※ 参考資料

〔羸 痩(ルイソウ)〕

 

 「(中略)羸痩(ルイソウ)は結核に附物であるが、此原因は勿論食欲減退と発熱と精神作用によるものであるが、特に発熱が肉体を消耗する事は甚だしいものがある。」

            (「食欲不振と羸痩」結正  S18.11.23)

 

 結核者に羸痩は附物である。原因は発熱、食欲不振、運動不足等によるのであって、特に発熱は体力の消耗夥しいものがある。又食欲不振を緩和する為健胃剤を用ふるが、之は一時的効果はあるが、其後に到って反動的に食欲不振を増進させるものである。次に運動は体力増進に効果ある代り発熱の原因ともなるので、此取捨按配が難しいのである。要は自然に心の欲するままに行動するのが最良の方法である。」       (「結核問題」天  S22.2.5)

 

     〔安静法、日光浴〕

 

 「(中略)医療は先づ絶対安静を奨める。此絶対安静ほど胃腸を弱らすものはあるまい。考えてもみるがいい、健康体でも絶対安静を一ケ月も続くるに於て、第一に胃腸は睡眠し全身的に衰弱する事は瞭かである。

 

 次に薬剤を服用又は注射する。それらも毒素である以上衰弱に拍車をかける。又栄養と称し魚鳥獣肉や完成食餌を多く摂取させる。之も内臓器能を衰弱させる(食餌の栄養理論に就ては別に詳説する)又清浄なる空気療法を推奨するが之は相当の効果はあるが他の誤謬に依る方法に抹殺されて了ふのである。

 

 又サナトリウム療法による日光浴も近来推奨されるが之は一利一害である。元来人間は、日光の射さぬ家屋内に於ては軽運動をし、日光の直射する戸外に於ては強運動を為す。それが自然であって、日光下に在る時は強運動即ち歩行又は労働をなし、発汗する位が自然の法則に適ふのである。然るに日光下に於て室内の動作よりも一層静止する場合、それは不自然であるから可い筈はないのである。

 

  右の如く大体衰弱増進の各方法を施すに於て、浄化作用は抑止せらるるから病的症状は軽減するので治癒に向ふやうに誤解するのも無理はないのである。然し実際の治癒ではないから次のやうになるのである。即ち肺臓内を通過排泄せられんとした喀痰は全身衰弱によって吸出作用の咳嗽が減少又は無力になるから、喀痰は畢に肺臓内に停滞するといふ事になるのである。而も微少ながらも後続喀痰が肺臓に浸潤しつつ停滞毒素は漸次量を増すので、其結果肺臓内に喀痰の固結が成立するのである。それが呼吸困難の原因である。

 

  元来肺臓は呼吸運動によって人間生体内に必要量の空気を吸収する機能である。故に肺臓内に固結が出来たとすれば、それだけ空気の吸収量が減殺さるる訳である。従而呼吸を頻繁に行はなければ一定量の空気の吸収は出来ない事になる。例へば十の必要量を二の妨害物によって、八だけしか吸収出来ないとすれば、百の空気を吸収する為には十回呼吸すべき所を十二回半呼吸しなければならないといふ訳である。そうして右の喀痰固結を医家が診断する時、それを結核、肺壊疽(ハイエソ)、肺臓癌等の病名を附するのである。(中略)」                     (「肺結核」明医一  S17.9.28)

 

     〔過 労と運 動〕

 

 「(中略)今一つ重要な事がある。それは現在医学の理論では過労が結核の重な原因の一つとされてゐる。そうして過労の結果抵抗力が薄弱になるからといふのである。然乍ら其解釈は全然反対である。それはどういふ訳かといふと、過労する位運動をすれば浄化作用が起るのである。

 

 茲で疲労なるものの説明をする必要があらう。即ち疲労とは運動の結果当然起る所の浄化作用の発熱の為であるから健康上疲労は良いのである。いはば浄化作用の促進方法である。医学に於てさへ健康増進の為運動を奨励してゐるではないか。然し、医学では適度の運動といふがそれは浄化作用の起らない程度をいふのであらうがそれでは効果が薄いので、実は浄化作用の起る程度が良いのである。

