第三章 信仰の向上を図るために
3、信仰の向上を目指して
② 入信(入会)後のあり方、姿勢
現在、我々の団体では浄霊力伝授と入会とがあります。
浄霊力伝授については、宗教宗派を超えて、現在他の宗教団体に所属されていても、浄霊の力を試してみたい、メシヤ様からお蔭をいただきたいという人は、「真の幸福を目指して」という冊子を購入して読んで理解を深めていただき、ホームページの「お問合わせ欄」から連絡していただければ「浄霊力拝受(準会員)申込書」を送付しますので、必要事項を記載して提出していただくと共に、会費の納入(振込)をしていただければ、申し込んでいただいていいということで、どの拠点でもそのように対応しております。
そして浄霊力伝授とは別に入会ということがあります。
この入会については、一般に言われている入信というような位置づけで捉えていただければいいと思いますが、メシヤ様の理解していただいて、それを受けて進めている我々のあり方を理解していただいて、我々を支えて下さると共に自らもメシヤ様の進められる御神業にお使いいただきたいという人にだけ入会していただくように進めております。
従って、我々の方からは一切入会の御願いはしておりません。自らの意思、判断で入会を申し込まれた場合は、教修を受けていただいて会員になっていただいております。
ですから、基本的には入会していただいた以上、神様に礼節を尽くすということで月次祭だけは必ず御参拝に来ていただくようにお願いしております。他の日は来なくてもいいけど、月次祭だけは来て神様に御奉告するぐらいの人じゃないと入会してもらってもいけないという考えであります。そのためにも本物であるかどうか、しっかりと見極めていただいて進んでいただきたいものです。メシヤ様御自身、下記のようにおっしゃっておられます。
「入信の場合何よりも大いに疑ってみる事」
「(前略)私は「信仰は出来るだけ疑へ」と常に言うのである。世間種々の信仰があるが、大抵はインチキ性の多分にあるものか、そうでない迄も下の位の神仏や狐、狸、天狗、龍神等を的(マト)としたものが多く、正しい神を的とする信仰は洵に少ないのである。従而厳密に検討を加える時、大抵の宗教は何等かの欠点を包含してゐるものであるから、入信の場合何よりも先づ大いに疑ってみる事である。決して先入観念に捉われてはならない。何程疑って疑(ウタグ)り抜いても欠点を見出だせない信仰であれば、それこそ信ずる外はないであろう。
然るに世の中には最初から「信ずれば御利益がある」といふ宗教があるが、之は大いに誤ってゐる。何となれば些かの御利益も認めない中から信ずるといふ事は、己を偽わらなければならない。故に最初はただ触れてみる。研究してみるといふ程度で注意深く観察し、出来るだけ疑うのである。そうして教義も信仰理論も合理的で非の打所がないばかりか、神仏の御加護は歴然として日々奇蹟がある程のものであれば先づ立派な宗教として入信すべき価値がある。
又斯ういう宗教もある。それは信者が他の宗教に触れる事を極端に嫌うのであるが、之等も誤ってゐる。何となればそれはその宗教に欠点があるか、又は力が薄弱である事を物語ってゐる。最高の宗教であればそれ以上のものは他に無い筈であるから、他の宗教に触れる事を恐れる処か反って喜ぶべきで、其結果自己の信ずる宗教の優越性を認識し、却って信仰は強まる事になるからである。
然し斯ういう事も注意しなくてはならない。それは相当の御利益や奇蹟の顕はれる場合である。正しい神仏でも人間と同様上中下あり、力の差別がある。二流以下の神仏でも相当の力を発揮し給うから御利益や奇蹟も或程度顕われるので、大抵の人は有難い神仏と思い込んでしまう。処が長い間には二流以下の神仏では往々邪神に負ける事があるから、種々の禍いとなって表われ苦境に陥る場合があるが、一度信じた以上何等かの理屈を附け、神仏の力の不足など発見出来ないばかりか、反って神仏の御試し又は罪穢の払拭と解するのである。
信仰者にして病気災難等の禍いがあり一時は苦しむが、それが済んだ後はその禍い以前よりも良い状態になるのが、上位の神仏の證拠である。即ち病気災難が済んだ後は、罪穢がそれだけ軽減する結果霊的に向上したからである。それに引換へ禍いが非常に深刻であったり長期間であったり、絶望状態に陥ったりするのは、その神仏の力が不足の為邪神に敗北したからである。
