〔参考文献 1(御教え)〕

 

「大光明世界の建設  本然の道」
              

(光世3号  昭和10年1月11日)

 

観音様を信仰すれば病貧争が無くなる斗(バカリ) でなしに、未(マ) だまだ重大な御蔭があるのであります。それは何かと云ふと人間としての「真の道」が判るのであります。

 あらゆる階級--あらゆる職業、凡ての老若男女は、各々天から定められた「本然の道」があるのであります。例へば、民は君に対し、国家に対し、忠の道があり、子は親に対し孝の道があり、親は子に対する道があり、夫は妻に対し、妻は夫に対し、自(オノズカ)ら尽すべき事、行ふべき道が、ちゃんと定められてあるのであります。そんな判りきった事さへ、今日は判らなくなってゐる、それが、はっきりと判って来るんであります。判ると共に、強制されたり誨(オシ)えられないでも、自然に行ふ人になるんであります。それが、聊かも、克己的でなく、進んで快く、行ってゆけるのであります。

 茲が実に、妙不可思議力であります。職業にしても、商人は商人としての、官吏は官吏、軍人は軍人、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家としての、夫々、天賦の道に適った行ひがある、それさへ行ってをれば、失敗もなく苦情もなく、必ず成功もし、栄えもするんであります。

 裁判所や、警察の御厄介になる様な事が、全然起らないのであります。折角、大臣になっても、市ヶ谷の別荘へ送られるやうな事はないのであります。そういふ事は、大臣は大臣とし、政治家は政治家としての、正しい行り方が、ちゃんと規(キマ)ってゐるに関はらず。それを越えてしまうから、苦しむ事が出来るんであります。罪を造ったり、争ったり法律に触れたり、借金に苦しんだりするのであります。

 天から与へられた道は、定められてある範囲から、何故人間は、脱線するのであるかと言ふ事を、お話し致しますと、本来人間には、神より与へられたる本霊--即ち善霊と、動物霊たる副霊即ち悪霊と、此両様の霊が、必ず内在してをって、此両者が、絶えず闘争しつつあるのであります。
 随って副霊が勝った場合は、悪の行為として顕れ、本霊が勝った場合は、善の行為となるのであります。

 斯様に、闘ひ争ってゐる為に、反ってよく調和がとれて、種々(イロイロ)な仕事が、出来て行(ユク)んであります。恰度、自動車の運転と同じ様なもので、自動車は、左へも右へも行く故に、如何なる道でも、自由に走れるんであります。

 然し、如何なる場合でも、本霊が勝って行く事が、原則なんで、人間の本来の道なんであります。然し副霊が勝てば、それが脱線になって悪となり、範囲を越えるから失敗をし、苦しみをする事になるんであります。それですから副霊は、悪でありますから、どこ迄も人間を脱線させようと、絶えず骨を折ってゐるのであります。

 処が、観音様の御光を与へられると、副霊は、弱って行く--副霊が弱くなった丈は、本霊が強くなって行きます。本霊の判断は、正しい判断でありますから、乃(ソコ)で、何事を行っても巧くゆく、間違ひがないのであります。一番面白いのは、お酒の好きな人が、私の処へ度々来られますと、嫌ひになるんであります。

 それは何故かと言へば、酒を呑ませる先生は、副霊でありますから、此副霊が、私の身体から放射する「観音光」の為に力が弱り本霊が勝って来るからで、その本霊は酒が嫌ひだから、酒が不味(マズ)くなって了ふのであります。斯ふいふ様な訳でありますから、観音様を拝めばどうしても、いい方へ変って行くのであります。

 今日迄の世の中は、人間の娯しみの大部分は、悪を娯しむ、--娯しみといふものは、どうも悪に属するものが、多かったのであります。それが詰り副霊が、勝って居るからであります。処が、本霊が勝って来ると、善を娯しむ、善い事をする事が、とても面白いのであります。
 
 斯く善い事をする面白さを、本当に知った時は、彼んなに面白いと思った、悪の娯しみは何とつまらない事であったんだらうと、不思議に思はれて、来るのであります。
 斯ういふ様に、悪の娯しみよりも、善の娯しみの方が、何層倍、上だといふ事が、判った人が、真に救はれた人なのであります。併も善の娯しみを、続ければ続ける程、其所に、健康と幸福が生れ発展があり、成功があるんであります。」