 

 勿論発熱する事はそれだけの毒素が何れかの局部に存在するからでそれによって毒素は軽減するから可いのである。故に有毒者ほど発熱し易いから疲労するのである。此理に由って、運動によって疲労感を繰返すに於て次第に毒素は軽減し健康は増進さるるのである。滑稽なのは疲労の原因は過激な運動によって一種の毒素が発生するからだといふ学説である。

 

  右の理によって浄化作用旺盛者即ち発熱し易い疲労者は抵抗力強盛によるからである。故に医学上の理論の如く抵抗力薄弱者が結核に罹り易いとするなれば、疲労し易い老年者ほど結核に罹らなければならない筈である。にも係はらず事実は最も元気旺盛である青年期ほど罹り易いといふ事は全く青年期が最も浄化作用旺盛であるからである。」         

                                    (「肺結核」明医一  S17.9.28)

 

         〔ラッセル〕

 

 「(中略)第二浄化作用による発熱が先駆となってそれによって溜結毒素は溶解し喀痰となり、咳嗽によって吸出されるのであるが、其際喀痰は必ず肺臓を通過して気管から咽喉に向って排泄されるのである。故に自然に放置しておけば、液体毒素即ち喀痰は順調に肺臓を通過して排泄されるのである。

 

 然るに喀痰が肺臓通過の際一旦一時的肺胞内に停滞する。それは咳嗽といふ吸出作用を待ってゐるやうなものである。然るに此時聴ゆる肺胞音それをラッセルといふのであるが、勿論此場合肺そのものに異常はないのである。

 

 然るに医家は右の症状によって肺患の疑を抱き、各種の機械的検査によって断定するのであるが、其後に於ける療法が問題である。再三述べた如く医療は悉く浄化作用の抑圧であるから、折角肺臓を通過して排泄されようとした喀痰は通過の勢を挫かれ肺臓内に停滞する事になるのである。」             (「肺結核」明医一  S17.9.28)

 

 「ラッセル」とは肺臓の一部に滞溜せる喀痰が、呼吸の為に一種の喘音を発するのである。此原因は、身体各局部に固結せる毒素が発熱によって溶解すると共に一旦肺臓内に浸透滞溜し、咳嗽による吸出を俟ってゐるといふ訳である。故に吐痰によってラッセルは消滅すべきであるが、後続喀痰がある以上容易にラッセルは消えないのである。此状態を医診はその局部に病がある如く誤解するのである。」             (「結核問題」天  S22.2.5)

 

     〔結核菌の顕微鏡検査〕

 

 「医学は結核菌の有無によって病症の重軽を判定する。即ち保菌者を開放性と称して警戒する。之は何等の意味はない。何となれば結核菌は前述の如く感染の憂はないからである。」                                  (「結核問題」天  S22.2.5)

 

     〔マントー氏反応〕

 

 「(中略)マントー氏反応即ちツベルクリン溶液の注射に就ていへば、医学の解釈によれば注射した部分が紅潮又は腫脹、水泡、潰瘍になる場合陽性であり、既に結核に感染したものとしており、右の如き兆候のないものを陰性となし更にツベルクリンを濃度にして注射をすると陽性になるものがあり、陽性者と雖も治癒したものと未だ治癒しないものもあるとしてゐる

 

 又陰性者なら結核に感染してゐないのであるが、何等かの機会に結核に感染して陽性に転化する事もあるとしてゐる右の如く甚だ曖昧極まるものである。然るに私の解釈に於ては、血液に異物を注入するから直ちにその異物を解消すべき浄化作用が起るので、それがその部に腫脹や紅潮の変化を起すのである。丁度毒虫や蜂に刺されたのと同一の理である。

 

 故に、陽性者は浄化作用旺盛の為であり陰性者は弱体の為浄化作用が起り得ないのであり、注射液即ち薬毒を濃度にするに於て漸く浄化作用が起るのである。」  

                                    (「肺結核」明医一  S17.9.28)