世間よく凡ゆる犠牲を払ひ、熱烈なる信仰を捧げて祈願するに関わらず思うような御利益のないのは、その人の願事が神仏の力に余るからで、神仏の方が御利益を与えたくも与えられ得ないという訳である。此様な場合、これ程一生懸命に御願いしても御聞届けがないのは、自分は最早神仏に見放されたのではないかと悲観し、此世に神も仏もあるものかと思い信仰を捨てたり自暴自棄に陥ったりして益々悲運に陥るという例はよく見る処である。
斯ういう信仰に限って断食をしたり、お百度詣りをしたり茶断ち塩断ちなどをするが、之は甚だ間違ってゐる。個人的にどんな難行苦行を行ったとしても、それが社会人類に些かの裨益する所がなければ徒労に過ぎない訳で、斯ういう方法を喜ぶ神仏があるとすれば勿論二流以下の神仏か又は狐狸天狗の類である。
故に正しい神仏であれば、人間が社会人類の福祉を増進すべき事に努力し、その効果を奏げ得た場合、その功績に対する褒賞として御利益を下し給うのである。
序でに注意するが昔からよく「鰯の頭も信心から」と謂う事があるが、之は大変な間違いであって、すべて信仰の的は最高級の神仏でなければならない。何となれば高級の神仏ほど正しき目的の祈願でなくては御利益を与えて下さらないと共に、人間が仰ぎ拝む事によって清浄なる霊光を受けるから、漸次罪穢は払拭されるのである。
鰯の頭や低級なる的に向って如何に仰ぎ拝むとも、低級霊から受けるものは邪気に過ぎないから、心は汚れ自然不善を行う人間になり易いのである。それ等を知らない世間一般の人は、神仏でさえあれば皆一様に有難いもの、願事は叶えて下さるものと思うが、それも無理はない。尤も昔から神仏の高下正邪等見分け得るやうな教育は何人も受けてゐないからである。
そうして狐、狸、天狗、龍神等にも階級があり、力の強弱もあり、正邪もあるが、頭目になると驚くべき力を発揮し大きな御利益を呉れる事もあるから信者も熱心な信仰を続けるが、多くは一時的御利益で、遂には御利益と禍いとが交互に来るというような事になり、永遠の栄は得られないのである。以上説く処によって、信仰の場合一時的御利益に眩惑する事なく、其識別に誤りなきよう苦言を呈するのである。」
(「正しき信仰」 昭和24年1月25日)
そうして本物であると確信されたならば、前に進んでいただきたいものです。
そして、入会された方は、さらにメシヤ様の御教えを学び新しい価値観を知り、自分自身の向上と共に、御教えを生活の中に活かし、すばらしい人生を歩んでいただきたいものです。
また、浄霊力拝受された方も、メシヤ様の御教えの学びと実践を通して、真理に目覚めていただきたいものです。ここでは、入会後のあり方、姿勢について学びたいと思います。
「今までと信仰の根本が違う」
「(前略)昔みたいに「祖師は紙衣(カミコ)の五十年」なんて、あれは親鸞でしたかね。五十年はしなかったかも知れませんが、まあ、それ位質素にしたって訳ですね。日蓮だって乞食坊主みたいになって法を説いたんですが、今日は時代が違ふんです。今はそんな事をしても、世の人が相手にしませんよ。草鞋ばきで行脚したり籠を使ったりした時代と、自動車や飛行機がある時代とは違ふんです。昔の様に草鞋ばきで歩き廻るんでは全世界を救ふ事は出来ませんよ。所が、今迄の観念があって、質素倹約して乞食坊主みたいにしてなければ有難がらない人がありますがね、あれも困ったもんですよ。つまり、信仰の根本が違ふんですよ。
昔の信仰、今迄の信仰っていふのはね、禁欲的な、まづい物を食って、ボロボロの着物を着て、粗末な家に住んで、それがいゝ事としてゐたんです。所があれは間違ってゐるんですよ。一体、綺麗な花が咲き、いゝ景色があるっていふのは、神様が之を無駄に作ったのではない、人間を楽しませる為に作られたんです。美味しいものだってさうです。人間を楽しませる為に作られたんです。それを、態々まづいものを食ひ、粗末な着物を着るってのは、神様の御気持に対する一つの叛逆ですよ。天国を作る、その天国ってのは、真、善、美の世界です。その美っていふのは一体何ですか? 綺麗な家に住み、美しい着物を纒ひ美味しい物を喰べるっていふのは美ぢゃないですか。何よりの証拠はね、邪神はとても花を嫌ふんです。そこの床の間にも花が生けてあるでせう。だから、必ず部屋には花を飾らねばいけないって、之は私が前から言ってる事ですがね。仏様に花を上げるっていふのもそれなんです。花は霊界に非常にいゝ影響を与へるんですよ。私の所ではどの場所でも大抵花をおいてあり、花のない部屋はない位です。(後略)」
