのです。大病院というのはやり方が大胆で思いきってやりますから、悪くするのも思いきって悪くします。それで町にいる薮医者というのはオッカナビックリしながらやります。手術でも、あんまりひどい手術はしないというのですから被害は少ないのです。ですから大病院でなおらなくて、町医者でなおったという事を聞きますが、つまり薮ほど間違いないというわけです。それで又薬をのませると霊が曇るからして、奴さんは余計働きよくなるのです。つまり医学を利用しているのは、そういう動物霊というわけです。(後略)」                       (御教え集18号 S28.1.7)

     

「正守護神が人に知らせる場合、狐霊を使う」

「(前略)之に書き忘れたが、正守護神が人間に何か知らせる場合に、狐霊を使つてやる事があると言うのは、狐霊は人間に喋つたりする事が、非常に上手いので、そう言う場合に正守護神が狐霊を使うと狐霊が憑つて色々喋るが、処が正守護神の命じた儘を言えば良いが、狐は――何しろ狐ですから、地金が出るんですよ。それで、余計な事を喋る。そう言うのをみると、狐霊だか本当の正守護神だか分らない事がある。之は狐だから本当にしちやいけないと思う事もあるし、之は正守護神だから本当だと思う事もある。だから、喋る言葉によつて、正しいか正しくないかを判断する。そして正しい処丈けを取れば、正守護神の思う通りになる。その見別けが難かしい――とも言えるし、常識的な判断をすれば、そう難かしくない。それをはつきり見極めるのが審神と言う。審神と言うのはそう難かしくないです。言う事が正しいか、正しくないかを判断するんですね。正しいか正しくないかを判断するにも意味がある。小乗か大乗かですね。小乗で良くてもいけない。大乗から見て正しいと言う事が、本当の正しさですから、その見別けですね。その点を、解る様に何時も書いているんですよ。大乗と小乗もね。ですから、何処迄も、信仰は大乗と小乗を基本として考えていくと間違いないですね。処が、一寸聞くと、小乗の方が本当の様に思えるんです。正しい様にね。」   

                                                 (御教え集4号  S26.11.18)

「(前略)それからよく狐だか祖先だか分らない事がありますが、あれは、人間に憑って話をする場合に、狐は実にうまいのです。狐は言葉はどんなのでも分るので、人間と同じに話が出来るのです。そこで霊が狐に頼むのです。その場合に、霊が祖霊に話をして祖霊が狐を使うのですが、そういう事が多いのです。ですからよく狐だか人間だか分らない事があるのです。審神していて、狐と思ってしまったり、狐に瞞されるものかと一生懸命に用心しますが、そういう必要はないのです。人間の霊に頼まれて狐が喋る場合には、狐が本性を現わすことがあるので、そこで狐に見えるのです。私は以前そういう霊を扱かった事があります。古い本に出ているかもしれませんが、“さようでございます”“はい”と言って、女なのですが、“オイ、そんな事は知るもんかい”と言うのです。“貴様は狐だな、引込め引込め”と言うと、又人間の言葉になるのです。その内に又狐が出て来るのですが、丁度狐と人間と半々になるのです。それで龍神が一番人間の言葉が使えないのです。ですから私に一番最初憑った霊が、唸ってばかりいて口がきけなかったのですが、一月ばかりいて人間の言葉が使えるようになったと言って非常に喜びましたが、そういう事がありました。ですから外国の龍神もそういうようなわけです。

(後略)」                          (御教え集33号 S29.4.16) 
              

 