 

 「「マントウ氏反応」とは、ツベルクリン注射によって陽性又は陰性の区別を知るのであるが注射の結果その部に紅潮又は腫脹を呈するを陽性といひ、何等異状なきを陰性といふ。医学の解釈によれば陽性は既に結核菌に侵されてをり、陰性は未侵といふのであるが私の解釈によれば之は反対である。その理由を事実によって解いてみよう。

 

 人間が毒虫や蜂に刺された場合腫脹を呈するのは、勿論虫毒に因る浄化作用の為であるがそれは毒に対するに処女的肉体であるからである。彼の中国人の一部には南京虫に刺されても何等の症状のないのは、既に抗毒素の発生によって解毒せしむるからである。

 

 又私の体験によれば蟆子(ブヨ)に刺された場合非常に掻痒を感ずるが、頻繁に刺され慣れるに従ひ漸次掻痒を感じなくなる。之等も蟆子毒に対する抗毒素発生の為である。之等の例によってみても陽性とは結核生菌に対し抗毒素未発生の為であり陰性とは既に生菌に侵されて抗毒素既発生であるからである。

 

 そうして結核菌は何等恐るべきものではない。何となれば決して感染するものではないからで、此事に就ては後段に詳説する。」                            (「結核問題」天  S22.2.5)

 

   〔血沈(赤血球の沈降速度)〕

 

 「(中略)赤血球の沈降速度とは、血液中に毒素があれば溷濁しており、其毒素の多い程重量があり沈降速度が速いのである。故に、溷濁血液者ほど浄化作用即ち病気が起り易い訳である。」                   (「肺結核」明医一  S17.9.28)

 

 血沈とは勿論血液の沈降速度の速いか遅いかを知る方法であって、沈降速度の速い程濁血であり、その重量による為である。医学に於ては速度十ミリ以上を濁血となし、十ミリ以下を浄血としてゐるが、ただ之だけならば私のいふ濁血者浄血者を機械的に測定する一の方法として異議はないのであるが、茲に見逃す事の出来ない事は、濁血者は結核容疑者となし、勤労までも停止させる事で、茲に問題の発生があるのである。

 

  濁血保有者を結核容疑者とみる事は如何なる訳であらうか、私の推測によれば曩に述べた如く感冒や微熱の原因が、濁血の為の毒素溜結に対する第二浄化作用であるから、それが結核に罹り易いとの推定の為であらうと想ふのである。勿論濁血保持者は感冒的症状が発生し易いのは事実であるが、それだけで結核又は結核容疑者と断定する事は余りに早計である。(中略)

 

  次に、今一つ重要な事がある。それは血沈測定の為、血液採集の場合、胸の肱際隆起せる部からであるが、之には異議がある。それは右の部は、注射液の薬毒が最も集溜し易い所であるから、其部から採集する以上特に濁血である事は勿論である。

 

 然るに医学の解釈によれば、血液なるものは、人体如何なる場所と同一としてゐる事であるが、私の研究によれば、人体各部の血液は一定せず、汚濁の濃淡は非常に差異があるのである。それは浄化作用によって血液が循環しつつ、汚濁を一局部に集溜させつつあるからである。世間よく欝血するといふが此事に外ならない。

 

 例へていへば血管とは溝のやうなもので、新しいか又は清潔なる場合、水は広く速く流れるに反し、不潔なる溝に於ては、水は流れるには違ひないが、溜泥の為細く遅く流れるといふ訳である。之は医家に於て、各部の血液を試験すれば明瞭となるであらう。

 

 此事の證左として、人体各部の熱の差異の著るしい事であって人により左右腋窩の体温が五六分の差違ある者がある。故に今日の体温計の如く、腋窩や口中の体温を計るのみでは不完全であるから、人体各部の温度を測定し得べき、進歩せる体温計が出来ればいいと、私は常に思ふのである。」                          (「血沈」結正  S18.11.23)