(御光話録8号 昭和24年3月)
「人を天国にあげたいと思えるような人に」
「(前略)私は前に大本教にはいった頃に、家内が“自分はどうも地獄に行きそうだから、天国に救われたい”と言うから、“オレは地獄に行っても結構だ。世の中の人をみんな天国にあげてやって、それで地獄に行くのなら行ってもよい。君とはあべこべだね”と言ったのです。そうしたら“それはあなたは男だからです。女はそうはゆきません”と言うのです。ですから地獄に行きたくない天国に行きたいという事と、自分は地獄に行っても人を天国にあげたいという事は根本的に違います。ところが実は、人を天国にあげたいと思うような人なら、自分も天国にあがります。それで自分が天国に行きたいと思う人は、地獄に行く事はないでしょうが、天国の下の方か中有界ぐらいでしょう。」
(御教え集23号 昭和28年6月27日)
「信仰の根本は本人の自由意志であって、止むに止まれぬ信仰心が湧くのが根本」
「(前略)何より心得べき事は、信仰の根本は本人の自由意志であって、止むに止まれぬ信仰心が湧くのが根本である。それを何でも彼んでも無理に分らせようとするから逆効果となり、反って入信の時が遅れるのである。これに就いて一番知らねばならない事は、世の中の事は二二が四ではいけない。二二が、六、二三が七というように、理外の理のある事を悟るべきで、特に信仰に於てをやである。つまり何事も結果によって判断すべきで、これが千変万化、融通無碍の観音行であるから、この理を充分肚の底へ畳み込んで活動すれば、必ず巧くゆく筈である。(後略)」
(「御神体奉斎に就いて」昭和29年4月7日)
「入信とは人を救ふ力と、救うやり方を教わる事」
「(前略) この人は入信してからどういふ事をしてゐました?(やっぱり眼科医を続けて居ります。奥さんの方は御浄霊をして居りました。)この御道を弘める方はやってないんですね?(はあ、全然やって居りません。)ですから御守護がないんですよ。この「入信し放し」っていふのは何にもなりませんよ。入信するって言ふのは人を救ふ力と、救ふやり方を教はるんですからね。丁度学校へ入って学問をする様なもんです。だからそれを生かさなくちゃ駄目ですよ。そして、それを活用した人を神様は御守護なさるんですよ。神様は一人でも多く助けようとなさるんですからね、人を救はなくちゃ駄目ですよ。それでなくちゃあ生存の価値がありませんからね、御守護だって頂けませんよ。」
(御光話録7号 昭和24年4月4日)
「ぶっつけられた仕事をすればよい」
「(中略)ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さない方がよいです。たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういう事は考えない方がよいです。ぶつかって来た人は救えという事なんだから、それはやればよいのです。」
(御教え集23号 昭和28年6月7日)
「人を救い、喜ばせ乍ら、自分も向上する」
「(前略)ですから、思う様に行かないという事は未だ自分に霊的に資格がないのです。で、霊が浄つて魂が浄まれば思う様にいくのです。そういう風に出来ているのです。思う様にいかないという事は、それは未だ自分に曇があるのです。その曇を苦しんで除らないで愉快に除るというのがメシヤ教の真髄です。それには人を助けるのです。そうすると人の感謝に依つて其人は始終光を受けますから、それでこつちの魂が浄まるのです。つまり難行苦行の代りに人を喜ばせ、人を助ける、それに依つて同じ結果を得られるというわけです。そこで人を助けるには、やつぱり話や説明や何かが上手(ウマ)く出来なければならないから、其為に御神書を読む。又御神書に依つて、色んな真理を知りますから魂も浄まります。それと共に人を救う力もそれ丈出ます。そうして人を救い、喜ばせ乍ら、自分も向上するという事になるのです。(後略)」
