「抑々、健康を説くに当って第一に心得るべき事は、健康の真諦は自然順応であり、自然尊重である事である。それに就て先づ考ふべき事は、造物主即ち神が人間を造られた御目的は何であるかといふ事である。吾等の解釈によれば、それは真善美の完き世界を造る事である。といっても斯んな途方もない説は容易に受入れ難いであらう。
勿論、其様な理想世界は何万何十万何百万年かゝるかは分らない、としても世界はそれに向って一歩々々進歩向上しつつある厳然たる過去の事実を見れば否定も出来得ないであらう。そうして神は霊で人間は体であり、両々相俟って無限の進歩を遂げつつあるのが実相で、其担当者として人間があるのはいう迄もない。
以上の如くである以上人間の責任たるや実に大なりというべきであると共に、此大事業を遂行する何よりの条件としては、人間の健康である。此意味に於て神は人間にはそれぞれの使命を与え、任務を遂行するに足るだけの健康を与えられているのは当然である。何となればもし健康を害ふとしたら、神の御目的は達せられないからである。先づ此道理を基本として深く考えるとしたら、健康こそ人間の本来であり、常態であらねばならない。然るに不思議にも人間は病気に犯され易い。即ち異常体となるのである。とすれば此事の根本が明かに判り異常体を正常体に復活せしむる事こそ神の御目的に添ふ事になるのである。
右の意味によって、人体の異常化を検討する時、何を発見するか。それは何よりも自然に反する為という事である。故に此反自然の実態を把握し訂正し、常態に復元する事こそ真の医学であって、その復元の可能であるこそ、正しい医学のあり方である。随って反自然とは如何なるものであるかを以下詳説してみよう。
人間が此土に生れるや、最初は人乳又は獣乳を飲む、これは歯が未だ生えず、消化器能も出来たての脆弱性であるからで、漸次、歯も生え揃い、体内器能も一人前になるに従って、それに適応すべき食物を摂る事になる。又食物も凡ゆる種類があり、それぞれ特有の味はいを含んでをり、人体の方にも味覚を与えられ、楽しんで食するようになってゐる。其他空気も火も水も、人間の健康に必要な程度に存在してゐるといふやうに、実に完全に出来てゐる。人体と雖も頭脳から理性も記憶も感情も生れ、手によって物は造られ、足によって人体を自由に移動せしめ、毛髪も皮膚も爪も眼、鼻、口、耳等必要なものは、実によく備はってゐる。加うるに顔貌から全身まで皮膚によって包まれ、それぞれの美を発揮してゐる。
ざっとみただけでも、以上の如くで、仔細に検討する時、言葉では言ひ表せない造化の妙技である。一輪の花、一枚の葉、山水の美、鳥獣虫魚の末に至るまで、神技の素晴しさに感歎せざるを得ないのであるが、特に人間に至っては全く造物主の傑作である。特に種の保存としての生殖作用至妙に至っては言語に絶するものがある。此の様な神の大傑作である人体である以上、病という人間活動を阻止するような異変は、如何に反自然的過ちを犯してゐるかを考へるべきである。人間たるもの、此事に最も反省しなければならないのである。」
(「健康の真理」 S25.4.20)
「よく昔から人は病の器などと謂うが、之ほど間違った話はない、吾等はこれを訂正して人は健康の器なりというのである。前項に述べた如く元々人間は健康に造られたものであるからである。処が実は病なるものは人間に附物で、どうしても解決出来ないのが現実で、やむを得ず宿命として諦めて了ったのである。勿論人間一度病に罹るやなかなか簡単には治らない。長くかかったり頻繁に病気に罹ったり人によっては健康時よりも罹病時の方が多い事さへある。それが為病の器としか思えないのでそのような状態が長く続く事によって病の器などといふ言葉が出来たのであらう、といふのは病気の本体が不明であったからで、病気も死の運命も免れ得ないとされて来たのは無理からぬ事であった。(中略)
茲で再び本論へ戻るが、前述の如く病原である反自然とは如何なる点であるかを説明してみるが、先づ人間罹病するや唯一の方法として薬剤を用いるが之が抑々の誤謬である。薬剤とは漢方に於ては草根木皮、洋方に於ては鉱物植物等から抽出されるもので、これが根本的反自然である。考えてもみるがいい。右の如き薬剤の性質は必ず苦味、臭味、酸味等、例外なく人間の嫌忌される味を有ってゐる。よく昔から「薬の後の口直し」という事がよく物語っている。之等の呑み難いのは何故であらうかを考えるべきで、神は有毒であるから服んでは不可である事を示されてゐるのである。
彼の苦痛緩和用の麻痺剤としての阿片は罌粟(ケシ)の花から採るのである。元来芥子(ケシ)の花とは神が人間の眼を楽しませる目的で造られたもので決して人間が服むべく造られたものではない。又近時流行薬の一として用いられるペニシリンにしても、原料は植物の苔という事であるが、之等も人間が口へ入れるものとして造られたものではない。石又は土に美観を添える為のものである。
此理によって凡ゆる飲食物は人間の嗜好に適するよう造られている以上それを食えばいいので、それが自然である。よく何が栄養になるとかないとかいうやうな事などは勿論誤りである。食物は凡てその土地の気候風土によって幾分の差異はあるが、それがその土地に生れた人間に適すべく生産されてゐるのである。黄色人が米を食い、白色人が麦を食うのもそうであり、日本が島国であるという事は魚食を多くせよという事で大陸人は肉食である事もそれでいいのである。