                                         (「結核問題」天  S22.2.5類似)

 

 血沈とは血液の清濁を試験する方法であるから、濁っている程毒の粒子が多いから、沈降速度が早い訳である。勿論此毒粒子も薬毒が原因で、濁血者は浄化が起り易いから、間接的に結核にも関係がある訳である。」     (「結核附随病」結信  S27.12.1)

 

     〔レントゲン写真〕

 

 「(中略)レントゲン写真に顕はれたる胸部の雲翳の有無によって、医家は結核非結核の断定を下すが、一体此雲翳なるものは如何なるものであるかといふ事であるが、勿論あってはならないものには相違ない。然し乍ら、雲翳だけによって、必ずしも肺臓内に於ける結核の病竃とはいへないのである。何となれば写真は平面的に写るものであるからである。

 

 私が多くの経験上雲翳の殆んどは肺臓内ではなく肺臓外、即ち胸部及び背部の皮下肋骨附近にある毒素の溜結のそれである。故に、もし肺臓内に毒素溜結があるものとすれば、必ず呼吸に異状がなければならない筈である。その理由は、毒素溜結の容積だけ、肺臓全体の容積が減殺されるからである。

 

  然し乍ら、レントゲン写真撮影に於て、正面からではなく、側面からも部分々々に撮影し、正面写真と照合する場合、肺臓内も適確に知り得るので、斯様な方法を医学も特殊の場合行ふのであるが、普通特に集団的に多数者に、右の如き方法を行ふ事は到底不可能であるから、実際上正面だけの撮影で満足するの余儀ない訳である。

 

 右の如くであるから、実験上肺臓内に毒素溜結ある者は、少くとも結核第三期以上でなければならない筈であるから、早期診断時の場合、右の如き重症性即ち肺臓内の異常者は一人もないといって差支へないのである。従而今日行はれてゐる如き平面写真の雲翳のみを以て肺臓内に疾患ありと見做し、直ちに結核と断定する事は余りにも軽卒であらう。

  之に就て、今一つ見逃し難い事は、肺臓外の雲翳が、第二浄化作用即ち発熱によって溶解し、液体となった毒素は肺臓内に浸潤し、喀痰となって排泄せられ、浄化が完全に行はれ、雲翳は消滅するのである。」       

              (「レントゲン写真」結正  S18.11.23)

             (「肺結核」明医一  S17.9.28類似)

 

 「(中略)医学の診断に於てはレントゲン写真を頗る重要視してゐるが之に就て解説してみよう。

 

  レントゲン写真に表はれたる胸部の雲翳の有無大小によって診断を下すのであるが、一体この雲翳なるものは何であるかといふ事である。私の研究によれば之は胸部又は背部に滞溜せる毒素の固結である。

 

 然るに多くの場合、肺臓の外部即ち肺膜外、肋骨及び其附近の筋肉中に溜結せるものであって、肺臓内部に固結のある事は極めて稀である。ただ此場合肺臓外か肺臓内かの区別は容易に判明する。それは肺臓内の場合は呼吸に影響するからで、呼吸に異常のない場合、肺臓は健全であるとみてよいのである。

 

  又写真は平面的であるから、肺臓の内外前後等の判別は付け難いのであるが、医学は雲翳さへあれば直に肺結核と断定するのであるから寔に軽率といふべきである。故にレントゲン写真の診断は不正確といふべきである。(中略)」                       (「結核問題」天  S22.2.5)

 

     〔胃 腸 障 碍〕

 

 「(中略)絶対安静によって結核者は運動不足となり非常に胃腸を弱らせる。之は健康者と雖も絶対安静を永く続くるに於て、胃腸は睡眠状態となり衰弱するのが当然である。況んや病者に於てをやである。私は此絶対安静程不可なるものはないと思ふ。此点も後段に詳説する。即ち消化薬連続服用が逆効果を来し、発熱が食欲を鈍らせる等、実に結核者の胃腸障碍は多くの場合致命的ともいふべきである。

 