(御教え集15号 昭和27年10月6日)
「入信にも人各々時期がある」
「今日の世の中は無神論者が充満している事は、誰も知るところであるが、それに対してよく信者は憤慨したり、昂奮したりして説得しようとして非常に骨を折るが、そういう時は神様は御笑いになっているのである。というのは入信するとしても人各々は時期がある。従って先方が神様の話に耳を傾ける迄は言わない方がよい。先ず栄光、地上天国などを見るように仕向けて、後は時を待つのである。そうすればどんなカンカンな人でも、何れは一たまりもなく兜を脱ぐ事になるのは勿論である。(後略)」
(「無神と有神」 昭和28年9月10日)
「(前略)矢張り御母さんが沢山人助けをして徳を積むんですね。御母さんがよくなって浄まれば、親子は霊線が繋ってゐるから、それによって娘さんもよくなります。先づ御自分が徳を積む事です。之によってその魂が光りますから、その光が娘さんに及んで、邪魔してる霊は次第に萎縮して遂には離れてしまひます。すべて一家の中で或者が反対してゐる場合でもそれでいゝんですよ。」
(御光話録6号 S24年3月)
「下根の人とわかれば諦める」
「(前略)茲に一人の人間があるとする、その人は、病気とか災難とか、兎に角不幸に苦しんでいる場合、偶々本教の話をするや、飛付いて直ちに入信し救われる人もあり、何だ彼んだと反対を唱えたり、疑い乍ら兎も角病気を治してもらいたいと浄霊を受け治った事実に驚いて入信する人もある、之等の人は前者は上魂であり後者は中魂である、処が世の中には下根の人も沢山いる、寧ろ一番多いかも知れない、斯ういう人にはいくら説明しても奇蹟をみせても頑として信じない、如何に骨折っても無駄である、斯ういう人に入信を奨める事を豚に真珠というのである、従而斯ういう人には、一応の話をしてその態度で判断をし、下根の人と知れば諦めた方がよいのである、見込のない事に骨折る事は時間と努力の浪費に過ぎない、甚だ非能率的であるからである。」
(「豚に真珠」 昭和25年4月8日)
「信仰に入っただけじゃ駄目」
「この人も、今話した陰徳を積むのが一番いゝんです。気が弱いってのは魂が弱いんで、魂に力がないんです。それで、外部から霊線を伝って霊が来る時、その人の霊が怯(オビ)えるんです。丁度、根の張ってないヒョロヒョロした木みたいなもんですね。霊が太って強くなれば怯える事は無くなるんです。そして信仰が強くなればそんなのはなくなりますよ。神様が何とかして下さるといふ、神様に御任せして御縋りするといふ想念が強くなると、気の弱いのは無くなってしまふんです。信仰がだんだん進むとね、(中略)神様が守って下さるから大丈夫だ――と思ひますからね。
何といっても人を助けて感謝を受ける様にして魂を太らす事ですね。だから、信仰に入っただけぢゃ本当ではないんですよ。信仰に入るってのは、人を救ふ方法を教はるんですから、教修を受けてから多くの人を助けて、それで本当の御利益も頂けるんですよ。教修を受けたってのはたゞ門に入ったゞけですからね、それから玄関、更に奥の御座敷にまで行かねば嘘ですよ。」
(御光話録9号 昭和24年)
「ない命を救われた場合、私有財産ではなくなる」
「之は、お蔭話ですけれども、一旦霊界に行つて、天国を見せて貰つたんですが、良い塩梅に神様から命を貰つたんですね。つまり命の継ぎ足しと言うんです。人間の寿命と言うのは、生れ乍らに決つているんです。幾つの時死ぬと言う事がね。そう言う時には、一旦死ぬ型をするんです。そうして、継ぎ足しを戴くんですね。之は、良く解るんです。入信すると、そう言う事がよくあるんですね。命の継ぎ足しに、極く軽いのと重いのがある。極く軽いのは夢で見るのですがね。あれは、命の継ぎ足しを夢で済ませるんです。極く重いのは、之ですね。息が止まつたり、冷くなつたりして――この人は汽車の中であつた。非常に面白く、正確にいつてますからね。
こう言う風に助かつた人は、それからの命は神様から戴いたんですね。それを私有財産的に使つてはいけないんですね。やつぱり、そう言う因縁のある人で、神様が生かされて使われるんですから、素直にそうやれば、未だ随分長生きが出来るんです。よくそう言うのがありますよ。女にはありませんが、男にはよく命を貰つてから欲張つて、銭儲けをして、結局死んじゃいますがね。」
