概 論
1,メシヤ様の人間観と健康観
⑦ 病気になる原因
3,血液について
「(中略)精霊が精霊の一部、例えば肺臓の部分に、曇りを生ずるとする。すると、其部分の血液が濁るのである。濁りが進めば化膿する事になる。此濁った血が、喀血又は血痰となり、化膿した膿汁が痰となるのである。」
(「病気の本体は魂なり」医講 S10.)
「(中略)薬剤その物は、血液中に混入するのである。元来、血液は、絶対的純潔を保たなければならない性質のものであって、人間は血液さへ純潔ならば、黴菌に対する殺菌力の強烈なるは之も、前項に述べた通りであるから、病魔には襲はれないのである。又血液純潔ならば、其人は外界に対する抵抗力が強きを以て、冬の寒さも、夏の暑さにも、割合耐え易く、常に朗らかにして、元気旺盛なのである。現在非常に多い、神経衰弱等は、血液の溷濁(コンダク)が原因である。」
(「薬剤中毒」医講 S10.)
「(中略)人間の健康上最も緊要なのは清浄なる血液である。然るに、此血液を浄化する方法は、今日迄絶対に発見されてゐなかったのである。薬剤も、光線も、電気も、此力は無いのである。それは、血液なるものは精霊の物質化である以上、血液を浄めんとすれば、どうしても先づ精霊を浄めるのが先である。」
(「霊と血と正しき信仰」医書 S11.4.13.)
「(中略)血液は、赤血と白血とに成っております。赤血は「日の霊素」から成り、白血は「月の霊素」から成っております。赤血が速く流れるのが、動脈で、白血が緩かに流れるのが静脈であります。之は、健康時の状態であります。病気になると、「月の霊素」は「膿汁」と化し、「日の霊素」は「毒血」に化するんであります。」
(「人体の構成」療講 S11.7.)
「(中略)人間の健康及び不健康とは如何なる原因に因るかといふと、それは血液の純不純に因るのである。即ち健康とは浄血の持主であり不健康とは濁血の持主である。」
(「感冒とは何か」結正 S18.11.23.)
「(中略)医学の解釈によれば、血液なるものは、人体如何なる場所と同一としてゐる事であるが、私の研究によれば、人体各部の血液は一定せず、汚濁の濃淡は非常に差異があるのである。それは浄化作用によって血液が循環しつつ、汚濁を一局部に集溜させつつあるからである。世間よく欝血するといふが此事に外ならない。例へていへば血管とは溝のやうなもので、新しいか又は清潔なる場合、水は広く速く流れるに反し、不潔なる溝に於ては、水は流れるには違ひないが、溜泥の為細く遅く流れるといふ訳である。」
(「血沈」結正 S18.11.23.)
「(中略)茲で血液に就て説明するが、血液そのものは物質であるが、之を霊的に観る時、活力の源泉である霊細胞で、曰はば霊の物質化が血液である。」 (「精神病」天 S22.2.5.)
「(中略)人体は霊の物質化したものが血液であり、其反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊体は一致している。従而、濃度化した曇りが体に映ると濁血となり、それが一層濃度化したものが固結であり、此固結が溶解され液体となって、身体各所から排除されようとする。其苦痛が病気である。」
(「霊主体従」結革 S26.8.15.)
「(中略)血液と漿液は半分々々なのです。それで血液の不純分子が漿液の中にはいると、それは膿になるのです。赤と白がありますが、血液の中の不純分子は赤です。その不純分子がだんだん時がたつに従って変化して膿になるのです。それが漿液の中にはいるのです。ですから血液の不純分子をとると、漿液の中にはいって膿となるべき物をそれで済んでしまうという事になります。(中略)
血膿と言いますが、血と膿が両方混じっているのです。血液と漿液と両方ですが、漿液の方は膿です。血液の方は赤い不純分子で、漿液の方は白いのです。それは共通しているのです。血液の不純分子は白に変化して漿液の中にはいっているのです。(中略)
(漿液と不純分子の関係はどういうようになりましょうか)
漿液は水です。それで漿液と血液は密着しているものです。血液でも水分ですから液体ですから、血液の液体の分だけが漿液になるのです。だから医学の方で白血球が増えるという事を言いますが、あれは血液の不純分子が変化して膿になったのです。膿というのは白いのです。ですからこの間の、子供の白血球が多いという病気はそういうわけです。そうしてそれが又固まりますから、白い物が固まった物が本当の毒素になるわけです。切って膿が出るというものです。ところが固まらないで、白いままで相当濃厚なのがありますが、それは白血球過多症というのです。つまり変化という事を、医学の方ではまだ頭にはいってないのです。だからこう(御浄霊)やっているうちにも僅かずつは不純分子という物は白血球になりつつあるわけです。(中略)」
(「御垂示録20号」 S28.5.1.)
「(中略)(漿液は血液の水分であると……)
漿液は一切の水分です。ですから血液の水分にもなります。
(そうすると又、漿液の中に流れている膿というものが、神経を使う所に固まる、それが毒素という事になり、血の中に凝結して残っている部分と、それが漿液に混る部分と……)
それは、血の方も膿の方も、両方とも漿液になるのです。ただ、血液が古くなると膿になるのです。しかし血液の時も、古くなった時も、やっぱり漿液……です。漿液から離れる事はないです。
(血管内の血液も漿液に……)
漿液になります。血管があろうとなかろうと、凡て漿液です。水分は人間の七割としてあるでしょう。七割だけ水分になっているわけです。人間の身体というのは水分と思えばよいです。(中略)」
(「御垂示録29号」 S29.3.1.)
「(中略)輸血した血は決してその人の血とはまじりませんからね、やがて痔の出血だとか、喀血だとかして排除されますよ。――この御浄霊といふのは霊的輸血ですよ。これが本当の輸血ですよ。血液の霊化したものがこれ(御浄霊)ですからね。だから五分位御浄霊すれば、二百瓦輸血するよりも血が多くなりますよ。出血が多いと霊が稀薄になるんですが、御浄霊で霊を足すと血が出来るんですよ。だから息の絶えたのが、御浄霊で生き返るって事がよくあるんですよ。」
(「御光話録7号」 S24.4.4.)
「血液型ってのは民族に関係があるんです。日本民族にも霊的にいろんな系統があって、その違ひが血液型に出てるんですよ。(中略)」
(「御光話録18号」 S24、5、)
「(血液は霊の物質化と伺っていますが、血液にA型、B型、AB型、O型がありますが、之に就て)
厳密にいふと人種的関係がある。日本には大体四種ある。日本、支那、朝鮮と土匪(コーカサス地方から入り込んだ)である。何れ発表するが、時期の関係で未だ早い。はっきりすると天皇に関する事が根本になっているので――。」
(「講話集補」S25.5.5.)