  そうして特に注意すべきは、結核と診断された患者の大多数は化膿固結性腹膜炎を保有してゐる事である。此症状は腹部は普通の腹膜炎の如く膨大がないので、医診は発見出来得ないのであらう。腹部は寧ろ縮小してゐる者さへあるが、触診すると硬化著しいのと熱感によって知らるるのである。故に硬化が胃腸を圧迫し、食欲不振の原因となり、腹部の固結が浄化排除さるる場合持続性下痢となるので、医家は之を腸結核と誤るのである。

 

 此固結膿は咳嗽、喀痰、呼吸逼迫の原因ともなるので、之等の腹部症状の患者に対し医家は結核者となすが私は之等の患者に対し、腹膜治療を施すに於て漸次快方に向ひ畢に所謂結核は治癒するのであるから、医家の誤診も亦甚だしいといふべきである。」   (「結核問題」天  S22.2.5)

 

    〔呼吸困難及び疲労〕

 

 「呼吸困難――此症状も結核者に最も多く、患者によって差異が甚だしいが、何れかといへば悪性である。そうして此原因は左の如くである。

 

  1、肺臓内に毒素滲透し、それが多量の場合肺の容積が減少する為、必要量の空気を吸収するには呼吸回数を多くせねばならず、その為の場合

 

  2、肺膜外に、既往症である湿性又は化膿性肋膜の治癒後、その残存膿結のある場合、浄化発生によって呼吸に支障を与へる。

 

  3、横隔膜附近の膿結に浄化発生の場合、之が呼吸に圧迫を及ぼす。

 

  4、発熱により全身各局部特に肋骨附近にある毒結が溶解し肺臓に滲透せんとする場合肺自体がそれを吸収せんとし、呼吸運動が強化さるる場合

 

  疲労感――之は発熱及び体力消耗による全身的衰弱の為である。」          (「結核問題」天  S22.2.5)

 

     〔結核菌について〕

 

 「茲で、結核菌に就て大いに注意したい事がある。医学では結核菌は、伝染するとして恐れるが、それもない事はないが、大部分は自然発生である。前述の如く最初喀痰が肺臓内に侵入するや、医療は固めて出なくするので時日の経過につれて腐敗し、微生物が発生する。之が結核菌である。そうなった痰は悪臭があり、粘着力が強いものである。

 

 考へてもみるがいい。如何なる物質でも古くなれば腐敗する、腐敗すれば微生物が湧くのは物質の原則である。ましてや体温といふ好条件も手伝ふからである。之によってみても最初の寒冒時、肺臓内に喀痰が滞溜した時、極力出して了えばそれで済んで了ふ。それを一生懸命出さないやうにして腐敗させ、菌迄湧かせ、菌の蚕食によって空洞さへ作るのであるから、結果から言えば善意の加害的行為とも言へるであらう。」      (「肺炎と結核」文創 S27.)

 

 「(中略)茲で菌に就て徹底的に説いてみるが、医学に於ては菌の感染を恐れ、菌さへ殺せばいいとして、全世界の学者は殺菌の研究のみに耽ってゐるが、此考え方こそ抹梢的浅薄極まるものである。といふのはの感染は結果の問題であって、根本は菌そのものの発生原の探究である。

 

 何となれば菌と雖も突如として空中に湧いたものでもなく、何処からか飛んで来たものでもない。湧くべき理由と湧くべき根拠地があって湧くのである。従って仮令菌だけ全滅させる事が出来ても、その根拠地即ち原地がその儘であるとしたら、無意味であるのは分り切った話である。では菌の発生原地とは一体何処にあるかといふ事が問題の根本であり、それが分ると共に、原地の潰滅も可能であるとしたら、茲に結核問題は解決するのである。(中略)

 

  之を説くに当っては、先づ人間の霊に発生する曇りを知る事である。本来霊の本質は無色透明にして、最も稀薄な一種のエーテルである。此エーテルはその密度の高い事は、今日の顕微鏡の何百倍でも見る事を得ない程の超微粒子であって、それへ発生する曇りというのは不純水素の集合体であって、即ち純粋水素中に異物が混合してゐるのである。