「稲荷を拝むことはいけない」

「(前略)稲荷を拝むと言う事は、何うして悪いかと言うと、古い本に書いてありますが、大体稲荷と言うのは、百姓が稲を守つて呉れと言う丈けのもので、他に何にも意味はないですよ。だから、稲荷と言うものは、外に祀らなければならない。田んぼの一ケ所を綺麗にして、そこにお宮を作つて祀るんです。人間の家で祀るべきものではない。人間の家に祀つて拝むと言うと、狐は下を歩いているものです。地以下です。狐を拝んで居れば、霊的に地獄になつている。狐の方で人間を拝むなら良いが、人間が狐を拝むと言うのは、狐以下になつちやう。狐以下の運命になるよりしようがない。
だから、狐を祀つて拝んで居れば、必ず不幸になります。と言うのは、先にも言つたが、狐と言うのは、大体、天照大神様が、最初日本の人口が増えるに従つて、米を沢山作らなければならないと言うので、豊受明神に命じて、早く日本中に稲田を配る様にと言うので、豊受明神が狐に命じてくわえさせて配られた。だから、豊受明神と言うのは、狐に乗つて、狐が稲をくわえているでしよう。そう言う御神体です。だから百姓は狐にお礼を言つて、稲作を御守護して呉れと、お宮を作つてお参りしたものです。処が狐の奴、自分の職務以外の範囲にのさばつて来た。と言うのは、力があるからね。中々霊力があるからね。終いには、日蓮上人と仲良くなつて、日蓮宗は狐を利用して開いたものです。
そんな様にして、段々狐が一大勢力を得て来た。豊川稲荷、伏見稲荷だとか色々出来た。狐を家の中に入れて拝むと言うのは、地の下になる事になる。併し無暗に帰らせたり、処分したりすると怒りますからね。併し、狐も色んな御利益なんか与えるから、人間の方が乗つちやう。併しそれも一時的で、段々地獄の方に行つちやう。だから禍がある。だから、光明如来様をお祀りして、少なくとも一年以上経つてから、正式にお祀りしてお帰りを願う野狐と違つて、伏見の稲荷は良いですからね。解りが良いですからね。一年以上経つたらそうすれば良い。光明如来様は最高の神様だから、霊界が天国になるから、禍が来ないで、良い事許り来る事になる。」                            (御垂示録4号 S26.11.5)

 

            

「稲荷の行者は畜生道へ堕ちる」

「 (稲荷の行者は死後狐霊の世界へ墜ちるものでせうか。)


堕ちる。生きている中に畜生に落ちている。だから行者などは非常に不倖せが多い。病気でも変な病気になる。神経痛が多い。水を浴びると身体中の毒が塊まる。だから行者などの身体はコチコチに固まっている。断食、水浴びなどの行は邪道である。狐がよく憑くから、生き乍ら畜生道に堕ちる。だから本当は邪道である。」                           (講話集補 年代不明)

「狐霊は何億もいる。日本、支那、印度、ソ連等に多いが、ヨーロッパ、アフリカ等は極く少いようである。特に日本に多いようだ。
  狐霊などの行者は  皆畜生道に堕ちるから不幸に終るのである。
  臨時に憑く狐は抜けるが、永く憑いてると人霊と一緒になって畜生になってしまう。
  霊の事を知ろうとする事は、之は神が必要とされねば知る事は出来ぬ。自然に知る機会を得るのである。敢て努力の要はない。又、お浄めに従事している間(ウチ)に霊的患者に遇う事があるから、その都度解し得る。」                      (講話集補 S23)

              

「日蓮宗の信者は全部狐が憑く」

「 日蓮---日蓮は以前も言ったとおり、畜生道に落ちて狐の親玉になったわけです。ですから日蓮宗の信者は全部狐が憑くのです。それを私が日蓮上人を狐から救って人間にしたわけです。それで狐と言ったところでみんな人間なのです。人間が畜生道に落ちて狐になるのです。龍神は執着によって龍神になるし、狐は人を瞞す、嘘をつくという、それを沢山やると狐になるのです。」                         (御教え集33号 S29.4.17)

                

「狐は天津祝詞を非常に嫌う」

「狐は天津祝詞を非常に嫌う。狐でもなかなか良い狐がいる。人間が畜生道へ堕ちてなったもの――人間の狐になったのは善い事をする。義理人情に於ても人間以上のものがある。
  曾て狐の憑いた病人を浄めて、出た事があった。「ワシは先へ出るから、お前は後から出るよう」と情理をつくして出た。その後子狐のようなのが出た。
  生きてる人間にも死霊にも狐は憑く。生きた狐で、霊だけ働くのがある。よく○○稲荷の穴の中にいるとかいう。肉体があるのかというと、あるというのがある。」                     (講話集補 S23・7・9)

 

         

「狐の生霊は、とても人間に憑依する」

「 (動物の生霊は人間に憑依出来ますでしょうか。)


狐の生霊など、とても人間に憑依する。狐などよく『死んでいるのか生きているのか』と言うと  「どこそこに居る」という。人間より狐の方は何でもなく憑く。人間でも執着が強いと憑く。大抵若い男女とか親子である。男が惚れ女が嫌ってると、男が悲観しているその想念がそっくり女へ映り、憂鬱になる。美人などそういう生霊が多い。そして神経衰弱のようになる。又妾と本妻などそうである。」                            (講話集補 年代不明) 

           