(御教え集6号 昭和27年1月27日)
「人が判らない時は時期を待つ」
「(講習生が判らない時は――)
時を待つのがよい。人間が判らせるのではない。人が人を悟らせるとか、或は裁くとかいふことは僣上の沙汰です。判るように言ふべき事だけ言って、あとはその人の自由に任せたらいいのだ。判らない人は放っておいて時を待つ。そして神様にどうか早くあの人が判るようになりますようにと祈ったらいゝんです。第一、人に判らせようなどとしてゐてもその人自身判っちゃいないんだから。私の弟子は今沢山居るが本当に判ってゐる人は一人もありはしません。私だって判らせたいと思ふことはいろいろあるが、まだ時期でないから黙ってゐるのです。」
(御光話録 昭和23年5月28日)
「根本の根本というものは自分の魂の居所」
「(前略)例えてみれば“自分は信仰に入って有難い、よく分るが、どうも親父の奴は分らない”又“娘も伜もこれに反対してしようがない、どうしたらよいだろう”というように考えている人は随分あります。それは自分の霊層界の地位が低いからです。
若し自分が高ければ、自分の家族の者は霊線が繋がってますから、自分の霊が高上すれば、その繋がっている枝でも幹でも、自分の地位の方に引張り上げられるわけです。私が何時も言う“分らなかったらウッチャラかしておけ、急(アセ)って早く信仰に入れようという考えはいけない”という事はそういう事です。
ですからそういう事は全然考えないで神様に御任せして、自分だけが一人でも多くの人を助けて、神様の御役に立つというようにすれば、自分の霊が上って行きますから、そうすると他の者も自然につり上げられるから、黙っていても分るというわけです。結局において、根本の根本というものは自分の魂の居所にあるのです。
ただし魂だけが上に行っても、自分の霊や或いは肉体が伴なわないという事は、そこにまだ汚れがあるからで、それの浄化が起こるわけです。しかしそういう場合には浄化が早く済むわけです。そういう事が分ると、別に迷う事や苦しむ事はないわけです。しかしそこまで覚れるという事がなかなか大変なのです。この覚りは本当の真理です。(後略)」
(御教え集30号 昭和29年1月27日)
「一番肝腎な事は、小乗と大乗を弁える」
「(行為は人格の現はれと考えられる時と其反対に考えられる時とありますがどちらが本当でせうか。)
人格の表はれが本当である。反対に考えられるのは、人格と逆であるからで、これは本当ではない。然し世の中には、人格を高潔に見せようと努むる者が沢山あり、之が反つて偉い人に思はれる場合もあるが之は長くは続かない。一番肝腎な事は、小乗と大乗を弁える事である。小乗的に偉くみえるのは本当でない。本当の人格者は、全人類の幸福を念願する。世界主義的の人である。」
(地上天国16号 昭和25年8月15日)
「苦しむ方に罪がある」
「(前略)夫が帰れというのだから実家へ帰つて、一生懸命信仰に励み、徳を積む事が最もよい。貴女が苦しむのは、あなたに罪があるのだから、徳を積んで罪を消す事である。消えただけは幸福になるのであるから、今後其方針で進み、後は神様にお委せすれば、必ずよくなるのである。次に反対者には何とかして、「栄光」か「地上天国」を読ませるようにするのが一番よい。」
(地上天国23号 昭和26年4月25日)
「他人から憎み、怨み、嫉み等の想念を受けてはならない」
「(前略)人間の凡ゆる思想行為を分析する時、善悪孰れかに属する事は今更いふまでもないが、霊衣の厚薄も善悪の量に比例するのである。即ち善を想ひ善を行ふ場合、内面的には良心の満足感が起るので、その想念は光となり、之が霊体に加って光を増す事となり、その反対である場合、悪は曇となって霊体に曇りが増す。
又外面的には人に善を行ふ時は相手の人の感謝の想念が光となって、善行者に対し霊線を通じて伝達するから光が増す事になる。其反対である場合、怨み、憎み、嫉み等の想念は曇りとなって伝達して来るから曇りが増すのである。之によってみても人は善を行ひ他人を喜ばすべきで、決して他人から憎み、怨み、嫉み等の想念を受けてはならないのである。(後略)」
(「霊波と霊衣」昭和22年2月5日)