 

 では右の如き不純水素が何故発生するかといふと、之こそ濁血の霊化したものである。既記の如く人間は霊主体従であると共に、霊体一致でもあるからである。此曇りが日を経るに従ひ、或程度濃度化するや、それへ一種のバクテリヤが発生する此バクテリヤの本質は植物性無機物であって、之が又日を経て有機化するので、之が即ち黴菌の幼虫であり、育って一人前になったものが顕微鏡で見得る菌である

 

 従ってヴィールスとは幼虫から菌になるまでの中間粒子であるから、顕微鏡では見得なくとも、確かに在る事は医学でも認めてゐる通りである。斯う分ってくると右の霊の曇りこそ、実に黴菌発生の原地である事は余りにも明かな事実である。

 

  以上によって、仮令、医学によって予期の如く菌を殺し得たとしても、肝腎な発生原地がそのままであるとしたら、後から後から無限に発生する以上、笊に水汲むやうなものである。それは今日迄殺菌薬や殺菌法が現はれても一時的で、いつか消えて了うのもそれをよく物語ってゐる。」                   (「結核の病原」医革  S28.)

 

     〔空 洞について〕

 

 結核の空洞・・・――私は合点ゆかぬ。解剖した事がないからはっきり言えぬ。気胸は肋膜へ空気を入れる、すると空洞の所が圧迫される。空洞は毒の塊とみている。解剖する時は毒の塊は死ぬと共に消滅するものと思う。何となればお浄めによって治るから空洞はない訳である。毒が圧迫して肺胞を押している。それを、毒が除れると空洞となる。

 

 人間の身体は咳痰が出る。咳は頭が多い。凡ゆる毒が痰になる場合必ず肺へ一旦行く。肺に痰があると――肺の中に痰がある。レントゲン等で見ると黒いものが見える。之は何か固形物がある。これは知っておかなくてはならぬ事である。其他腎臓に咳の原因がある事があり、これを除るとやはり肺に痰が行き、出る。大病院のある所、肺とか死亡が多い。医者が製造する。」         (「講話集補」S23.8.28.)

 

 結核菌が空洞をつくる?・・・

 

  肺胞におデキが出来ると膿が出る。その孔のようなものである。やがて元通りになる。医学はそれを保存するやり方である。」                              (「講話集補」年代不詳.)

 

 「医学では空洞といふが、間違ひだと思ふ。私は空洞だとは思はない。之は痰が固まって圧迫している。それで空洞が出来てるように見えるのであらう。大体肺病なんて医学で作った病気である。」              (「講話集補」S23.11.12.)

 

     〔気 胸について〕

 

 肋膜で気胸療法、浄霊しても変化なし・・・

 

  あまりよく固めた為である。身体中の毒は溶けると一瞬にどこへでもゆき、すぐに固まる。(毒は固まる性質がある)之は死体を解剖しても分らぬ。

 

 毒は液体にして出す為に熱で柔かくする。それを咳で出すといふ順序である。それをレントゲン等で肺と医診する。黴菌は肺中で繁殖し身体を弱らすと言ふ。医師は肺を治すと言はず固めると言ふ。それには一番いい方法は肺胞の活動を止める事で之が気胸である。

 

 肺膜の間へ空気を入れる。肋膜癒着などといふが、空気は入らぬ。それを肋膜で気胸すると言ふのは偽りでやはり肺である。よく固まっているから浄霊しても変化は来ぬ。固まり方と、その人の体力である。飲んだ薬は皆胃へ還元する。食欲のない時我慢して食ふのは極くわるい食欲起らねば半日でも一日でも食はなければよい。」

                                               (「講話集補」S23.10.22.)

 

 気胸療法した場合、その浄化は・・・

 

 気胸は浄化は来ぬ。やめれば元通りになる。肺の活動を停止する為、肺中の毒が固まる。それの浄化である。今に蕁麻疹が起るから予想せよ。」  (「講話集補」S24.9.16.)