「稲荷やお札の処分について」

「稲荷には祖先から祀った稲荷と、豊川、伏見など途中でお札を受けて祀る稲荷と二つある。
  よく「御守護神を頂く」というてお札をもらうが、そのお札に狐が憑いてくる。つまり派遣された稲荷である。斯ういう稲荷は元へ返せる。
  狐には役が着いている。言霊で断わって帰ってもらう。祖先からのは祖先が稲荷になっているのがあるので、之は処分出来ぬ。祖先が青大将や稲荷になって守護しているからお礼を言い、事情をいって帰ってもらう。
  ○○不動尊などは矢張り不動尊の眷族で鳥が多い。之は処分してもよい。不動明王とて観音様の家来で、元はいいが今は堕落した。」                         (講話集補 S23・6・27)

 (稲荷を部屋の内に祭る事はよろしくない様に伺っておりますが、今迄部屋の内に祭ってあった稲荷を庭に祭らせて頂く場合の方法を御教示願い申し上げます。)


稲荷はやたらに祀りかえてはいけない。怒ってアダする事がある。祖先からあった稲荷は大祖先が稲荷になって守護しているのであるから、部屋の中でいいが、中途の祖先が祀ったものは処理した方が宜しい。其場合、お供物を上げて今日迄の御守護の礼をいって、今度観音様をお祭りする事となったからお帰り願いたいと口でいう丈でよい。祝詞は天津祝詞を奏げればよい。」                        

                                                   (講話集補 年代不明) 

            

「霊視能力は憑霊の為、殆ど狐霊」

 (心霊学者、修養団体(報恩会、奉誠会、霊友会)等の指導者の霊視能力は憑霊のためでしょうか。)


すべて霊視能力は憑霊の為で、その殆どは狐霊である。狐が憑ると霊が見えたり、声が聞えるのである。精神病者は右の能力が顕著である。故に普通人がそうなる事は危険である。然し特殊の場合、一時的に見える場合は差支えない。始終見えるのは危い。
  精神病者がよく空間を仰視(ミツ)めているが、之は医学では幻覚と言い、聞えるのを幻聴と言う。
  正守護神が見せる場合があり、その際狐を使う事もある。
  (狐は特殊の能力を持っているので、人間に知らす為よく守護神や人霊に頼まれる。巫女なども大いにそれがある。狐はとても頭がよく、どんな事を聞いても返事する。実にうまく何でも理屈つけるので、限りなく喋る。喋ってる時の理屈はとても人間も敵わぬ。こっちの話は全然聞かず、押付けるように喋るものである)」            

                                                    (講話集補 年代不明)

     

「狐霊特徴・・・余計な事を喋舌りたがるもの」

「 (前略)何しろ狐狸等は動物霊であるから、人間より以下である。従って之を拝んでいると四足の居所は地上であるから、人間は地の下になり、霊界では畜生道に堕ちている訳で、霊界の事は一切現界に映るから、其人は地獄に堕ちているのである。世間よく稲荷の信者などは、必ずと言いたい程不幸な運命に陥って了うのは、右の理によるからである。勿論霊憑りもそうであって、動物の入れ物になる以上、ヤハリ畜生道に堕ち、不運な境遇になって了うのである。
  併し乍ら同じ狐霊でも、全部が全部悪い訳ではない。稀には好い狐もある。それらは改心した狐であって白狐である。白狐は何れも産土神の下僕となり、神の御用に励(イソ)しんでをり、仲々役に立つものである。というのは狐は霊的には種々な特徴を有ってをり悪もそうだが善の場合も仲々力があり、好い働きをするものである。併し神憑りにも除外例がある。それは祖霊又は正守護神が重要な事を人間に知らす場合、一時的に憑る事がある。之はホンの僅かの時間と必要だけの言葉で、決して余計な事は言わないものである。茲で序だから正か邪かの判別法を教えるが、神様に関係のある正しい言葉には無駄は決してない。物事の急所を簡単明瞭にお知らせなさるものである。故に邪霊であれば必ず余計な事を喋舌りたがるもので、よくあるノベツ幕なし立て続けに喋舌るなどは、狐霊と思えば間違いない。併し斯ういう場合もある。それは正守護神が言葉で知らせようとする場合、狐霊は人間に憑る事も、喋舌る事も巧いので、狐霊を使う事もあるがそういう場合必要以外の事を喋舌り、地金を現わすから大いに注意すべきである。」                                    (「霊憑りに就て」S26.12.5)