此理によって農民の菜食も自然に適ってゐる。二六時中休みなく労働に堪え得るという事は、菜食が適してゐるからである。その理を知らない栄養学は近来農民に魚肉を食はせようとするが、之を行えば農民の労働力は減少するのである。それに引換え漁民は魚食の為持続的労働は出来ない、間歇的に労働する。又魚食は敏感性を高めるので漁業に適するので自然は実によく出来てゐる。
以上は、薬剤と食物の反自然的誤謬を概略かいたが、特に薬剤が如何に有毒であるに拘はらず、何故昔から応用したかという根本原理を漸次説き進めてみよう。」
(「人間は健康の器」S25.4.20)
「前述の如く、誤謬から出発した医学は、全然病気の真因も健康の要諦も未知であるから、病理の説明などは全然コジツケとしか思えない。即ち漢方医学に於ては、病気とは五臓六腑の不調和からといひ、西洋医学は「黴菌の侵犯である」とされてゐる。之を吾等からいえば、前者は反対である。五臓六腑が不調和としたら、浄化作用発生の力が出ないから、発病はしない訳である。又後者は微生物の侵犯というが、それも一面の理はあるが、微生物の侵犯のみが病原ではない、黴菌に関係のない病原も沢山ある。
又黴菌が侵入するや、発病するという事は、健康体ではないからで、真の健康体なら黴菌が侵入しても病気発生はない筈である。近来非常に黴菌を恐れ、黴菌防止に苦慮し、凡ゆる方法を施行してゐるのは、真の健康体が少なく、黴菌侵犯による発病者が大多数であるからである。吾等は之を別けて、前者を真健康といひ、後者を擬健康といふのである。然らば、如何なる原因によって真健康と擬健康との区別が生ずるかを説明してみよう。
前項に述べた如く、折角自然浄化作用発生するや、医学は之を反対に解釈する為、極力鎮圧する事を可とし、凡ゆる方法を行ふ。元来浄化発生といふ事は人間が健康であるからで、弱体であれば浄化力発生はないのである。例えば、人家に塵芥が溜るとする、家人が健康であれば掃除が出来るが病人ばかりでは掃除が出来ないのと同様である。勿論浄化作用は苦痛が伴ふので、それを間違って解釈し大病の発端のように恐怖し、一刻も速く止めようとする。それには浄化力を微弱にする事で、それには弱体化しなくてはならない。即ち先づ薬剤を用ひる。元来薬なるものは一つもない。全部毒である。之は薬物学者はよく知ってゐる。即ち先づ毒によって衰弱させやうとする。近来注射が流行するのは其為である。
之は毒が強烈であるから呑むと中毒を起すので皮膚から注入するのである。其他絶対安静も氷冷も湿布も、悉く衰弱法である。光線放射は折角溶解し始めた毒結を元通り否それ以上に固める。此様に凡ゆる衰弱方法の為注文通り、浄化は微弱となり、毒素は浄化発生以前の固結状態に還元するから一時的苦痛がなくなる。之を病気治癒と錯覚するのである。然し治癒でない證拠には暫く経つと再発する。之は折角固まった毒素が、健康恢復によって再び浄化作用が発生するからである。すると又しても衰弱法を行ふ。即ち薬毒使用であるから漸次、薬毒は累加する。
茲で薬毒に就て概略説明してみるが-- 前述の如く、病気の原因が固結毒素の浄化作用であるとすれば、その毒素は一体何であるかというと、之が殆んど薬毒であるから驚くのである。即ち先天性毒素とは、祖先や両親からの薬毒遺伝であり、後天性毒素とは生れてから入れた薬剤である。此事実によって先天性毒素に後天性毒素が加はるにつれて漸次毒素の量は増し、多量の毒素保有者となる結果、一時に大浄化が起る。之が肺炎、脳炎や一切の腫物初め、凡ゆる重難病の原因となる。然るに医療は相変らず浄化停止を可とし衰弱法を行ふが、そうなるとよほど強力な衰弱法でなくては効目がない。此点医学はよく證明してゐる。それは肺炎の特効薬などそうである。其際医家のいふ言葉は非常によく効く薬でうまくゆくと短期間に治るが、まづくゆくと生命がないといはれるのはその為である。言ふ迄もなく猛烈な浄化を停止するには生命に係はる程の猛毒性薬剤でなければ効かないからである。
以上によって、病気は浄化作用である事、医療とは浄化停止方法である事は判ったであらう。故に一言にしていえば、医療とは病気を治さない方法で、医学進歩とは治さない方法の進歩である。故に医家は病気を治すとはいはない、固めるといふにみて明かである。勿論固める為には前述の如く衰弱法を行ふ。それが無理をしない事、風邪を引かない事、大切にする事、睡眠を充分にとる事、薬剤を成可用ふる事等々である。之が消極的健康で浄化微弱の結果、病気発生が少なくなるので、之を健康法と誤認したのが今日の予防医学である。
以上の如く消極的健康者を吾等は擬健康といひ、今日の青白いインテリや、腺病質の小児など此種の代表的人間である。何よりも今日の医学衛生を忠実に守る者程此種の擬健康者が多い事である。斯ういふ擬健康者に一度黴菌が侵入するや、必ず発病し、生命の危険に及ぼすのである。之が今日黴菌を極端に恐れる原因でもある。右に対し吾等の発見した神霊医学は全然右とは反対で病気発生するや浄化をより旺盛にし不純物を出来るだけ速に体外へ排泄する、従而真の全治であるから予後は罹病以前より健康は増すのであるから、黴菌が侵入しても発生しない健康体になる事は勿論で、これが真健康である。何よりの證拠は本教入信後数年を経たものは全然黴菌など問題にしなくなる。何となれば伝染の恐れがないからである。斯様な幸福こそ吾等のみに与えられたる神の賜といふの外はない。以上の如き真医術の発見こそ人類救済の根本義たる事を知るであらう。」
(「真の健康と擬健康」S25.4.20)